二章 皇父、嵐雲を伴いて来たる

第1話 皇帝、父を迎える

 後宮における皇帝の居所である渾天こんてん宮に、翔雲しょううんは父である興徳王こうとくおうを迎えていた。


「ご壮健のご様子、心からお慶び申し上げます、父上」

「うむ。なんじも息災で何よりだ」


 皇帝といえども、父に対しては礼を尽くすものだ。実家と言うべき王府おうふにいた時と同様、恭しく揖礼ゆうれいした息子に、父は満足そうに頷いた。


 長く蓄えたひげを撫でつつ、渾天宮の調度や内装を見渡す父の目は、感慨深い。生まれ育った場所でもあり、長じて自身の王府に赴いた後も、兄である文宗ぶんそう帝を諫めるために何度となく通った場所のはず。最高の礼をもって迎えられたこの部屋で、父はかつては臣下として跪いたことがあるのかもしれない。


(歯がゆい思いもなされたのだろうな……)


 英明をうたわれながら、長幼の序列によって帝位は望めず、兄帝が国を顧みずに芝居に耽溺するのを長く座視しなければならなかったのだから。今の翔雲は、父の想いを継いで玉座にあるのだと思うと、改めて背筋を正さねば、と思えた。


 父を上座にして卓に着くと、ほうに描かれた龍も睨み合う格好になった。出された茶の香りを愛でるように軽く目を伏せ、父は口を開いた。


「今回は明婉めいえんも連れて来ているのだ。後で会ってやると良い」

「はい。あれも美しく成長していることでしょう。顔を見るのが楽しみです。妃嬪たちとも馴染んでくれると良いのですが」


 妹の可憐な姿を思い浮かべると、翔雲の頬は自然と緩む。父が躾けただけあって、明婉は淑やかかつ聡明でもあるのだ。香雪こうせつなどは話が合いそうだし、義理の姉妹として交流を深めて欲しいものだと思う。


「そろそろ明婉の縁談も考えねばならぬ。此度の状元じょうげん駙馬ふばにするというのは、どうだ」


 末娘を溺愛するのは、父も同じこと。茶器を置いた父の眼差しは柔らかく、声の調子も珍しく弾んだ風があった。が、翔雲がその言葉に素直に頷くことはできなかった。


「それは──明婉に釣り合う年齢の者ならば願ってもないこと。ですが、それほど若い状元など、滅多に出るものではございませんでしょう」


 状元とは科挙の主席合格者のこと、駙馬ふばとは公主の婿むこのことだ。難関を潜り抜けた才ある進士──科挙の合格者──に、皇室の姫をめとる名誉を与えるのは、古来よくあることではある。とはいえ、未婚の姫と独り身の進士が都合良く揃うなど、そうそうあるものではない。


 科挙合格は、才ある者が人生を勉学に捧げてようやく掴み取れるかどうか、というものだ。多くの受験者は俗事にかまける余裕はないし、当然のように実家や婚家の援助を受けねば生活が成り立たないと聞いている。


 もちろん、公主が降嫁するに当たっては、もといた妻は離縁されるか側室に落とされるものではあるが、家庭内に確執が生まれるのは火を見るよりも明らかだ。そもそも、科挙の合格者には四十、五十の中年にさしかかった者も珍しくない。


(倍も三倍も歳の離れた男に明婉を嫁がせるなどとんでもない。後妻にさせるのも考えられぬ)


 父も、その辺りの事情は重々承知しているだろうに、何を言い出すのだろう。不思議に思いながらも、翔雲は親を立てて正面から否定することはせずに笑みを作った。


「状元とは言わずとも、有望な若者を義弟に迎えることができるならば、この上ない喜びですが」


 言い終えた瞬間に父の目が鋭さを帯びて、翔雲に突き刺さった。まだ何も言われていないが、答えを誤ったのは、分かる。幼いころ、父に教えを受けた時に馴染んだ表情だから。

 兄帝の無気力を見て、父はせめて自身の世子せいしを鍛え上げることを決意したのだ。万が一の時には、栄和えいわの国を負えるように。その期待に応えるのは並大抵のことではなく、時には厳しい叱責も与えられたものだった。


「明婉は、我が娘の中では唯一、長公主として嫁ぐことになる。その位に恥じぬ盛大な婚礼を挙げさせてやりたい、という父の心は汲めような?」


 とはいえ、翔雲もとうに成人している。もの分かりの悪い幼児にするように、わざとらしいほど丁寧に言い聞かされると、反発を覚えずにはいられない。無論、父への抗弁は不敬にして不孝、実際には大人しく頷くだけなのだが。


「はい、それはもう」


 翔雲には姉も何人かいるが、彼女たちはすべて彼の即位前に嫁いでいる。すなわち、王の娘である群主ぐんしゅの身分で、ということだ。婚礼の規模や結婚相手の格も身分相応ということになるから、明婉は姉妹の中では誰よりも華々しく結婚を祝われることになるだろう。これもまた、分かり切ったことだった。


「ならば良いが」


 従順な答えにとりあえず頷いてから、父はやはりじっくりと噛んで含めるように続けた。


「汝のためでもあることだ。新帝の即位に際していち早く参じた才子には、篤く報いる姿勢を見せなければならぬ。さらには、長公主降嫁によって有力な家との結びつきも得られよう」

「進士たちは無論、重用いたしますとも。忠誠に報いるためでもありますし、才ある者には国のために働いてもらわねばなりませぬ」


(なぜ有力な家、と限定なさる……? 科挙とは貧富を問わず、万人に門戸を開いているものだろうに)


 嫌な予感を覚えながらも、翔雲は彼が信じるところを述べた。あまりにも当たり前のことだから、かえって父に試されているのではないかと思うほどだ。帝位にある者の心得を弁えているのか、と。


 けれど、父は今度の答えにも満足しなかったようで、目に失望の色が浮かべた。かつての翔雲が、もっとも恐れた表情である。


「廉潔さは美徳ではある。が、汝は愚直に陥ってはおらぬか」

「……若輩の身にて、不明はお恥ずかしい限りです。父上のお考えを、ご教示いただけますでしょうか」


 わずかに息苦しさを覚えながら乞うと、父はその素直さを認めてか微笑んだ。そして、ゆったりとした所作で茶器を持ち上げてもったいぶってから、を教えてくれる。


「汝を支えるに足る権門の子弟が会試かいしに臨んでおる。その者を合格させて明婉を与えよ、と言っているのだ」

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