第3話 皇帝、弁明する

 尊崇する父の憤怒は、翔雲しょううんにとっては本来恐れるべきものだ。


(さて、どこから説明したものか……)


 だが、今回ばかりは困惑が勝る。科挙の合否への不正めいた口出しといい、この訳の分からない邪推といい、いったいどうしてそのような考えに至ったのか理解しがたい。


「その宦官かんがんに与えたのは地位と賜服しふくだけではないそうだな!? 伏礼ふくれいを免除し、私、の自称を許したと──後宮の奴婢ぬひに過ぎぬ者には相応の卑称があろうに、なにゆえ過分の寵を与える!?」


 父のは、一応は事実ではあった。が、それだけに翔雲をうんざりさせた。


(後宮のこと、それもひとりの宦官のことをよく調べられたものだ)


 もうひとつ、これ見よがしに溜息を吐いてから、翔雲は父の誤解を解こうと口を開いた。激情が醒めた今、立って話を続けるのも体裁が悪い気がしたが、父は大人しく腰掛けてくれそうになかった。仕方なく、いたずらに指で卓を叩きながらの言葉になる。


「過分とは思いませぬ。《偽春ぎしゅんの変》での功に報いるためです。その者は──よう太監たいかんは、日和見の宦官どもを説得してちょう貴妃きひの暗躍を防ぎました。さらには、偽者を追い詰める決め手となる証人を見つけられたのも、その者がいてこそでした。何も与えぬようでは、私こそが忘恩ぼうおんそしりを受けましょう」


 くだんの美貌の宦官こと霜烈そうれつと、彼が見出した燦珠さんじゅの功績はそれだけではない。そして、翔雲がかの者を厚遇する理由も別にある。とはいえ、表向きの理由だけでも十分だろうと思ったのに──父は、疑わしげに目を細めた。


「その者の容姿は関係ないと言うのだな? 役者さながらの美貌と聞いたが」

「美しいのは確かですが、父上が邪推なさるようなことは、何も。月や星を見て劣情を抱く者はおりません」


 霜烈の美貌に対する正直な感想では、あった。だが、この場で口にすべき表現ではなかった、と気付いた時には、父が彼を見る目には侮蔑の色が宿っていた。


「まるで先帝のようなことを言う」

「そうでしたか」


 宦官の容姿を称賛することは、父にとっては先帝の戯迷しばいぐるいと同等の罪らしい。自身の失言が招いた事態だから、翔雲は淡々と相槌を打ってやり過ごそうと試みた。無論、そんなことでは父の機嫌は直らなかったが。


戯子やくしゃは声や舞を尊び愛でるものであって、はべらせるものではない、などと──綺麗ごとを言いながら、ちゃっかりと戯子やくしゃを孕ませたのだ、大兄たいけいは! それが回り回って昨年の騒動になった……!」


 苛立ちを紛らわすためか、大股で室内を歩きながら父が吐き捨てる言葉は、図らずも核心を突いていた。話題に出ている宦官が、まさに先帝が戯子やくしゃに手をつけて儲けた皇子だ、などとはまさか思うまい。


(そう……だから、まったく過分のことではないのだ)


 胸にぎる苦さを悟られぬよう、翔雲はそっと視線を上に向けた。鍍金ときんと華やかな彩色が施され、龍の彫刻がうねる格天井ごうてんじょうは、当然のことながら実家の王府よりも豪奢で格式高い。ここは、皇帝の居所なのだ。

 彼がこの渾天こんてん宮を住まいとすることができているのは危うい偶然の積み重ねでしかない。父に言われるまでもなく、承知していることだった。


 霜烈は、本来ならば父である先帝の寵を一身に受けて、皇族の一員として敬われていたはずだ。ほかならぬ父帝の手によって身体を損なわれることがなかったら、翔雲こそあの者の下に立つことになっていただろう。


 蟒服ぼうふくどころか、霜烈は龍袍りゅうほうを纏い翼善冠よくぜんかんいただいていたはずなのだ。そのような存在が床にひれ伏し自らを奴才わたくしめ、などと卑称するのを見るなど落ち着かないにもほどがある。父が過分と評した恩典の数々は、むしろ翔雲が勝手に押し付けたものでしかない。


(あの者はどうせ、秘華園ひかえんがあれば良いと言うのだろうな)


 同い年の従兄弟であるはずなのに、霜烈の胸の裡は計り知れない。不埒な意味ではまったくなく、あの美しい笑みを思い浮かべて翔雲が溜息を呑み込んだ時──父の、先帝への恨み言もちょうど終わったようだった。


「──なんじを惑わすほどの美貌なら見てみたい。くだんの者をここへ召せ」


 鼻息荒く命じた父は、息子が物思いに耽ってほとんど聞き流していたのは、幸いに気付いていないらしい。内心で安堵しながら、翔雲は重々しく首を振る。


「なりませぬ。宦官とはいえ、務めを妨げるのはよろしくないかと。というか、父上がお気になさるほどの見目ではございません」


 はっきり言って、霜烈の姿をひと目見れば父の誤解は解けるだろう、と思う。


に触れる気など起きるものか)


 花なら戯れに摘むこともあるだろう。玉なら所有の欲も抱くだろう。だが、天に輝く月を見て手に入れたいと思う者はまずいない。先ほどのたとえは、失言ではあっても翔雲の偽りない本心だった。ただ──父と霜烈を会わせるのは、まずい。


 霜烈の美貌は、先帝を魅了した母譲りだというのだから。きょう驪珠りじゅというその戯子やくしゃの歌舞を、父も見たことがあるかもしれない。

 先帝が格別に愛した「陽春皇子」がまだ生きているかもしれない、などとは父に気付かせてはならないのだ。父にとっては、息子の玉座を脅かす邪魔者でしかないのだろうから。


「父にも見せられぬほど大事に囲っているのか」

「違います!」


 従弟いとこ相手にあり得ない、とはっきり言えないもどかしさに翔雲の声は尖り、息子の反抗に父はますます眉を吊り上げた。さらなる怒声が浴びせられるのを覚悟した時──宦官の高い声が、割って入った。


「あの、陛下──しん貴妃きひ様が参上なさっております」

「ああ」


 寵愛する妃の名を聞いて、翔雲は肩の力を抜いた。これで話題が変えられると思うと──それに、香雪こうせつを父に紹介できると思うと、自然、頬に笑みが広がる。


「父上、香雪──沈貴妃のことは書でお伝えしておりましたでしょう。父上がお出でになると聞いて、招いておりました。是非ご挨拶申し上げたいとのことですので」

「ほう」


 言い争いに不毛さを感じていたのは、父も同じだったのかどうか。後にしろ、と言われなかったのを良いことに、翔雲は香雪を招き入れるよう宦官に目で命じた。


「まあ……?」


 そして入室した香雪は、皇帝とその父が立ち話をする光景を見て、不思議そうに目を瞠った。が、それも一瞬のこと、すぐに恭しく目を伏せて、流れるような優雅な所作で跪き、拝礼をした。


皇父こうふ殿下に拝謁の栄誉を賜り、光栄至極に存じます」

「翔雲が選んで貴妃に進めたのだったか。《偽春の変》では賢い振る舞いをしたと聞いておる。顔を上げよ。同席を許す」

「恐れ入ります」


 声を掛けられて立ち上がる時も、香雪の姿は一分の隙もなく美しくたおやかだった。皇父の前に出るとあってだろう、纏っているのは格式高い礼装だ。ゆったりとした袖に裾を長く引く大衫だいさんに、青の綾絹に金糸の刺繍の霞帔かひを重ねている。華奢な肩には豪奢な衣装が重すぎはしないかと思うほどだ。


(香雪がいるのに、余所に目を向けるものか)


 口に出せば話を蒸し返すことになるから、あえては言わないが。父の表情もすっかり緩んでいるのを見れば、香雪の気品と美しさが怒りも苛立ちも忘れさせたのだろうと分かる。ちょうど良い時に現れてくれたことに心から感謝しながら、翔雲はようやくまた腰を下ろすことができた。


「後宮に上がって以来、目覚めるたびに夢のようだと思っておりますが、殿下にお言葉を賜ることは格別の喜びでございます」


 翔雲と並んで父に対した香雪は、緊張と高揚を同時に覚えているようだった。白い頬にわずかに朱が差しているのが、翔雲の目には眩しく愛しい。


興徳こうとく王府おうふは出版が盛んでいらっしゃいますから。内容も装丁も素晴らしいと、かねてより仰ぎたてまつる思いで拝読しておりました」


 香雪が熱心に語る表情と口調は、しゃ貴妃華麟かりんが芝居について熱弁する様に少し似ているかもしれない。誰しも夢中になることがあるのだと目の当たりにするのは面白く、それが愛する女のことならいっそう可愛らしいと思う。


 それに、この話題は父にもよくはずだ。


(学問の奨励は、富貴の者の使命と心得ていらっしゃるからな)


 先帝への数知れぬ諫言が聞き入れられない鬱憤を晴らすように、父は有志の人材を育てることに注力してきたのだから。


「嬉しいことを言ってくれる。が、女人がよく読みこなせるものだ」

「父は遥江府学ようこうふがく司業ふくがくちょうでございますから。娘もしっかりと教導してくれたのです」

「おお、沈司業しぎょうのご息女であったか。道理で──」


 案の定、父は嬉しそうに語り始めている。香雪ならば話題についていけないということはないだろうし──面倒な話は有耶無耶になりそうだ、と判断して、翔雲は密かに息を吐いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る