一章 諸花、後宮に咲き揃う

第1話 花王、芳香絶佳たり

 凍てつく空気がようやく緩み始めた二月、後宮の庭園の蕾はまだ膨らみ始めたばかり。けれど、秘華園ひかえんでは本格的な春に先駆けて、いち早く絢爛な花が咲いている。


 楽の調べが、寒気に眠っていた草木に目覚めを促すようだった。そして、赤や緋色や紅の衣を纏った戯子やくしゃが舞う姿は、舞台の上に巨大な牡丹が花弁を綻ばせているように見えるだろう。


 燦珠さんじゅも花弁の一角として、手にした扇を翻しては回転し、跳びながらほかの舞手と前後左右に行き違う。一秒ごとに舞手の列は姿を変えて、あるいは花弁が風に散ったように、あるいはまた集まってひとつの花を為すように見えるはず。


(群舞も楽しいわ! みんなでひとつになったみたい……!)


 花弁を担う舞手は、八人。その中には喜燕きえんもいて、回転しては目が合う拍子に微笑み合ったりもする。ほかの戯子やくしゃは、これまで縁遠い殿舎の抱えの子たちだけれど、練習を通して息が合ってきている。衣装を纏って演じる排練リハーサルの段階とあって、ひとり一節ずつ、唄い上げる声にもズレはない。



 多么令人高興  何と喜ばしい

 多么好的一天  何と美しいこの日

 真是一場盛宴  まことに晴れがましい

 真是無類快楽  この上ない喜び



 とにかくめでたい祝福の詞を連ねるこの演目の題は、《探秘花タンミーファ》。栄和えいわの国のことではない、いつかどこかの王朝の、科挙──官僚の登用試験──の合格者を寿ことほぐ祝宴が物語の始まりだ。


 科挙の第三席の合格者である探花たんかに、皇帝が庭園でもっとも美しい牡丹の花を探して献上するように命じる。皇宮の庭園を彷徨ううちに、後宮に入り込んでしまった探花は皇帝の娘である公主と巡り合う。聡明な才子である探花と可憐な公主は恋に落ちるが、ふたりの仲を認めない皇帝や高官に無理難題を申し付けられて──という筋書きになる。


 もちろん恋人たちは最後には認められて結ばれる。美男美女が主役で、脇役も皇帝役や高官役は経験を積んだ実力ある役者が務めることが多い。さらに宮城を舞台にした華やかな歌舞や衣装とあって、市井でも人気の演目だ。

 燦珠だって父たちが演じるのを何度も観たし、自分でも公主役を唄ってみたりもしたし、今回自分も出演できると聞いた時には喜びで思い切り跳ねた。たとえ役は「牡丹の花精に扮する後宮の妃嬪ひひん」のひとりに過ぎなくても、憧れの演目に出られると思えば気合が入る。


(そんなに簡単に後宮に迷い込むはずがないんだけど、ねえ)


 短い間とはいえ、片隅とはいえ、後宮で寝起きする燦珠にとっては筋書きの「無理矢理さ」も分かってしまっているけれど、それはそれ、だ。華劇ファジュの演目の美しさも楽しさも、それが本当かどうかでは決まらないはずだ。

 なので燦珠は、腹筋に力を込めて喉を震わせ、担当の詞を唄い上げる。



 上是帝中帝王  我が君こそ王の中の王

 将治直到永遠  とこしえに御代が続くように



 詞がたたえる通り──この場面には皇帝役が登場している。花精に扮した花旦むすめやくを従えて、舞台の真ん中で泰然と笑んで立つ「その人」に対しては、演技ではない尊崇と讃嘆の念が、自然と心の底から湧き上がる。


女生おとこやくなのに……男装なのに、この色気……!)


 龍の刺繍を施したほうを纏った「その人」は、燦珠の感嘆の眼差しに応えるように、ほんのわずか笑みを深めた。本番とは違ってまだ口面つけひげをしていないから、凛々しくも美しい顔が惜しげなく晒されているから心臓に悪い。


 「その人」の形の良い唇が開き、耳に美酒を注がれるような甘く心地良い声が響く。



 多么令人高興  何と喜ばしい

 多么好的一天  何と美しいこの日

 内園充満美花  我が後宮には美しい花が

 外廷聚集才華  宮廷には才子が集っている



 美花、と唄いながら、「皇帝」は燦珠たち花精を視線で撫で、ぴんと指先を伸ばした手をべた。もちろんそういう振り付けであって、その指先が直接燦珠たちに触れた訳ではない。けれど、首筋をくすぐられたかのように肌が騒めいて心臓がどきどきとするのが止まらない。


(『この人』だけで私たち全部より色気があるんじゃ……!?)


 女生おとこやくにしては、女の髪型をしているのは珍しい。たぶん、何かのこだわりがあるのだろうけれど。とはいえ、装いは男のもので、女性らしいたおやかさやか弱さはまったくない。それどころか、舞台に映える長身といい立ち方といい、朗々と響く歌声といい、皇帝役に十分な威厳と貫禄なのに──なのに、同時に艶めいて華やかなのだ。


 花というなら、「その人」こそ百花の王。たったひとりで舞台の上に大きく咲いて、花旦むすめやくたちを霞ませかねない存在感は恐ろしいほど。皇帝を引き立てる花を演じるはずが、花に引き寄せられる羽虫に過ぎないような気分にさせられるなんて悔しいにもほどがある。


 「その人」の名は、らん芳絶ほうぜつ楓葉ふうよう殿の貴妃が抱える戯子やくしゃだから、燦珠はこれまで共演する機会はなかった。


 芳絶の色香にあてられると、振り付けを一瞬だけでも忘れてしまいそうだから、油断できない。扇をしっかりと握り直しながら、燦珠はしみじみと思う。


(秘華園は……本当に色々な人がいて、すごい……!)


 芳絶は、歳のころは三十手前と聞いただろうか。星晶せいしょうの清々しさよりも風情があって、隼瓊しゅんけいの磨き上げた艶よりも、何というか生々しいがある。今回の《探秘花タンミーファ》は、複数の殿舎から戯子やくしゃを募っての公演だから、まだ見ぬ名手の名演を間近に見る光栄に浴したという訳だった。


(色気を盗む、好機でもあるわね……!)


 燦珠が見つめる先で、芳絶は皇帝役としてのセリフを続けている。探花を召し出して、宮廷一の牡丹を探すように命じるくだりだ。探花役の星晶との掛け合いが、また目も耳も幸せな一幕なのだけど──見蕩れるだけでは、いけない。


(色気って……どうすれば出せるんだろう……?)


 次の動きはより淑やかにしなやかに、と心に念じて、手足を舞わせる。花旦むすめやくとして一皮剥けるためにも、燦珠は全身の神経を凝らした。

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