第7話 華麟、問い詰める

 しゃ貴妃きひ華麟かりんの住まい、永陽えいよう殿にて。燦珠さんじゅは、星晶せいしょうと共に殿舎の主の左右を固めていた。


 例によって華劇かげきの一幕さながらに麗しい庭園を望む花庁きゃくまに跪くのは、やはり物語から抜け出たように美しい霜烈そうれつだ。鐘鼓司しょうこし太監たいかんとして、彼は数多の戯子やくしゃを抱える華麟に請願があって参上した、のだけれど──


「次の《探秘花タンミーファ》では、星晶の相手役は燦珠ではなく──」

「嫌よ」


 霜烈が言い切ることを許さず、華麟は短く拒絶した。けれど、霜烈のほうも引き下がることなく、用意していたらしい説明を続ける。


「永陽殿と喜雨きう殿の戯子やくしゃばかりに出番が偏っては、ほかの殿舎から不満が募ります。後宮の安定のためにも必要なことと、陛下にもしん貴妃様にもご了承をいただいております」

「《偽春ぎしゅんの変》で日和見だった方たちが不満に思うなんて、図々しいのではないかしら? まあ、ほかの子のことなら考えないでもないけれど、星晶については絶対に駄目」


 後宮においては、複数の殿舎から戯子を集めて大規模な公演を行うことも多かったらしい。今上帝の御代ではこれまで例がなかったけれど、華劇に対する認識をいくらか変えてくださったからか、殿舎の間での交流も必要だろうとの判断からか、この度許可が下りたということだった。


(色んな人と演じられるのは楽しそう、なんだけど……)


 配役の段階で根回しが必要なことも、その役目を霜烈が負うことになるのも、燦珠はまるで想像していなかった。満開の牡丹の華やかさを誇る華麟と、水晶の彫刻を思わせる美貌の霜烈と。種類の異なる美しさを持つふたりの熾烈な言い合いを、おろおろと見守るだけだった。


「星晶が誰よりも目立つ優れた女生おとこやくだからこそ、とお考えくださいますように。端役を譲られたところで、楓葉ふうよう殿や銀花ぎんか殿も喜びますまい」

「だって、星晶の新娘およめさんと思って燦珠を合格させたのよ? わたくしの星晶を、浮気者にさせないでちょうだい」


 華麟がふいと横を向いたところで、星晶が執り成すように笑みを浮かべた。配役については彼女にも話が通っていて、難色を示すであろう華麟の説得を試みると言ってくれていたのだ。


「私は──銀花殿の戯子やくしゃなら構いませんが。隼瓊しゅんけい老師せんせいも、必ず驪珠りじゅだけと演じたのではないと伺っておりますし」


 燦珠の鳳凰の衣装を損ねたのは、どうやら楓葉殿の戯子だったらしいということだから、星晶はまだ許していないらしい。寛大なのかそうでないのか分からなくて、涼しげな笑みも少し怖い。華麟には、愛しい戯子の微笑がどう映ったのか──小さく溜息を吐くと、戯迷芝居オタクの貴妃は、跪く霜烈に視線を戻した。


「……それで、燦珠には何の役をやらせるの、よう太監たいかん?」

「牡丹精のひとりです。本人も了承しております」


 問い質すような華麟の視線を受け止めるのは、今度は燦珠だった。このためにこそ、彼女はこの場に混ざっていたのだ。霜烈への援護となるべく、できるだけ強く頷き、はっきりと答える。


「私は新参者ですし、群舞も初めてなのでやってみたいです」


 《探秘花タンミーファ》は、探花──科挙の第三席の才子が、牡丹を手折りに出かけた皇宮の庭園で公主を見初める、という筋書きだ。主役ふたりの出会いを彩る花の精の舞は、それはそれで華やかだし、群舞隊で動きを揃えて踊るのも楽しそうだし、燦珠は純粋に喜んでいる。あと、霜烈は埋め合わせに唄ってくれると約束してくれた。


(別に、要らなかったのに)


 どんな演目のどんな役でも、燦珠の糧になるだろう。だから本当に何らの不満はないのだけれど。でも、せっかくの気遣いでせっかくのうただから、もらえるものはもらっておこうと思っている。


 燦珠の答えが気に入らないのか、華麟はまだ唇を尖らせている。


「鳳凰を舞った子が群舞だなんて──」

「優れた舞手は周囲の刺激になります。群舞の質も一段と上がりましょう」


 華麟と霜烈は睨み合って、一歩も退かない構えに見える。霜烈の美貌に動じない華麟も、貴妃相手に直言する霜烈も、どちらもすごい、と思う。そして同時に、不安にもなってくる。


(これ、丸く収まるのかしら……?)


 理屈では霜烈に分があるし、皇帝の権威を盾に押し通すこともできそうだけれど。華麟に遺恨が残るのも良くない気がする。


(何とかならない……?)


 再度の執り成しを求めて、燦珠は密かに星晶に眼差しを送る──と、涼しげな目がにこやかに、かつ頼もしく頷いてくれた。何を言ってくれるのだろう、と燦珠が見守る中で、星晶は主の耳元に唇を寄せ、何ごとかを囁いた。恋人たちの睦言のように美しい並びなのは素敵だけれど、ちらちらと燦珠や霜烈を窺うのが少し気になる。


 そしてなぜか、華麟の口元に満足げな笑みが浮かんだ。


「──そうね……それなら、しかたない、かしら……?」


 意味ありげに呟いてから、華麟は霜烈のほうへ身を乗り出した。


「楊太監。今度の配役のこと、了承しても良いわ。わたくしの問いに正直に答えてくれたら、だけど」

「心から感謝申し上げます。……ご下問とは、どのような?」


 言葉とは裏腹に、霜烈の声は硬く、頬にも緊張が走ったようだ。華麟は驪珠を見たことがないはずだ。それでも彼の姿や年ごろから何か気付いたことがあったのかと、燦珠も息を呑んで見守った、のだけれど──


「そなたと燦珠は、いったいどういう関係なの? 万寿閣ばんじゅかくの最上階で、見つめ合って語らっていたそうね……!?」


 思わぬ「下問」に、燦珠は目を見開いたし、霜烈も固まった、ように見えた。星晶のほうを窺えば、満面の笑みが返って来る。いったい何をどう囁いたら、この流れになるのかさっぱり分からない。答える前に深々と息を吐いた霜烈は、どうやら呆れかえっているのではないか、という気がする。


「……本番前の激励に過ぎませぬ。燦珠を秘華園に入れたのは奴才わたくしなのですから、出来が気になるのは当然のこと」

「そうなの? 燦珠?」


 再び水を向けられて、燦珠も慌てて頷いた。


「は、はい。えっと……楊太監に、ちゃんと客席から見てもらえるのは初めてだったので。それで──見て欲しいとは、言いました」

「ふうん?」


 前提となる経緯や感情は伝えられずとも、嘘ではないしおかしくもない説明のはずだった。楽しそうに団扇をそよがせる華麟は、どうも信じてくれていないのではないかという気がしたけれど。


「あの、それは浮気にはならないんでしょうか? いえ、その、そういうことではないんですけど」


 心配になって問うてみると、華麟は大輪の花が綻ぶような華やかな笑みを浮かべた。


「舞台の下でのことなら構わないわ。燦珠は華劇ファジュを疎かにしないでしょうし。わたくしには縁のないことだもの、見目良い男女の恋の話はぜひとも間近で見ていたいわ」

「え……?」


 自身も物語の青衣ひめぎみ役のように美しく、しかも凛々しい皇帝に貴妃として仕えておいて、華麟はなぜか醒めたことを言った。


(っていうか恋って……?)


 燦珠が再び問いかける暇を許さず、華麟はもう霜烈に視線を戻している。


「星晶がね、そなたは燦珠が妬まれるのを避けるために、泣く泣く端役に落とすんだろう、って──それなら応援してあげようかしら、と思ったのだけど」

「無論、配慮はございますが、他意や私情の入る余地はございません。心外なお疑いと申し上げましょう」


 憤然と訴える霜烈に、燦珠も全面的に同意する。「あの後」も、星晶や喜燕に説明されて、何をどう邪推されたかをようやく理解したけれど、「そんなこと」は決してないのだ。霜烈が燦珠に肩入れしてくれるのは、どうやら梨詩牙の娘だからというのが大きいらしいし。まあ、彼女自身の才にも期待してくれているようなのは嬉しく誇らしいことだけど。

 そして、燦珠にとっての霜烈は──


(……何なんだろう?)


 とても綺麗な人。素晴らしい声の人。可哀想に思ったこともあれば、震えるほどの怒りを覚えさせてくれもした。演じる機会を与えてくれた、恩人であることには間違いないだろうけれど。親しくないことはないはずだけど、友人とも違うような──当て嵌まる言葉が、思いつかない。


「そうね、そういうことにしておきましょう。──公主を演じる子が決まったら教えてちょうだいね。下手な子だと承知しないわ」


 だから、華麟が追及の手を緩めてくれたことに、燦珠は心から安堵した。どんな関係かと問われても、彼女自身にも答えが分からないのだから。


「は──」


 恭しく面を伏せた霜烈も、きっと彼女と同じ思いだっただろう。


      * * *


 限定近況ノートに掲載していたエピソードの再掲です。

 本編の新章は明日8月1日から連載開始です。

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