第6話 燦珠、盗み聞きする
後宮に亡くなった
先帝に深く愛され皇子まで儲け、その才の絶頂の時に地上を去った美姫。
そんな存在だからこそ、生きた
「私、確かに聞いたのよ。真夜中に、誰かがとても綺麗な声で
「妃嬪のどなたかが
「だって、皇太后様の喪中なのに」
「確かに、今は夜に宴席なんてなかったわね……」
「皇太后様は、驪珠に憑かれて亡くなったというのは本当かしら」
「まさか! 驪珠は皇太后様の御恩に報いたのでしょう。あの
「我が子のことだもの、母としても放っておけなかったのでしょうねえ」
驪珠の御子である陽春皇子は、母の死の直後に後宮から姿を消していた。幼いながらに母親譲りの美貌と美声で、父帝ばかりか生さぬ仲の皇后にまで愛されたという少年を、目障りに思う者もいたのだろう。失われたその御子を名乗る青年が現れ、後宮ばかりか今上帝の位をも揺るがしかけた陰謀の記憶は、まだ誰にとっても新しい。
亡くなったばかりの皇太后は、当時その怪しげな詐欺師を信じて我が子のように歓迎したのだ。そこへ驪珠の
練習を終えて汗を拭っていた
「燦珠はどう思う? 例の、噂」
「え、ええと……」
詳細を聞かれずとも、驪珠の
「聞き間違いなんじゃないかしら。驪珠がさ迷う理由は、もうないと思うんだけど……?」
返答次第で、星晶や
亡き皇太后の愛着ゆえに、長く宙ぶらりんな扱いだった陽春皇子は、ようやく正式に死が認められて葬られた。驪珠の望みもきっとそれだったのだろう、ということになっている。ならば彼女の魂ももう安らいでいることだろう。
とても常識的な意見を述べたつもり、だったのだけれど──
「へえ、意外」
「何が?」
星晶は目を瞠った表情も格好良いな、と思いながら燦珠は尋ねた。すると、とても綺麗な
「燦珠のことだから、
「何といっても驪珠だもの。教えを乞いたいって言いそうだよねえ」
喜燕までも同調したから、燦珠の笑みは引き攣った。驪珠に
「でも、ほら──夜中に出歩くのも良くないでしょ。あの、後宮の風紀とかそういうやつで。あまり騒がないほうが、良いんじゃない?」
「それはまあ、そうだけど」
「夜中に練習していた燦珠が言っても説得力がないけどね」
星晶も喜燕も、まさに夜中に出歩いて厄介な事態に陥ったことがある。仕える妃嬪のことを思えば迂闊なこともできない訳で、ふたりは思いのほかにあっさりと引き下がった。明日の練習に備えて休もう、の流れになって、燦珠は心から安堵する。
(危なかった……ふたりが聞いたら、バレちゃうかもしれないじゃない!)
驪珠の
でも、彼がそんな唱声を持っているのは秘密なのだ。一度聞いたことがある星晶と喜燕は別として、ほかの者には知られたくない。
* * *
数日後の新月の夜、燦珠はそっと自室を抜け出した。空には厚く雲が垂れ込め、たとえ満月でもさほどの明るさではなかっただろう。夏の夜の空気はじっとりと暑く重く、散歩に向く気候ではまったくない。──だからこそ、きっと「
彼の──というか
(宦官も演じる機会があれば──ううん、それは危ないのかもしれないけど……)
霜烈の
(ああ、やっぱり!)
思い描いていた通りの、そして何度聞いてもうっとりと心地良い唱声に、燦珠は足を急がせた。同時に、携えていた灯りは布に包んで光を隠す。霜烈のことだから、夜にこっそりと練習していたのに気付かれるのは快く思わないだろう。ただでさえここぞという頼みごとがある時にしか
『大したものではないのだから、聞き慣れれば価値が目減りするだろう』
ごく真面目にそんなことを言う霜烈は、驪珠の
それは、今の
(
闇の中、さらに手近な木の影に身を隠して、燦珠は耳をそばだてる。美しい
(前も、十分すごかった……でも、練習してくれて、良かった)
艶を増していく唱声に首筋を撫でられる心地がして、燦珠は──夏だというのに──微かに震えた。霜烈は、どうやら自身の唱声を彼女に言うことを聞かせる手段として考えているらしい。
(一緒に
燦珠は、声を出さずに唇を動かし、吐息だけでそっと
* * *
KAC2023にて個別の短編として公開していたエピソードの再掲です。
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