第4話 梨詩牙、決意する
屋敷を訪れた客の姿をひと目見て、
(こういうことは、いけすかない役人がやるものではないのか……?)
そもそも歓迎していなかった客ではある。だが、皇宮から、しかも先日の一件の褒美を携えた使者とあっては締め出すことはできなかった。彼自身の認識としては、娘を人質に取られて使い走りをさせられたというだけ、遠方の名優と
「
洗練を極めた所作で流れるように礼をする皇宮からの使者は、一風変わった麗人だった。詩牙にとっては見慣れた自邸の
周囲の空気まで輝かせるような、華やかな気配を纏ったその使者は、だいぶ年配の女──なのだろうが、薄化粧をした頬には染みも皺もなく若々しく見える。背高く背筋正しく、言葉遣いは、丁寧でいながら女らしい控えめさとは無縁のはきはきとしたもの。たとえ
「それは──市井の役者のことなど、お耳汚しでしたでしょうな」
いったい誰がどのように噂していたのかを考えると、詩牙の頬は引き攣った。普段の彼ならばあり得ない卑下を口にしてしまうのも、後ろめたさゆえ。女の
「とんでもない! 女の身体での
「嬉しいお言葉ですな……」
年齢を窺わせない美貌の女役者は、華やかな笑みを浮かべ、艶のある声で滔々と語った。本心にも聞こえるし、詩牙のかつての放言を皮肉っているようにも思えて居心地の悪いことこの上ない。あるいは、油断のならない後宮で長年過ごした者の手管なのか──招かれざる客を追い返すどころではなくなってしまったのは、情けない限りだった。
* * *
仰々しい目録に記された金額は、
目録を読み上げた後も、宋隼瓊なる女は舞台の上で
「先生が望まれるかは存じませんが──陛下は
「ええ、まあ」
年配の役者が祖父に聞いたことがある、くらいの話ではあるが、確かに知ってはいた。女の芝居にのめり込んだ皇帝が出る前は、後宮に男の役者が召されることもあったのだ、と。
「あまり、ご興味がおありではないようですね」
眉を寄せた詩牙に、隼瓊は苦笑してみせた。何たる不敬、と叱責されなかったことに安堵しつつ、彼は一応は弁明する。
「お偉い方々は無理難題を言うものと承知していますのでね。関わり合いになりたくないというのが正直なところです」
彼は、過去の栄華を羨ましいなどとは思わない。
(後宮に仕える者には分からないだろうが……)
今度こそ咎められるのかどうか、と。不信と疑いの目で見られていることに気付いているのかいないのか、隼瓊はなぜか楽しげに応じた。
「残念ですが、致し方ありませんね。望まぬ褒美は褒美にはなりますまい。陛下には良いようにお伝えします。……燦珠が言っていた通りでしたね」
「燦珠が──娘が、何と!?」
案じていた娘の名を不意に聞かされて、詩牙は思わず腰を浮かせた。思い通りの反応を見せてしまったのだと気付いたのは、隼瓊が悪戯っぽく微笑むのを目の当たりにしてからだった。
「たった今仰った通りです。無体な仕打ちを受けたご同輩も多いのだと──私にも身に覚えはありますから分かります」
隼瓊の声は女にしては低く、硬質だが艶がある。琥珀を思わせる
「まさか、皇帝にもそれを……!?」
権力者は何をするか分からないから嫌がるだろう、と。比類ない権力者そのものである皇帝に言ったのだとしたら、不快にも不遜にも思うだろう。普通なら言うはずはないが、燦珠の奔放で怖れを知らないことは、残念ながら親が一番よく知っている。
身を乗り出した詩牙に、けれど隼瓊は宥めるように軽く手を振った。女にしては長い指に大きな手は、舞台の上でさぞよく唄い、語り、舞うのだろうと思わせる。
「直に聞いたのは私です。陛下に対しては、畏れ多さに固辞するかもしれないと、翻訳させていただきました」
「……馬鹿娘が……!」
想定していた最悪の事態には及ばなかったとはいえ、燦珠の言動は後宮にいるにしてはやはり場違いで迂闊に思えてならなかった。頭を抱えて深々と溜息を吐いた後──詩牙は、顔を上げて隼瓊と目を合わせた。
「……娘が、世話になっているようです。あれは──大丈夫でしょうか」
この女の人柄については、すでに疑っていない。優れた役者であろうことは、声や所作の端々からも窺える。燦珠を語る口振りも眼差しも柔らかく温かい。だからこそ、率直に尋ねる気になれた。
親の想いに同情してくれているのかどうか、隼瓊は大きく頷いてくれた。
「それはもう。使者を拝命したのは、御礼を申し上げたかったからでもありますので」
「礼……?」
帝位を揺るがす陰謀云々とは別件のようだ、と判じて詩牙は聞き返した。あの騒がしい娘の言動について、こちらが詫びこそすれ礼を言われることなどあるとは思えないのだが。
「あれほどに眩しい才と気性の娘を、真っ直ぐに育ててくださったことに。あの子を、秘華園に送り出してくださったことに。燦珠は、後宮に吹いた新風で、輝く星で──私も含めて、多くの者が救われました。父君には、感謝のしようもありません」
誰の話をしているのだろう、というのが正直な感想だった。
「それと──謝罪もしなければ。今、燦珠には私が教えております。役者として考えが違うところもあるでしょうが、これでも四十年近くは
「……男では教えきれぬところもあるでしょう。もう手を離れた弟子で、娘です。存分に鍛えてくださいますように」
自身の
そもそも娘の師は彼ひとりではなく、役者仲間が総出で育てたようなものだ。男と女では身体の造りも声の高さも、筋力もしなやかさも違うもので──だからやはり、燦珠が秘華園に入るのは決まっていたようなものだった。そう、腑に落ちた気がした、のだが──
「ああ、良かった……! この際ですから、礼儀作法も立ち居振る舞いも教えさせていただきましょう。燦珠は嫁に行く気がないとは言っていますが、芝居にも必要ですし、いつ何が起きるか分かりませんから」
「何かが起きる余地が、あるのですか!? 後宮で!? まさか皇帝に──」
娘が嫁に行く、という発想に、詩牙の諦め混じりの納得は一瞬にして吹き飛んだ。男親の心配を、
「今上の陛下には格別に寵愛される御方がいらっしゃいますから、
いかなる身分や官位の男であろうと、燦珠がそれを理由に惹かれることはあり得ない。そもそも、恋の歌を唄い、愛の舞を踊りはしても、あの娘は色恋沙汰にはとんと疎いのを詩牙はよく知っている。これはと思った弟子たちが、ことごとく相手にされずに散っていくのを、もう何度も見ているのだ。
(
父に近付こうという魂胆が見えれば軽蔑するのはもちろんのこと、
「あの子が仕える御方も──先生もご存知の
「あの……顔と声が良い宦官ですか」
まさに思い浮かべた姿について言及されて、詩牙は斬りつけるように問い質していた。いったいどうしてあの並外れた美貌の存在が、娘の保護者のように語られるのか。奴が燦珠にとって何だというのか。別人のことであって欲しいが、あいにく詩牙が知る宦官はたったひとりしかいないのだ。
「はい。──ついでに言うなら、
「まったく安心できませんな!」
案の定というか、あっさりと頷いた隼瓊に、さらりと付け加えられた情報に、詩牙は絶望の呻きを漏らした。
彼だっていずれは孫を抱きたいという夢はある。娘が色気づかないだけならまだしも、宦官に心奪われるなどとは許しがたく耐えがたい。一部の者は王侯さながらの富貴を誇るとはいえ、宦官とはしょせん皇帝の奴隷に過ぎない。蔑まれる境遇と欠けた身体ゆえに、彼らの心根はねじ曲がり鬱屈を抱えているものだと詩牙は心得ている。いくら見た目が良くても、あるいはだからこそ、若い娘に近づけてはならないと思うのに──隼瓊は、彼の恐怖に近い不安を理解してはくれない。
「ですが、あの子──ああ、楊太監のことですが──は梨詩牙先生の
「……は?」
それどころか、この女は彼の反応を読み切った上で楽しんでいるとしか思えなかった。間抜けに目と口を開いたまま固まった詩牙に、隼瓊は実に美しく清々しく微笑みかけてみせたのだから。
「市井に下りるたびに、今日はどの役だったか、どう素晴らしかったかを聞いてきたものです。お噂はかねがね、と申し上げたのも、光栄と申し上げたのもそのためです。燦珠が先生のお嬢さんと知って、たいそう興奮しているようでもありました」
「はあ。……あれで?」
秘華園の役者と宦官にどのような接点があるのか、隼瓊の親しみのこもった口振りからは窺えなかった。彼の崇拝者は──まあ、それなりにいるのは承知してはいるが、
「無礼を働いたゆえ、直にお会いすることなどもはや思いもよらない、とのことです。が、崇拝する御方の娘御に不埒を働くこともまた、思いもよらないでしょう。ですからあの子については本当に心配要りません」
「……仮にそうだとしても、燦珠のほうは──」
ともあれ、彼には真偽を確かめようのないこと。ひとまずは頷きつつ、それでも詩牙は食い下がった。あの顔とあの声に
(いや、そうではなく……男のほうでも断り切れなくなりはしないか!?)
悩むあまりに、詩牙はいったいどのような顔色になっていたのだろう。隼瓊は同情するように眉を寄せた。一方で口元は微笑んでいたから、やはり面白がっているのかもしれなかったが。
「ならば、直に釘を刺されては? 燦珠にも、楊太監にも。若い娘は親の言うことを聞かぬものではありますが、あの子は先生の御言葉なら天の声と聞くことでしょう」
「……だから後宮に参上せよということになるのですな」
そこに帰結させるがための話の流れだったのか、と。相手の魂胆を見切って、詩牙の声は尖る。眼差しも、若い役者なら震えあがったかもしれない剣呑なものになっていただろうが──後宮で生き抜いてきた老練な女にかかると、ふわりと受け止められてしまう。
「ええ、まあ。……燦珠の父君に、皆会いたいと思っているのですよ。それに、秘華園がどのような場所か、あの子の人柄も知っていただければ、と──」
隼瓊の物言いは、あの宦官に肩入れしすぎているようで今ひとつ信頼がおけなかった。だが、だからこそ頷くしかないのだろうと、詩牙は悟りつつあった。
(……良いだろう、ならば全力で演じてやる……!)
おてんば娘と、気に入らない男に父親の存在を思い出させ、見せつけなければ、と。彼は固く心に決めたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます