第3話 燦珠、慰謝料を請求する
(
探していた姿を見つけて、燦珠は微笑み、足を速めた。耳には、師の深々とした溜息が蘇っている。
『
麗貌を青褪めさせ、次いで激しい怒りに紅潮させた隼瓊に、さぞきつく叱られたのだろう。肩を落とし、片手で額を抑える霜烈は、明らかにしょんぼりと落ち込んでいた。もちろん、燦珠が同情することはないけれど。
(当然よ。反省すれば良いんだわ)
と、
「……やってくれたな」
「悪いのは
今回ばかりは、告げ口も悪いことではないだろう。隼瓊も、燦珠にはたいそう感謝してくれた。だから足取りも軽やかなまま、彼の隣に腰を下ろし、その横顔を覗き込む。憔悴した表情も、それはそれで絵になるし眼福なのだから、綺麗な人はすごいものだ。
(そういえば、奉御、って呼べるのも今だけなのかしら?)
霜烈は、
「ねえ、なんであんなこと言ったの?」
隼瓊たちと違って付き合いの浅い燦珠に、これ以上彼を叱ることはできない。それでも不思議でならなかった。大切に育てた子供が突然、それも自分の意思で命を断ったら親はどれだけ悲しむか。分からないはずはないだろうに。
聞いたところで、答えを期待していた訳ではない。霜烈に限らず、人は心の裡を簡単に明かしてはくれないものだ。でも──横目で睨むように燦珠を見つめた後、霜烈は俯いたまま、唇を動かし始めた。
「……ずっと恐ろしかったのだ。我が身に多くの人の命がかかっているということが。父や
具体的な言葉は避けつつも、思いのほかに長々と詳細に吐露してもらえて、燦珠は目を見開いた。衝撃というよりは呆れによって、ではあったけれど。
「それは……色々な方に失礼だと思うわ?」
彼が苦しんできたこと、楽になりたかったことは分からないでもない。けれど、隼瓊たちはすべて承知で罪になることを引き受けたのだろうに。覚悟も愛情もあったはずで、それを勝手に無にされては怒るのも当然だ。皇帝にしても、殺して欲しいと願われるのは気まずいだろう。
燦珠の目に宿る非難の色を見て取ったのか、霜烈は眉を寄せつつも深く頷いた。
「だから叱られた。もうしないと言わせられた」
「本当に、もうしない?」
何だか子供を相手にしているような気分で、燦珠は念を押した。事実、今の霜烈は叱られた子供と同じ状態ではないのだろうかと思う。彼が叱られるようなことをたびたびしでかす子供だったとは思えないし。珍しいほどにはっきりと思うことをこぼしてくれたのは、それだけ動揺が大きかったのかもしれない。それなら、燦珠は貴重な場面に立ち会うことができたということのかも。
「親を泣かせるのは辛いものと知った。だから本当にもうしない」
「そう。なら、良かったわ」
ということで、霜烈が再び頷いたのを確かめたところで燦珠は満足することにした。彼が隼瓊たちを親と呼んだことに微笑みながら。皇太后の容体はやはり優れないと聞くけれど、この様子だと心配する必要はなさそうだ。あの御方に霜烈が縛られることは、もはやないのだろう。
安心したところで、燦珠はあえて明るい声を上げた。
「じゃあ、これでいつでも唄ってくれるわね? 必ずって、言ったものね? 今すぐは──そんな気分じゃないかもしれないけど、明日ならどう!?」
霜烈を責めるのも慰めるのも、燦珠の役目ではないと思う。彼女としては、約束を守らせることが何より大事だった。また唄ってもらって──綺麗な人の綺麗な声が失われることはなかったと、安堵と喜びに浸りたかった。
胸の前で手を組み合わせておねだりの構えをする燦珠に、呆れた眼差しを向けるのは、今度は霜烈のほうだった。
「そなたは、喉が
「そんなひどいことはしないわよ!」
そんなひどくて──もったいないことは。霜烈の喉を痛めさせてしまっては元も子もない。燦珠は彼を苦しめたい訳ではなくて、単純に、綺麗な
「毎日一曲ずつではどうかしら? 楽しみは長く続いたほうが嬉しいもの」
「毎日……?」
霜烈が不可解そうに眉を寄せることこそ、燦珠にとっては不可解だった。
「私は、嘘を吐かれて約束を破られかけて……それからすっごく驚いたし怖かったのよ!?」
「……分かった」
「
燦珠が身を乗り出した分だけ身体をずらして距離を保ちながら、霜烈は柔らかく微笑んだ。
「隼瓊
あくどい高利貸しのように言われるのは不本意だったけれど、それ以上に彼が教えてくれたことは魅力的だった。生来の美声と驪珠譲りの才に加えて、きっちりと鍛錬を積んだなら──いったいどんなことになってしまうのだろう。
「それは……とても素敵ね……」
「そなたを御する手段は多いに越したことがないからな。この身ひとつで叶うなら安いものだ」
何だかひどい扱いをされているような気がする。でも、一方でこの上なく説得力があるのも事実だったから、燦珠は抗議する代わりに深く頷いた。
「そうね、確かに。楊奉御が唄ってくれるなら、何でも聞いてしまいそうだわ」
「……そのようなことは軽率に言ってくれるな。誤解を招く」
自分から言い出しておいて、すぐに眉を寄せるのだからこの人はよく分からないのだけれど。
「楊奉御の声は素晴らしいでしょう? 誤解の余地なんてないのに」
首を傾げてから──燦珠は少し心配になって、声を潜める。
「あまり知られないほうが良いということかしら? 怪しまれてしまう……?」
陽春皇子に起きたことを知る者は、今の後宮にはほとんどいないはずではあるけれど。年ごろや、美貌と美声から驪珠に結び付けられてしまうこともあり得るのだろうか。それなら秘密にしておきたいのも分からなくはない。
(皆に知ってもらいたいような……独り占めできるのも悪くないような……)
相反する思いの、どちらが強いかを判じかねて。腕組みして唸る燦珠を見下ろして、霜烈は目を細めている。いったい何がおかしいのだろう。
「そうだな。そういうことにしておこう」
「そういうことって……?」
どういうことか、問い質したかったのに。いつの間にか、霜烈はもう立ち直っているようだった。彫刻のように整った横顔はどこまでも美しく微笑むだけで、心の中を窺わせてはくれなかった。
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