第2話 燕雀、再会する
《
さらには、後宮の外でも趙家は一連の出来事の代償を支払わなければならない。
(全員のことをお願いするなんて図々しいから……仕方ない、の……?)
はっきりと罪に問われていないだけで、皇帝の心証としては趙家は罪人なのだろう。罪人に養われた者たち全員を助けて欲しいだなんて言えるはずもない。そして、褒美をもらえるからと言って自分のことを望めるはずもない。──だから、これ以外の選択はあり得なかったのだけれど。
秘華園の一室で待ちながら、喜燕は膝の上で拳を握りしめていた。指が巻き込んだ
(
必死に自分に言い聞かせていると──扉が開いた。思わず勢い良く立ち上がると、治り切っていない右足首に痛みが走る。俯いた視界の端に、細い少女の影がふたつ、見える。
「大丈夫? お茶とお菓子を置いておくからね。えっと……ごゆっくり」
影の片方──彼女が眉を寄せる間に素早く茶菓を置いたのは、
「うん。ありがとう」
珍しく硬い表情の燦珠が退出すると、室内にはふたりの娘が残された。つまりは、喜燕と、燦珠に通された玲雀が。生まれた場所は違うのに、背丈や手足の長さがどこか似ていて、姉妹のようだとよく言われた。実際、ほんの数か月前までは鏡像のように常に間近に寄り添っていた相手。
(変わって、ない……?)
数か月振りに会う幼馴染の姿に、喜燕の目の奥は熱くなり、喉は詰まる。懐かしさや喜びによってだけでなく、相手が自分のことをどう思っているか分からない不安と恐怖によっても。でも──それは玲雀こそが感じていることだろう。意を決して、喜燕はぎこちなく笑みらしきものを浮かべようと試みた。
「玲雀。……あの、久しぶり。元気そうで良かった……」
「……うん。えっと、喜燕が呼んでくれたんだって……?」
用意されていた卓に、向かい合わせで座る。燦珠が運んでくれた茶菓にはお互い手をつけないまま、表情を窺い合う。玲雀は痩せたり
(玲雀は気付いている……)
玲雀も喜燕と同様に眉を寄せ、首を傾げていた。可愛らしい顔に似合わぬ曇った表情は、後宮の華美に戸惑っている訳ではないだろう。たぶん、喜燕との友情ゆえに呼び寄せられたと信じているのではないのだ。後ろめたさゆえか、それとも勝ち誇るためか、どちらだと思っているのだろう。何を切り出されるかを警戒する気配をひしひしと感じながら、喜燕は懸命に口を動かした。
「ごめん。玲雀。私は謝らなきゃいけないことがある……!」
喜燕が語る間も玲雀は眉を顰めた表情を崩さず、彼女を恐れさせた。激昂して、詰ってもらえればどれほど楽だったろう。そして言い終えた後もしばらく続いた沈黙は長く冷たく重かった。それでももちろん反応を促すことなどできるはずもなくて、ひたすら待っていると──玲雀がぽつりと、呟いた。
「
「ああ……」
呆れと納得と嫌悪を込めて、喜燕は溜息を漏らしていた。
(私がやったのは、
咎められなかった理由を、師の手の内にいたことを今さら悟って、喜燕は俯いた。その頭上に降る玲雀の声は
「私は、嘘だと思った……思いたかった。そんなはずない、
「うん」
「なんで?」
「秘華園に入りたかった。
言い訳はすまい、と。喜燕もできるだけ淡々と事実だけを述べようと努めた。それでも玲雀の目が見開かれるのを見ていられなくて、椅子を降りて床に跪く。
「ごめんなさい。許してもらえるとは思えないけど、これだけは伝えたくて」
「……そんなこと言われても、困る……」
「……ごめん」
玲雀の
「玲雀はすごいから、練習すればまたきっと踊れるようになる。……あの
──駄目だ。隼瓊の権威を笠に着ては償いになるはずがない。彼女自身に何ができるかを言わなければ。玲雀を傷つけた分、彼女も痛みを負わなければ。
「私は──
「そんなの、いらない」
玲雀は、初めて鋭く険しい声を上げた。鞭打たれる思いで喜燕は顔を上げ、そして慌てて下げ直す。いや、そうしようとした。
「ごめ──」
頬に感じた衝撃は、玲雀に打たれたからだった。一瞬にして椅子から下りて、膝をついて平手を見舞った──この速さなら、玲雀の足は完治したと思って良いのだろうか。
「私は、喜燕と競いたかったのに」
頬を抑えることも忘れて呆然と目を見開く喜燕を間近に睨んで、玲雀は語気荒く
「たとえ
玲雀は、声の張りも響き方も素晴らしかった。頭を揺らす大声に、喜燕は目も口もぽかんと開いた。打たれた頬がじんじんとして熱く痛いけれど、そんなことはどうでも良くて。
(どうして……)
どうして燦珠は玲雀のことを言い当てたのだろう、と思った。役者なら足が折れても唄う。喉が潰されても踊る。どうにかしてまた舞台に立とうとするものだ、と。会ったこともない玲雀の気質を見事に言い当てられたのは、何だか悔しい。
「……だから、やることは変わらないわ。次の試験で必ず
「玲雀……」
気がつけば、玲雀は不敵に笑っていた。最初に見せた戸惑いが嘘のように、その眼差しは力強い。口元には笑みさえ浮かんで──喜燕を叱咤しているようだと思うのは、都合が良いだろうか。
(許された訳じゃない。そうじゃない──けど、逃げるのはもっと違う……?)
玲雀は、簡単に喜燕を楽にさせてくれるつもりはないようだった。許しを与えることはもちろん、
「だからあんたも練習していれば良い。後から来た私に追い抜かれたら、恥ずかしいでしょうね? あんたは
「私も、最近は
本当に、喜燕の周囲には眩しい存在が多い。燦珠にも星晶にも玲雀にも、敵う気はまったくしないのだけれど。でも、逃げるのはもちろん、卑怯な手に訴えるのはもうしたくない。できる限り
「だから──良い勝負になる、かも」
玲雀は、ますます目を大きく見開いた。ぱちぱちと瞬きながら、驚きと気遣いを湛える表情豊かな目が喜燕の全身を舐める。白い手がそっと伸ばされ、床についていた喜燕のそれを握った。
「……どうして? あんたが踊らないなんて、何があったの?」
「色々あって。本当に……色々……」
立たされて、椅子に戻されながら、喜燕は呟く。できるだけ大事に聞こえないように伝えるにはどこから始めれば良いだろう。というか、趙貴妃にされたことなんて些末なこと、もっと大切なことがいくらでもある。秘華園で会った人たちがどれだけ眩しいか。仕える御方の美しさと清廉さ。舞い唄うことの喜びを改めて知ったこと。伝えても、玲雀が怒ることはどうやらなさそうだから。
「玲雀、聞いてくれる?」
ようやく、滑らかに声を出すことができた。玲雀の目を、真っ直ぐに見返すことができた。そうして、喜燕は会わなかった間の出来事を語り始めた。
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