後日談&前日譚
第1話 霜烈、梨詩牙を知る
「あよう──」
人混みの喧騒を縫って彼を呼ぶ高い声を聞き取って、
「こちらにおられたか。かように美しい子はまずいないから、
「すまなかった。けれど、遣いはすべて済ませたから」
年端も行かぬ見習い宦官に対するにしてはやたらと丁重かつ大仰なもの言いからして、まだ皇子扱いをされている可能性が高い気がする。後宮の中では正体が露見することがないようにと口酸っぱく言い聞かせる癖に、
(
何しろ、ここでは
とりわけ霜烈の目と耳を引き付けてやまないのが、とある建物だった。音高く鳴る銅鑼に呼ばれるように、浮き立った面持ちの人々が次々と吸い込まれていっている。内部から聞こえる
「あれは、
霜烈がその建物を指さした手をそっと握って、段
「ええ、まあ。とはいえ役者は男ですし、
「うん。……時間がないなら、良いけれど」
宦官というものはなべて皇帝の奴隷であり、後宮での所用を担うものだということは承知している。よって、市井での御用が済んだならすぐに戻るべきなのだ。多少の息抜きは多目に見られるようではあるけれど、芝居を一幕観るのは、市場を見回ったり屋台で買い食いをしたりするのとは訳が違うだろう。
皇子ではなくなった彼は、段
「──まあ、どうとでもなりましょう。いざとなれば
「え、それはいけない」
けれど、少し悩んだ末に段
「気落ちしたお顔を見るのは打たれるよりも辛いこと。隼瓊への土産話にもなりましょう」
彼を見下ろす笑顔、守るように肩を抱く腕、握られた手の温かさ──いずれも優しくて慈しみに満ちて、霜烈の胸を締め付ける。段
彼はそれほどに哀れまれる存在になり果てたのだろうか。
* * *
とはいえ、霜烈の
「──
「お顔が晴れて良かった。秘華園の
「難しいな……。隼瓊のほうが艶があると思うけれど、男の役者の荒々しさも見ごたえがある。……言ったら怒るかな?」
「
「うん。そうする」
段
「
「
彼の表情や目線を読んで、
「また観られるかな」
「まあ……上手くやれば、どうにか。その辺りの立ち居振る舞いも追々お教えいたしましょう」
「うん!」
目を輝かせた彼と裏腹に、けれど
「もっと早くにお救いしていれば、いかようにも自由に生きられたのでしょうに。都どころか国一番の役者にだって。……陛下のご様子がおかしいのを知っていながら手をこまねいてしまって──」
「今のほうが気楽だから構わない。隼瓊にも
彼が望まない類の繰り言が始まる気配を察して、霜烈は慌てて遮った。
彼が名乗り出ることをしないのは、匿ってくれた者たちに罰が与えられるのを恐れるからだけではない。父たちのことを、心から怖いと思うからだ。身体を損ねた深手についても、どうやらそれを悪意なく行ったことについても。市井に出て庶民の親子を見ていれば悟らざるを得ない。あの方たちは、おかしいのだと。
狂った鳥籠から抜け出すことができたなら、喜ぶべきこと。助けてくれた人たちに感謝こそすれ、恨むはずがない。謝られては、身の置きどころがなくなってしまう。
「後宮にいたら
何度言っても信じてはもらえないようだから、霜烈は知ったばかりの役者の名を利用することにした。とはいえ方便ではなく、心からの言葉でもある。
「さようで、ございますか……」
彼の想いが、伝わったのかどうか。あるいはより哀れまれたような気がしないでもなかったけれど。とにかく、段
* * *
「この、
遊び歩いたり親の目を盗んで恋人と密会したりする娘が咎められる、というのは恐らくよくある状況だ。道行く者たちも、大方はちらりと声のほうに目をやるだけで、それぞれの目的地に向かっている。彼だけが立ち止まったのは──大声の主に、心当たりがあったからだ。低く深く、それでいて朗々と響き渡る、
(梨詩牙の声……? まさか、な)
近ごろ芝居を見ていないがための幻聴だと、思おうとした。先帝の服喪と今上帝の即位とで後宮は慌ただしく、何か月も市井に下りる隙がなかったからだろう、と。
梨詩牙は、今は《
(今上の陛下にもお見せできる、芸が優れるだけでなく心も真っ直ぐな娘であれば良い……)
潔癖な皇帝のもと、宴席の祝儀や料理のおこぼれが減ることを危惧する同輩は多い。だが、霜烈としては新しい皇帝に期待していた。後宮の汚濁を知らず、英邁を謳われる才子のもとでならば、政も後宮も先帝の御代とは同じではいられないだろう。それ自体は、喜ぶべきことだ。
ただ、潔癖のあまりに秘華園を廃されるのは悲しい。
「
「跳ねっかえりが大道芸の真似事をしていると聞いたのだ。これが座っていられるか!」
……今度聞こえたのは、若い娘の声だった。甲高いが決して耳障りではなく、むしろ天に吸い込まれるようによく響く。先に聞こえた男の声に劣らぬ声量だ。そして──応じた父親らしき怒声は、今度こそ聞き間違えようがなく、霜烈が十五年に渡って追いかけてきた役者のものだった。
(……梨詩牙だ)
断じた瞬間、霜烈は踵を返してふたつの声の源を目指していた。人波を乱す彼に、非難の眼差しが四方から刺さる。中には怒鳴ろうとして口を開けて、そしてすぐに閉じる者が見えるのは──宮仕えの宦官と知って面倒を避けたのか、やたらと目立つ彼の容姿が何らかの効果を発揮したのか。分からないし、どうでも良い。
とにかく──大声で言い争う
「──我が名は
紅梅の木の枝の上で、満開の花よりもなお誇らかに。花と同じ色の舞衣を纏った少女が胸を張って宣言したところだった。
(私は、梨詩牙の娘を探していたのか)
思いがけない運命に気付いて、霜烈の唇は自然と笑みを形作っていた。あの名優の娘なら、技量に懸念はあるまい。そして、気性のほうも。この大胆さに負けん気、物怖じのしなさ。後宮で委縮するどころか、あの場所に降り積もる鬱屈を一掃してくれそうだ。何よりも華があるのが良い。演じるところを観たいと思わせられる。
(この娘なら、きっと──)
浮き立つ思いのままに進み出ながら、霜烈は大きく息を吸った。彼の声や容姿に驪珠の面影が少しでもあるなら、今こそ利用する時だと思った。舞台に上がる役者のように、客の意識を惹き付ける
「──乗った」
燦珠と名乗った娘と目が合った瞬間に、彼の大芝居は始まった。父の反対を押し切って、娘を後宮に誘い出すための。贔屓の役者に憎まれそうで、それは悲しいことではあるが。だが──それだけの意味と価値があるはずの一幕だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます