第3話 燦珠、褒美を得る

 願うことは、決まっている。燦珠は大きく息を吸うと、腹に力を込めて高らかに宣言した。


「この人を、私にください!」


 渾天こんてん宮の皇帝の居室は、目が眩むように豪奢ではあっても、劇場にくらべればさすがに狭い。ずっと口を挟めなかった反動もあって、燦珠が喉を限りに叫んだ大声は朱塗りの柱や瀟洒な絵に飾られた壁をよく震わせた。言ってやった、と思ったのだけれど──


(……あれ?)


 燦珠はすぐに、場の微妙な空気に気付いてしまった。


「……助命を願うだけで良かったのだが……?」

「よく考えるのだ。せっかくの褒美を無駄にしようとしているのだぞ」


 激昂して立ち上がっていた皇帝は、怪訝そうに首を傾げながら玉座に戻った。そして、平伏した体勢から上体を起こしていた霜烈そうれつのほうは、呆れたような表情で眉を寄せ、説教めいたことを言ってくる。


(……良い考えだと思ったのに……)


 気まずさを誤魔化すために平伏の姿勢に戻りながら、燦珠は伏せた面の影で唇を尖らせた。


「だって。どうせまた屁理屈を捏ねてどこかに行ってしまいそうなんだもの……!」


 霜烈が自らの正体を明かし始めた時、燦珠はものも言えないほど驚いた。そして次に納得した。彼の言動のあちこちに感じていた違和感が、腑に落ちてしまったのだ。

 驪珠りじゅの廟に跪いた時の念入りさ。どこか捉えどころのない受け答え。嫌がると思って部屋に押しかけてやる、と言ったのに笑っていたのだって、そうだ。燦珠は空の部屋を訪ねることになると思っていたからこその余裕だったのだろう。思い返せば、死なせて欲しい、とかいう物騒な願いだって。陽春皇子を、という意味ではなくて文字通りに彼のことを、という意味だったのだ。霜烈は──皇帝に死を賜る機会を狙っていたのだ。


(私になんてことをさせようとしてたのよ!)


 彼を死なせる手伝いをしていたのかと思うと、血の気が引く──前に、操られていた怒りで全身が煮えたぎる。だって、質の悪いことに、霜烈は初めから嘘は吐いていなかった。彼のすべては秘華園ひかえんのため。隼瓊しゅんけいがいて驪珠がいた、彼の故郷と呼ぶべき場所を守るためなら、燦珠という新風しんぷうを探し出して送り込むし、皇帝に意見も述べる。彼自身の命も簡単に投げ出す──そんな狡賢くて油断できない人を引き留めるためには、なりふり構っていられない。


(絶対にまた唄ってもらうんだから! 私も、見て、聞いてもらうんだから!)


 演じ手としても、観客としても。驪珠の渾身の演技を見て育った人を、逃がす訳にはいかないのだ。──だからやっぱり、燦珠の願いは変わらない。決意も新たに、彼女は膝でいざって皇帝に訴えた。


「ほかのものは要りません。よう奉御ほうぎょの元の名前が何であろうと、見逃してください」


 この御方は優しいから、叶えてもらえると信じたかった。足を折られた喜燕きえんを自ら運んでくださった御方に、血を分けた従弟を殺させるのだって良くないことのはずだから。


「そのように簡単に──」


 話の主導権を取り返そうというのか、霜烈はまだ何か言いかけたけれど──


「うむ。確かに何でも、と言ったからな。与えなければなるまい」

「陛下……!?」


 力強く頼もしく、はっきりとした快諾の御言葉を聞いて、狼狽えた声を上げていた。正直言って、ざまあ見ろ、と思う。皇帝も燦珠と同じ思いなのか、先ほどまでと打って変わった上機嫌な調子の玉声ぎょくせいが、彼女たちの頭上に降ってくる。


「楊霜烈。そなたを鐘鼓司しょうこし掌印しょういん太監たいかんに任じる。──皇宮内の遊戯や娯楽を司る部門だ。当然、秘華園ひかえんも管轄下になる。間近で好きなだけ見張るが良いぞ」

「はい!」


 御言葉の後半は、燦珠に向けての説明だった。手厚い心遣いに胸を弾ませて、燦珠は勢いよく答える。次いで聞こえた衣擦れの音と影の動きからして、皇帝は再び立ち上がり、霜烈を見下ろしたようだった。


「秘華園を存続させたいのなら、人任せにするでない。過ぎた贅も、収賄の悪習も許さぬ。そなた自身であるべき姿に監督せよ」

「……私を生かしてはいずれ後悔なさるでしょう」


 負け惜しみのような脅しのような呟きを、皇帝は鼻を鳴らして一蹴した。


「くだらぬ疑いに取り憑かれることを恐れるならば、諫めよ。醜聞や陰謀に脅かされることを憂えるなら、ちんの治世を助けよ。それができぬていどの皇帝を相手に、命を懸けた取引など考えるな」


 静かで低い声の奥底に、けれど激しい怒りが聞こえる気がして、燦珠は思わずかしこまった。まったく不思議なことではないけれど、至尊の地位にある御方はどうやらものすごくご立腹のようだ。霜烈でさえ感じることはあったらしく、息を呑んだ気配が伝わってくる。


(そりゃそうよ。なんだかすごく──失礼だったもの)


 先ほどまでの皇族ふたりのやり取りは、言葉で斬り合うような緊迫感があった、と思う。それも、燦珠が口を挟む隙を見つけられなかった理由のひとつだった。どこがどう、とは庶民の小娘には上手く言えないのだけれど、たぶん霜烈は相当な非礼を、しかもわざと働いたのだ。


(それでも許してくださるんだから、やっぱり良い方だわ!)


 とはいえ既に言質をいただいているから、燦珠は安心して傍観することにした。皇帝のお叱りはまことにもっとも、大事な場所を守るのに、人任せにして勝手に逝くなんて許されないのだ。もっと言ってやっても良いと思う。


 やがて──霜烈が詰めていた息を吐くのが、聞こえた。それはたぶん、降参の合図。燦珠の視界の端で影が動いて、彼が深く平伏したのが窺える。


「……不明でございました。身に余る大役ですが、誠心誠意、務めたいと存じます」

「それで良い」


 満足げに頷いた後、皇帝はやや声の調子を和らげた。


「最初の務めは香雪こうせつ貴妃きひに上る祝宴の席になろう。喜雨きう殿が空くからな、後宮の安定のためにも必要なことだ」


 そう──瑞海ずいかい王のの咎は、姪であるちょう貴妃きひ瑛月えいげつにも及んでいた。例によって明確な罪に問われたのではなく、もはや皇帝の傍に侍るのに相応しくないと、自ら後宮を去って山奥の道観どうかんに入る形になるのだとか。実質上の追放であり幽閉だ。


『あの方に耐えられるのかな』


 喜燕きえんがぽつりと呟いた声が、燦珠の耳に蘇る。かつての主を案じているのか、単純に疑問に思っただけなのか、乾いた口調からは聞き取れなかった。燦珠としては、嫌な記憶も多い殿舎に出入りすることになる喜燕のほうが心配だけど──でも、香雪がいれば大丈夫だろう、きっと。喜燕のことも、後宮のことも。趙貴妃が抱えていた戯子やくしゃたちの行く末のことも。


 香雪を貴妃に、という考えは、皇帝にとっても喜ばしいものなのだろう。華やかな席のことを語る声は、珍しくも意外なことに楽しげなものだった。


「そなたは今度こそ鳳凰ほうおうを舞うのが良いだろう。万寿ばんじゅ閣を久方ぶりに使って盛大に──となると、さぞ忙しくなるのだろうな」

「はい!」

「は──」


 元気良く頷いた燦珠に対して、霜烈の相槌の声がやや引き攣ったのは、万寿閣の現状を思い出したからかもしれない。燦珠も直に見て知っているけれど、年単位で放置されていたというあの楼閣を手入れするのは結構な大事業ではないかと思う。


(余計なことを考えないように、しっかり働けば良いんだわ!)


 あの大舞台で堂々と舞えるのは、燦珠にとっても光栄なこと。香雪のため、皇帝のために、今度こそ鳳凰の祝福の舞を披露できるよう──そのためにも、霜烈には頑張ってもらうことにしよう。


 燦珠と霜烈、それぞれの反応を見下ろして、皇帝は微笑したようだった。双方に対して落ち着け、とでも言うかのように声の調子を改める。


「まあ、練習も準備もしばらくの猶予はあるだろう。──百日少々の後になる。秋の会になると心得ておけば良い」

「百日……?」


 どうしてそんなに間を開けるのか、と。首を傾げた燦珠の横で、霜烈が身動ぎする気配がした。そして彼が上げた声は、いつになく硬い。


「服喪の後と、いうことでございましょうか」


 後宮で生まれ育った人は、さすがに察しが良いのだろうか。服喪の間は慶事を避けるものと、言われてみれば燦珠にも分かるけれど──


(服喪? 服喪って誰の?)


 瑞海ずいかい王の死が悼まれることはないだろうし、罪人ならばなおのこと。陽春ようしゅん皇子については、ずっと以前に亡くなったことになったから今さら、だろうし。けれど、燦珠が長く考える必要はなかった。皇帝が、すぐに答えを教えてくれたのだ。


「そうだ。義母はは上が弱っておられる。お心も、お身体も。そう長くは持たないだろうと聞いている」


 祝宴の話は、きっとこれを伝えるための前置きでしかなかったのだ。気付いた瞬間、燦珠は礼儀も忘れて顔を上げ、霜烈のほうを窺ってしまった。


「さようでございますか」


 呟いた彼の横顔は彫刻のように整って、かつ平坦なもの。その裡にどのような感情が渦巻いているかを見せてくれてはいなかった。

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