第4話 霜烈、別れを告げる
(ああ、
地位に相応しい品格を保ちながら華美ではなく、優しい──けれどどこか
皇帝は、彼に供を命じて
「陛下。このような遅くに──」
「お姿をひと目なりと伺いたいと思ってのこと。
「……既にお休みでいらっしゃいます。お静かにしてくださいますように」
今上帝の日ごろの言動では、皇太后の死期を悟って孝心ゆえに思い立った、と信じさせるのは少々苦しい。ただでさえ皇帝の接待には気を遣うものなのだろうに。──だが、誰もが皇帝の挙動に注視するお陰で、霜烈はその影に隠れるようにして素知らぬ顔で通ることができた。貴人につき従う宦官の顔をわざわざ覗き込む者はそうそういないが、念には念を入れてくれたのだろう。
すべては、彼が最後に皇太后と言葉を交わせるように、との過分の恩寵だ。それが察せられるからこそ、霜烈には固辞することができなかったのだ。
「
皇太后の寝室の前で、皇帝は人払いを命じた。その上で、背後に控えた霜烈に、指先の動きで入れ、と命じる。それに従って寝室に入ると、義母の気配は一段と濃く、彼の首を絞めるようだった。浅く呼吸しながら寝台の傍に辿り着き、膝をつく。と、人の気配に気づいたのか、闇の中で
「……誰かいるの……?」
さて、何と名乗るべきか──少し悩んでから、霜烈は恐らく一番分かりやすく真実に即した答えを捻り出した。
「貴女様の陽春であった者です」
怯えたように息を呑む音が聞こえた。何しろ
「
「そのようなことはいたしませんし、お恨みしている訳でもございません。……それほどには」
痛かったし、怖かった。驪珠を母と呼ばせて欲しかったし、もっと触れ合わせて欲しかった。けれど、はっきりと恨むにはこの御方の心の裡は不可解すぎる。夢の中に漂うように生きている御方に、恨み辛みをぶつけたところで何になるだろう。
「では……会いに来てくれたのかしら。
「そう……
ほら、皇太后は彼の言葉を都合良く聞き取って目を輝かせた。死んだ子の
(
呆れて苦く笑いながら、霜烈は親代わりの師に倣おうとした。とうに諦めた「もしも」を数え上げるのは、彼にとっても少なからず苦痛を伴うことではあったが。
「上手くやれば、私は驪珠を忘れて貴女様を母と慕っていたでしょう。兄上がたに睨まれることなく
もはやあり得ない結婚に言及した時、思い浮かべたのはなぜか燦珠の眩しい笑顔だった。王妃の位を喜ばないのは当然として、そもそも嫁に行く気などないと明言していた娘なのに。まして宦官と添うなどと、父の
「……そうならなかったのは、ご自身の行いのせいです。貴女様が、私を殺したから」
ともあれ、我が子からの糾弾は、さすがの皇太后にも多少は堪えたようだった。いつの間にか寝台に半身を起こした老女は、弱々しく震えていた。暗い中でも分かる。髪は色褪せ、痩せた肩は折れそうに細い。──もはや彼を閉じ込める力はないことに、ようやく気付く。
「
「まあ、
この御方に恨み言を言いたかった訳でも、苦しめたかった訳でもない。彼はただ、解放されたかっただけなのだ。そう気付いた瞬間、霜烈は心が羽根のように軽くなったのを感じた。
「阿陽……?」
「死んでから手に入れたものも、結構多かったということです」
彼を守り匿ってくれた者たちに対して、霜烈はずっと、感謝と同時に申し訳なさを感じていたのだ。露見した時に罪に問われるだけではなく、人生を賭けてくれたことを知っていたから。優れた
(あんなに怒られるとは思わなかった……)
燦珠の密告を受けた隼瓊たちに、彼はたっぷりと絞られていた。親代わりと思っていた方たちに、子供のように叱られるのは居たたまれなく、彼女たちの目に涙が浮かぶのを見るのは心が痛むことだった。けれど、同時に嬉しくもあった。どうやら彼は、考えていた以上に愛されていたのかもしれない。気付くことができたのは燦珠のお陰で──そして、この身体になっていなかったら、あの娘と会うこともなかったのだ。
「阿陽。何の話をしているの。分からないわ……」
「でしょうとも。
悲しげな表情を浮かべた皇太后を、霜烈は優しく突き放した。もはや関わりのない御方に対してなら、いくらでも微笑みかけることができそうだった。
「おやすみなさいませ、
「……ええ。
呟いた時には、皇太后はまた夢の世界にさ迷い始めていたようだった。夫君と睦まじく語らっているかどうか──それもまた、霜烈には関わりのないこと。彼としては、驪珠を越えるかもしれない
* * *
「──もっと言って差し上げても良かったと思ったが」
「言って聞く御方ではございませんから」
彼と皇太后のやり取りは、寝室の外で待っていた皇帝も聞いていたのだろう。何なら
(本当に、当代の陛下は先代とは何もかも違う……)
最初から高潔さ
「──時に、陛下。
「いや。先例を尊重したためだけではなく、か?」
唐突な問いかけに、怜悧な眼差しがちらりと霜烈を振り返った。
「
時に騒々しいほどの管弦の音が響く中では、盗み聞きもできないだろう。そもそも、後宮で私的に開かれる席に介入できる者は限られる。優れた
無論、内密で話を進める機会が多すぎれば臣からの不信や不満を招くし、信用できる
「……なるほど」
その辺りは言うまでもなく了解したのだろう、皇帝は頷きながら前に向き直った。夜空には月が明るく輝き、彼らの道行きを照らしている。
「そのような方法もあるということを、御心に留めていただければと存じます」
「それができるように秘華園を整えるのも、
「お望みとあらば」
命じられた役に、もはや不満はない。先日の一喝には心から納得している。秘華園の健全な存続のために自ら働くのは名誉と心得ている。
「考えておく」
話をしているうちに、彼らは
数日後、皇太后の
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