第2話 皇帝、脅迫される

 自身の唇から漏れた喘ぎを、翔雲しょううんは他人のもののように遠く聞いた。


従弟いとこ殿……?」

「は。今となっては証拠もございませんが」


 渾天こんてん宮の一室にて。彼の前には、よう霜烈そうれつ燦珠さんじゅが並んで平伏している。皇太后が見たという幽鬼ゆうれいは、この者たちの仕業に違いないと踏んで呼び出したのだ。万寿ばんじゅ閣での大がかりなを、ふたりはあっさりと認めたが──霜烈は、自身の出自について信じがたいことを述べた。否、信じられるかどうかで言えば信じるしかないのだが。


(証拠がなくとも十分だ……そうでなければ説明ができぬ……!)


 知ってしまえば、何もかもが腑に落ちる。


 霜烈の尋常ならざる美貌も、最初に召した時の先帝への批判めいたもの言いも。皇帝の前で恐懼きょうくする風が見えなかったのも、花旦むすめやくを求めて市井を奔走したのも。

 数多あまたの宦官を容易に動かせたことも、そうだ。傷を負った皇子を匿った者たちは、敬いつつ大切に養育したのだろう。そう隼瓊しゅんけいと同様に、彼らもどこの馬の骨とも知れぬ詐欺師が陽春皇子を騙ることを見過ごせなかったのだ。


 納得と同時に目眩を覚えながら、翔雲は掠れる声で呟いた。


「顔を上げよ。……上げてくれ。そなたは、そのようにへりくだるべき存在ではない」


 聞かされたばかりの先帝と皇太后の所業は、胸が悪くなる類のものだった。だが、私欲のために我が子を切り刻む親よりもなお、今現在の彼の行いはおぞましいと思えた。傍系の身で帝位に就き、先帝の子を額づかせるなど。


(本物の陽春皇子が健在ならば、俺は位を退くべきだ……)


 かつて戯れに吐いた言葉が、今の彼をさいなんでいる。見えない棘を抜こうとでもするように、意味もなく胸を抑える翔雲に対して、霜烈の声はどこまでも平静で涼やかだった。彼の懇願に応えて、顔を上げる気配はない。そのようにして、彼の後ろめたさを減じてはくれないのだ。


「二代に渡って一天万乗いってんばんじょうの御方を欺いた大罪人でございます。上げる顔などございませぬ」

「黙っていれば済んだことだ! なぜ自ら罪を訴える!?」


 罪を隠せ、真実を覆え、などとは本来道に外れたことだ。だが、そう叫ばずにはいられなかった。

 霜烈の求めに応じて人払いをしていて良かった、と思う。皇帝たる者、このようにみっともなく狼狽うろたえた姿を見せる訳にはいかない。──あるいは、簒奪さんだつ者に堕するところを見られたくない。彼がいかに望もうと、翔雲を支持する者たちは玉座を放り出すことを許さない。霜烈の告白は自身を危険に晒すだけだろうに。


「打算ゆえ、でございます」

「何だと……」


 伏せたおもての影で、霜烈が整った唇を笑ませたのが見えた気がした。この男は、姿ばかりか声も美しく、しかも間の取り方も抑揚も絶妙だ。聞き手の注意を惹き付ける力を、存分に自覚しているのだろう。楽の調べに等しい声に聞き入らせておいて、何を言おうとしているのかはまだ知れないのだが。


奴才わたくしめの罪はひとつではございませぬ。先帝の傍にあって奢侈を諫めず、身を隠すために多くの者に欺瞞を重ねさせました。あまつさえ、捨てた名を利用して宦官を扇動せんどうさえしました。どのようにして償えば良いものか、考えるだに恐ろしいことですが──」


 本来絢爛な龍袍りゅうほうを纏うべき者が、奴才わたくしめ、などと奴婢ぬひの自称を使うのを聞くのもまた、落ち着かず不快なことだった。霜烈が言う罪とは、罪とも呼べぬようなものばかりだからなおのこと。

 奢侈を咎めぬのが罪なら、皇宮の大方の者に罪がある。陽春皇子が身を隠すことになったそもそもの原因は先帝の非道だ。そして、霜烈が扇動と呼ぶ行いは、翔雲を利した。


(玉座を盗むほうがよほど罪深いだろうに……!)


 口に出して指摘する勇気を持たない彼を、嗤う訳ではないのだろうが。霜烈はいっそ朗らかに続けた。


「とはいえ、此度のことについてはいくらかの功績ではございましたでしょう。今ならば、陛下の慈悲を乞えるのではないか、という打算でございます」

「慈悲。どのような」


 霜烈に何かを与える──返すことができる、という発想は翔雲をわずかに安堵させた。

 皇宮の奴婢ぬひなどではなく、安楽かつ裕福な生活を約束することができるなら、ささやかながら償いにはなるだろうか。真実を明かせぬ以上、過分な寵に眉を顰める者もいるだろうが。今の彼では、黙らせるのに多少手を焼くかもしれないが。確かに霜烈にはそれだけの功がある。だが──


奴才わたくしめの一命をもって、ほかの者の罪は免じてくださいますように。そして、秘華園ひかえんを存続してくださいますように。陛下の御代ならば、さほどの害にはなりませんでしょう」


 落ち着いた声で死を願われて、翔雲は思わず立ち上がっていた。金糸銀糸の刺繍を施された絹の、重たげな衣擦れの音を聞いてか、霜烈はやっと面を上げる。


「封土や爵位を与えるよりはよほど簡単なこと。そして、面倒のないことかと。我が身はいずれ必ず、御身の悩みの種となりましょう。だから、今のうちに──」


 蕩けるような声に、蕩けるような美しい笑みだった。やはりこの男は自身の容姿の使い方を熟知している。さらには、夜の闇よりなお黒い目は、何もかもを見透かしているようだった。彼の後ろめたさも動揺も。先帝の子という存在の厄介さ、自身が招きかねない混乱も。──殺すのが一番早いだろう、との提案は、計算の上では正しくはある。


「陽春皇子は亡くなったのだ。死者の名は二度と汚させぬ」

「とはいえ真実を知る者はおります。何より、いつ御心が変わるやもと不安を抱えるくらいならば、今がこの命を一番売れる時かと思ったのですが」


 売る、という卑俗な語から霜烈の真意が窺えた。この男の目的は、翔雲に罪悪感を植え付けることだ。帝位を保つために先帝の子を殺したという罪の意識があれば、秘華園に手を出すことはできなくなるだろうと踏んでいるのだ。


(俺を、ずいぶんと高く評価してくれたものだ。その上でひどく見くびっている……!)


 霜烈は、罪の意識を覚えるだろうと考えるていどには翔雲を信じている。だが一方で、損得計算で従弟を殺せる者だとも考えているのだ。あるいは、また先のような陰謀が起きれば彼には抑えられないとの評価かもしれないが──いずれにしても、器をこのていど、と見積もられる不快さに翔雲は奥歯をぎり、と噛み締めた。


「……俺に恩を売ろうというのだな」

「御意。畏れ多い不敬でございます。やはり死罪が相応しいかと」


 低く唸っても恐れる風がまったくないのは、これこそが霜烈の狙いだから、だろう。皇帝かれの激昂を誘って、死を賜ろうとしている肚が透けて見える。そうさせぬためには、どのように論を張るべきか──翔雲は、考えようとしたのだが。


「あの」


 か細く高い声が響いて、彼はやっとこの場にもうひとりいたことを思い出した。霜烈が語ることに動揺するあまり、燦珠さんじゅの存在が霞んでしまっていたのだ。いつも騒がしいほどに溌溂としている娘が、見れば今は小刻みに震えている。細い肩も、床についた指先も。その様子を見て、翔雲は何となく察した。


(この娘には言っていなかったのか……)


 思えば、燦珠が沈黙したのは霜烈が素性を明かしてからだったかもしれない。予定にない展開になったから絶句していた、ということなのか。では、親しいであろう者の命に関わる話をされて、さぞ恐ろしかったことだろう。


「この人の言うことを聞いてはいけません。……いつも、思い通りにしてしまうんだから」


 この娘は芝居も上手いのだろうな、と。翔雲の頭を場違いな感慨が過ぎった。さほどの大声ではなくとも震えていても、燦珠の声は彼の注意を逸らしてくれた。まったくもって言う通り──経緯や生まれはともかくとして、今現在、帝位にあるのは彼なのだ。嫌なことは嫌といえばそれで済む。まるで、悪夢から醒めた心地だった。

 翔雲が肩の力を抜いた一方で、霜烈は眉を寄せて娘を横目で軽く睨んでいる。場の空気が変わったことを察したのだろう。


「黙っていなさい。そなたまで不敬の咎を被ることになる」

「だって、また唄ってくれるって言ったのに。嘘吐き!」


 うたの時の豊かな声量で怒鳴りつけられて、霜烈はふいとそっぽを向いた。そうして脇に零した呟きは、翔雲を挑発していた時とは比べ物にならない弱々しいものだった。


「機会があれば、と言った。なくなったなら残念なこと」

「最初からこのつもりだったのね!? ひどいわ! 私は……貴方を死なせるために驪珠りじゅを演じたんじゃないのに! 隼瓊しゅんけい老師せんせいだって──」


 娘が、怯えではなく激しい怒りによって震えていたらしいのに気付いて、翔雲の頬が緩んだ。


(まったく面白い娘だ)


 型破りで、怖れを知らない。無礼だが、咎めることさえ忘れる勢いはいっそ小気味良いほどだ。真っ直ぐな気性がすぐに見て取れるからだろうか。


「梨燦珠」


 なぜか楽しい心地で、翔雲は娘の名を呼び、いつまでも続きそうな糾弾を中断させた。


 この場はこの娘に任せるのが良いだろう、と思えた。秘華園で最初に難題を出した時と同じく、彼には思いもよらない答えを見せてくれそうだから。表情も声も豊かで騒がしく、それでいて国を動かす舞を見せた──この、眩しい娘なら。


「何よりもまずそなたの褒美の話をすべきであった。望むものが、あるのだろうな? 何でも好きに申すが良い」


 物怖じせずに、不思議そうに目を瞬かせる燦珠に、翔雲は笑ってみせた。何を言うべきかは分かっているな、と。視線で念じると──


「──はい! ありがとうございます!」


 太陽が雲間から姿を見せたかのような、輝くばかりの満面の笑みが娘の顔を彩った。

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