第4話 万寿閣、黄昏に燃ゆる
その役者は確かに「
皇帝の権威によっていかなる関所も門を開くし、早馬も替え放題だから、数日のうちには梁氏は皇宮に到着するだろう。もちろん、彼が知るのが本当に「陽春皇子」かどうかは、面通しをしてみるまで分からないけれど。
(でも、もたもたしてると天子様が危ないから……
燦珠にその情報を教えてくれたのは、香雪だった。あの夜以来、
よって、少なくとも日中なら、これまでとさほど変わらず香雪の殿舎を訪ねることもできたのだ。
『貴女たちのお陰ね。ありがとう……』
そう言って微笑みながら、香雪の顔色はその名の通りに雪の色をしていた。初めて会った時よりもなお白く、消えてしまいそうで──毒殺を警戒しているという皇帝に倣って、自ら食を断っているのではないか、という気配さえした。
(
気晴らしに
皇帝や香雪の身体のためにも、偽物を擁する一派に対策する余地を与えないためにも、事態の収拾は急がなければならない。梁という役者が到着し次第、皇帝はあの偽物を糾弾する席を設けるだろう。
だから──その席に間に合わせるべく、燦珠は舞台に立たなければならない。
皇太后の甘い悪夢を醒めさせるのだ。「陽春皇子」が偽物だと認めていただけたなら、最大の庇護者を失わせることができたなら。皇帝にとって有利な風を吹かせることにもなるだろう。そう信じて、燦珠は密かに鍛錬を続けた。そして──
「ここまでとしよう。今夜と明日はゆっくりお休み。明日の夜に──万全の調子で臨めるように」
「は、はい……」
練習終わり、を告げる
今日だけの話ではない。本番までに振り付けや歌詞をさらえるのはこれで最後だ。燦珠が演じる《
これまでの練習も、
あまりに人気がないから、夕暮れの気配を感じたらすぐに離れたほうが良いくらいだ。うっかり足を踏み外しでもしたら、真面目に遭難の恐れがあるから。
「皇太后様は、信じてくださるでしょうか……」
立ち上がって身づくろいするだけで、身体の節々がぴりぴりと痛んだ。
練習を始めたばかりのころは、一日が終わると身動き取れなくなるほどの疲労と筋肉の痛みを覚えていたから、これでもだいぶマシになったけれど。
隼瓊や
指先の表情、腕の角度、首の傾け方、胴の使い方──これまでに収めた
(
こんな風に、急ごしらえで形だけ叩き込むのではなくて。生きた手本を前に、時間をかけて自身を磨いていくことができれば、良かった。
せめて安心できる言葉が欲しくて、問うたのだけれど。隼瓊の答えは冷静かつ慎重なものだった。
「暗い上に遠目だからな。《
「そうだと、良いです……」
距離と暗さと衣装に助けられて初めて、どうにか誤魔化せるだろう、くらいの練度らしい。
驪珠という遥かな
「
「はい」
《
言葉遣いや口調についても、本人を知る人たちが細やかに指導してくれているから、
いまだ表情が硬い燦珠を案じてか、隼瓊の微笑に苦い色が混ざる。端整な顔に
「……私はずっと勇気がなかった。
喜燕が足を折られても口を閉ざしていたのは、徳高くあらねば、と考えたからでもあったらしい。彼女を縛る言葉をかけていたのだと知った隼瓊は青褪めていた。
後宮にあって常に正しくあることはとても難しい。この短い間でも嫌というほど知ってしまっていたから、燦珠は師を非難する気にはなれなかったけれど。
先帝が驪珠にしたこと。皇太后がその子に──霜烈にしたこと。間近に見て誰よりも心を痛めてきたのは隼瓊なのだろうから。
「
隼瓊は──それに驪珠も──、皇太后を名で呼ぶ名誉さえ許されていたのを、燦珠はこの間に初めて知った。燦珠や喜燕に対する香雪のように、
あんな、母にとっても子にとってもひどくて可哀想なことを。どうして、というのは、まさに隼瓊がずっと問い続けてきたことに違いなかった。
「……あの者が現れた時に、あの御方が喜ばれるだけだったのが信じられなかった。大変に、驚いた」
「……はい」
おずおずと相槌を打ちながら、燦珠は悟る。
隼瓊の憤りの理由は、偽物が「陽春皇子」を名乗っていることだけではない。皇太后が、可愛がっていた子を見分けられなかったこと、その子につけた取り返しのつかない傷を、すっかり忘れてしまっていたようにしか見えないことについても、偽物に対してと同じくらい怒っているのだろう。
(真っ先にごめんね、って言って……それから大丈夫だった、って聞くところだったわ……本当なら)
そうしないで、単純に再会を喜ぶことができるなんて──都合の悪いことは忘れる、という霜烈の評は、確かに当たっているのかもしれない。偽物を疑うことをしないのも、そうすれば過去の過ちをなかったことにできるから、ということなのかも。
それなら、まずは都合の悪いことを思い出させて差し上げなければ。それこそが、燦珠の役どころだ。
「私は、あの方にせめて悪かったと思っていただきたい。若い者に重責を負わせるのは、大変に情けないことだが──どうか、頼む」
「はい……!」
隼瓊の鋭くも必死な眼差しを受けて、燦珠は三度目にしっかりと頷いた。その瞬間──ふたりの間に、黒い影が割って入る。巨大な鴉が舞い降りたかのようなその影は、黒衣を纏った霜烈だ。彼には、本番に備えて舞台の準備を整えてもらっていた。隼瓊が点した灯篭の灯りを見て、帰りの時間だと察したのだろう。
「お待たせいたしました」
「いいや。……首尾は?」
「
今となってはなんの不思議もないことだけれど、彼は隼瓊に対してはとても礼儀正しく恭しい。
秘華園の
ただでさえ深い色の目は、夕闇が迫る中で見るといっそう黒く、深い淵に誘われるような気持ちになる。
「明日は、明るいうちに十分に仕組みを見ておいたほうが良いと思う」
「ええ、そうね」
もちろん見蕩れている場合ではないから、燦珠は頷きながら視線を上げた。霜烈が現れたほう──明日、彼女が立つことになる舞台を改めて目に収めるために。
(三階建ての舞台を備えた大楼閣──いつか登ってみたいと思っていたけど、こんな形になるなんて)
彼女が見上げる先に、壮麗な楼閣が
黄色の
万寿閣は、驪珠が《
──けれど、明日の夜には久方ぶりの芝居の幕が上がるのだろう。隼瓊が、皇太后を誘い出してくれることになっている。
(絶対に、成功させるのよ……!)
舞台そのものも演じる役も、かつてなく重く大きなもの。でも、潰されることなんて許されない。震えそうになる足を、俯きそうになる足を叱咤して、燦珠は万寿閣を睨め上げた。
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