第3話 喜燕、涙する

 額に冷たいものが触れるのを感じて、眠っていた喜燕きえんは身動ぎした。

 途端に、右足首を起点に激痛が走って、身体を丸めて呻く。すると額に触れた冷たさが離れたので、誰かが絞った布で拭いてくれていたのだ、と気付く。


 ゆっくりと目を開けると、見知った少女が、見たことのない表情で彼女を見下ろしていた。


「……燦珠さんじゅ

「おはよう、喜燕。……えっと、気分はどう? お腹は空いていない……?」


 何度か瞬きをするうちに、秘華園ひかえんの自室で寝ていたのだ、とようやく認識する。瑛月えいげつに足を踏み折られて、皇帝に抱きかかえられるという光栄に浴して──しん昭儀しょうぎの殿舎で手当を受けたところまでは覚えている。


 では、傷の熱で朦朧もうろうとしているうちに、秘華園に戻されたのだろうか。


「大丈夫」


 答えた声がかすれていたからだろうか、燦珠が悲しそうに眉を寄せるのが申し訳なかった。この娘の溌溂とした輝きが、喜燕なんかのために曇ってしまうなんて。こんな、らしくない表情をさせてしまうなんて。


(本当に、大丈夫なのに……)


 気分も空腹も──足のことも。


「燦珠が無事で良かった。星晶せいしょうも、なんだよね……?」

「え、ええ。しゃ貴妃きひ様が動転なさってて、まだ永陽えいよう殿から出してもらえないそうだけど。でも、喜燕のことを心配しているそうよ……?」


 皇帝に囁かれたことを思い出して尋ねると、燦珠は大きく首を上下させた。

 星晶の危機を聞いて、謝貴妃が大騒ぎするのは目に見えるようだったから、喜燕はほんの少し、傷に障らないていどに笑う。彼女の綺麗で高潔な友人たちが無事で、本当に、良かったと思ったのだ。


「あのね、隼瓊しゅんけい老師せんせい香雪こうせつ様も、良いお医者を探してくださるって。だから喜燕も早く治して──」

「私は、良いの」


 枕元に据えた椅子にかけて、燦珠が懸命に言い募るのを、喜燕はそっと遮った。彼女なんかを気遣う必要なんてないことを、早く教えてあげなくては。これは、当然の報いなのだと。罰を受けた今ならやっと、軽蔑されることも打ち明けられる。


「あのね──」


 いっそ安堵しながら、喜燕は口を開いた。


      * * *


 玲雀にしたことを語り終えた後、燦珠は考え込むように黙り込んでいた。


 喜燕の目の高さにちょうど映るのは、馬面裙スカートをぎゅっと握りしめる燦珠の指。そこに込められているのは怒りなのか呆れなのか、分からないから沈黙が怖い。


 けれど、尋ねることもできなくて、喜燕は心臓がどきどきと激しく脈打つ音を聞きながら待つことしかできなかった。そして──燦珠はようやく、口を開いた。


「……それは、関係ないと思うわ」

「え?」


 ひどく難しい顔で言われたことが呑み込めなくて、喜燕は間の抜けた声を上げてしまった。


「その玲雀れいじゃくっていう子が怒るのは、分かるのよ。私でもきっとそうだもの。そんなことをした奴を、ひっぱたいてやりたいと思うでしょうね」

「うん……」


 それでも、燦珠の続く言葉は彼女が恐れつつも予感していた通りだったから、悄然として受け止める。

 いつもは朗らか声な声が今は険しく、そこに宿る燃えるような憤りは、鳳凰ほうおうの衣装を損ねられた時に聞いたのと同じもの。やはりこの娘は、卑怯な手段に訴えるなんて想像したこともないのだろう。


「でも、ちょう貴妃様はそのことを知らないんでしょう? なんで、知らない人にやられたのを罰だと思うのよ! それは、喜燕が怒って良いことでしょう!?」


 ほら、今もまた、燦珠は拳を握りしめて眉を逆立てている。

 

でも──何かがおかしい、ような。彼女の怒りが向いているのは喜燕ではないような気がするのは、都合の良い思い違いだろうか。


「喜燕の老師せんせいだって。言ってることが変だって、ずっと思ってたのよ……! そんな人たちが喜燕に罰を与えることができるはず、ないじゃない!」

「で、でも」


 どうやら本当に、燦珠は喜燕のために、瑛月えいげつたちに対して怒ってくれているらしい。

 身を乗り出して力説する燦珠の目の輝きに圧倒されて、喜燕は舌をもつれさせた。燦珠に上手く伝わっていないのではないかと心配なのに、これ以上どう説明すれば良いか分からなくて。


 喜燕が言葉を探して口をぱくぱくとさせている間に、燦珠は少し落ち着きを取り戻したようだった。馬面裙スカートに刻まれた皺を掌で伸ばしながら、ぽつりと呟く。


「あと、その子、役者を諦めたりしてないと思う」

「……どうして、分かるの」


 縋るにはあまりに甘い言葉で、しかも燦珠は玲雀を知らない。安易な気休めだとしか思えなくて、喜燕の声は少し尖った。

 燦珠の声が答える前にちゃぷんと水の音がしたのは、枕元にたらいでも持ってきていたらしい。身を乗り出した燦珠がぱっちりとした目で喜燕を覗き込んだ時、その手には絞った布が握られていた。


爸爸パパが言ってたんだけどね、偉い人やお金持ちにひどいことをされた役者って、いっぱいいるんですって。私が後宮ここに入る前に言われたんだけど、鞭で打たれたりとか、肺炎になっても演じさせられたとか」

「…………」


 額からこめかみ、耳の裏から首筋。汗を拭ってもらうのが心地良くて。それに、燦珠の言わんとすることが分からなくて、喜燕は息を潜めて耳を傾ける。


(燦珠が育ったんだから、楽しい世界だと思っていたのに)


 市井の役者も理不尽をめていたなんて初耳で、口を挟むことができなかったこともある。

 喜燕が目を見開いている間に、燦珠はそっと布団を剥がし、彼女の上体を起こして胸元や背も拭った。緩めた胸元を直してから、燦珠は喜燕の解いた髪を手で梳いて、額と額がつきそうな間近な距離で見つめて、告げる。


「でも、その人たちは今も役者をやってるわ。みんな、死ぬまで舞台に立ちそうな小父さんたちばっかり。そんなことがあったなんて、私は爸爸パパに言われるまで知らなかったくらい。……青蘭せいらん小父さんが薬に詳しいのはそれでかな、って思ったけど」


「……誰?」

「うーん……」


 喜燕が思わず首を傾げると、燦珠の眉がぎゅっと寄った。彼女が拾ったのは、本筋とは関係ない、咄嗟に説明に迷うようなことだったらしい。


「とにかく! みんなを見てると分かるの。役者なら足が折れても唄うでしょう。喉が潰されても踊るでしょう。どうにかしてまた舞台に立とうとするのよ。……だから、その子だって、きっと」


 そして喜燕も、とは、燦珠はあえて口にしなかった。

 けれどはっきりと聞こえたから、喜燕は掌で顔を覆った。

 この娘は、哀れみや慰めで言っているのではない。役者とはそういうものだから、と。単純な真理を述べただけなのだ。だからこそ信じられる。縋ってしまう。決して、取り返しのつかないことではないのかもしれない。


「……私、あれから玲雀に会ってないの」


 指の間から絞り出すと、燦珠の温もりが喜燕を包んだ。嗚咽おえつを受け止めるように、背中をとんとんと軽く叩いて、柔らかな胸に顔を埋めさせてくれる。そうして耳に囁かれるのは、遠い昔に聞いた子守唄を思わせる優しい声。


「会って、謝れば良いと思うの。許してくれるかどうかは……その子次第だけど」

「うん。会えたら、そうする……」


 沈昭儀を通して、皇帝が褒美をくださると聞かされていた。望みを考えておくように、と。そんな資格があるとは思っていなかったけれど、今、思いついたかもしれない。


(玲雀に会わせてもらおう……)


 趙家との関りは、もしかしたら罪に問われることになってしまうのかもしれないけれど。でも、何も知らない娘ひとりくらいなら許してもらえないだろうか。

 戯子やくしゃでさえ見捨てず、自ら手を差し伸べてくれた御方の慈悲に縋れば、何とかならないだろうか。

 玲雀にまた会える。その想像は、喜燕の胸に希望の灯をともす。同時に、凍りつくような恐怖も過ぎるけれど──


「……もしも許してくれなくても。私たちは友達よ。それをやったのは、私に会う前の喜燕だから。えっと……友達……よね?」

「うん」


 燦珠の言葉に嘘はないと信じられたから、喜燕はただ、泣きながら小さく頷いた。

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