第2話 皇帝、名残を惜しむ

 香雪こうせつの殿舎を訪ねていた翔雲しょううんのもとに、延康えんこうちまたに遣わしていた官吏が戻った。

 皇帝の勅使が庶民の屋敷の門扉を叩くのは異例のことだが、危急の時とあって手段を選んでいられなかった。燦珠さんじゅの父は、さぞ驚き慌てただろうが──


詩牙しがは、藍田らんでんの街に向けて発ちました。目的のりょうなる役者とは、共通の知己ちきがいるそうで、会うのは容易いだろう、とのことでございます」

「それは重畳ちょうじょう


 まずは吉報といって良い報せを聞いて、翔雲は頷いた。


 戯子やくしゃたちが偽の「陽春ようしゅん皇子」から聞き出した名が真実なのか。該当の者に会えたとして、逐電したであろう不肖の弟子を覚えているか、さらにその身元を辿ることができるか──甚だ、不透明ではあるが。それは、今の段階では案じても致し方のないことだ。


(こちらでも、できることはやっているのだから)


 皇宮を辞した者の行方を追って、十五年前のことを覚えている証言者を探す。瑞海ずいかい王の足取りを辿って、偽物を仕立てようとした形跡がないか洗いだす。

 幾つも手を打った中のどれかでも当たれば良い。そして願わくば皇太后を納得させられれば──とは、期待できないかもしれないが。


 今も偽物から離れずに、阿片の夢に浸っているであろう老女の想像を、翔雲は頭を振って追い払った。代わりに、美しい面に心配げな表情を湛えて彼を見つめる香雪に、微笑む。


「梨燦珠の手柄だな。褒美を考えておくように伝えるが良い。さい喜燕きえんといったか、足を折られた娘のほうにも」

「もったいないお心遣いでございます。ふたりとも、さぞ喜ぶことでしょう」


 言葉では礼を述べながら、香雪はほんのわずか、唇に弧を描かせただけの強張った表情をしていた。紙のような顔色の理由は、怪我をした戯子やくしゃを慮っているからだけではないだろう。


「……俺は、そろそろ外朝がいちょうに戻るが。そなたも、くれぐれも身辺に注意せよ」


 寵姫を抱き寄せる時、翔雲の顔も硬く強張っていたはずだ。彼も彼女も、互いの身に危険が及ぶことを何より恐れているのだ。


 昨夜、翔雲は後宮の渾天こんてん宮で休んだ。そしてその際、彼の毒見を務めた宦官がひとり、命を落としている。まず間違いなく、焦ったちょう貴妃きひ瑛月えいげつの差し金によるものだろう。

 彼の狙いは知れずとも、取り逃がした戯子やくしゃたちが何か都合の悪い情報を得たのだろうとは想像がついだだろうから。そして、それが趙貴妃自身や瑞海王の破滅に繋がることを恐れたのだ。


 だから、翔雲は当面の居場所を外朝の濤佳殿とうかでんに定めていた。これでもまだ万全とはいえないし、栴池せんち宮に居座るに背を向けるようで大変に業腹ごうはらだが、貴妃の権勢が及ぶ後宮よりはマシだろう。


「連れて行きたいところだが、妃嬪と寝食を共にするのは聞こえが悪いし……何より、俺と一緒のほうがそなたの身に危険が及ぶだろうからな」


 これが最善なのだ、と自身と相手に言い聞かせようとしても、一度腕の中に収めてしまうと愛しい女を手放すのは難しかった。香雪のほうも、名残惜しげに彼のほうの袖をそっと摘まんでいるからなおのことだ。


「わたくしのことは、何も……華麟かりん様もお心を配ってくださっております」

「うむ。あの者は本当に華劇ファジュが──というかあの戯子やくしゃが大切なのだな」


 しゃ貴妃きひ華麟は、香雪を思えば確かに心強い存在だった。


 あの夜、目立った怪我をしたのは崔喜燕なる娘だけだった。

 梨燦珠はあのよう霜烈そうれつが守り、しん星晶せいしょうなる女生おとこやくの娘は、真昼のごとく煌々と灯りを点して待っていた永陽えいよう殿に無事に飛び込んだ。

 だが、お気に入りの戯子やくしゃがどこの馬の骨とも知れぬ男に言い寄られ、闇の中を追い回されたという事実だけで、謝貴妃が怒り心頭に発するに十分だったらしい。


 これまでに一度もなかったことだというのに、皇帝かれに目通りを願った時の謝貴妃の剣幕を思い出すと、翔雲の口元は知らず、綻んだ。


『深夜に出歩く戯子やくしゃがいたそうですわね? 後宮の風紀の乱れは確かに一大事ですわ! そのような不心得者が二度と出ないように、どうかどうか、警備は一段と厳しくしてくださいませ!』


 つまりは、趙貴妃が喜燕を罰するのに使った口実を逆手に取って、不審な者の移動を封じたということだ。言われるまでもなく翔雲が命じても良かったのだが、彼女の願いによってそうなった、という形式を踏むことで、謝家は皇帝につくという旗幟きしを鮮明にしたのだ。


(これまでの不忠への弁明を一切しないのは、いっそ清々しかったな……)


 「陽春皇子」の出現に際して日和見を決め込んだのと、今回の立ち回りで後宮の勢力の均衡を皇帝の側に傾けたのと。これで功罪の相殺は成っただろうと、謝貴妃は勝手に決めたようだった。権門の出身ならではのしたたかさは、味方にある時は一応は頼もしい。


「星晶が、華麟様に正義を説いてくれたのだそうですわ。楊奉御ほうぎょが説得してくださった宦官もいて──ええ、ですからわたくしのことはお気に懸けられませんように……!」

「……そうか」


 喜燕を助けるべく喜雨きう殿に乗り込むことができたのは、楊霜烈が後宮の各所に宦官を走らせたからだった。あの娘が秘華園に辿り着いていないことが判明し、かつ、喜雨殿に人の出入りが見えたから、強引に介入することに決めたのだ。

 非力な宦官どもこそ事態を静観したいものだろうに、若輩の奉御ふぜいが、美貌と美声と理だけでいったいどうやって説き伏せたのか。


(もう一度あの者を召し出す必要があるだろうな)


 あからさまに怪しい、とは思うが──ただ、後回しでも良いだろう。楊霜烈の動きは、今のところは彼に与するものと見て良いようだから。だから香雪は大丈夫だ、と。自身に言い聞かせながら、翔雲は寵姫を抱き締める腕に力を込めた。


「……何もできないのが心苦しくてなりません。わたくしがお毒見を務められれば良いのに……」

「そなたとまた会うという希望こそが、俺の支えになるだろう」


 彼の胸に吸い込まれる切なげな溜息が愛しくて、離しがたくて、困る。けれど、香雪の耳に囁いた言葉に嘘はない。憂いなく彼女と再会するためにこそ、一刻も早く陰謀をついえさせなければ。


「──ご武運を」

「うむ」


 最後に一度、香雪と口づけを交わすと、翔雲は後宮を後にした。

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