第2話 皇帝、名残を惜しむ
皇帝の勅使が庶民の屋敷の門扉を叩くのは異例のことだが、危急の時とあって手段を選んでいられなかった。
「
「それは
まずは吉報といって良い報せを聞いて、翔雲は頷いた。
(こちらでも、できることはやっているのだから)
皇宮を辞した者の行方を追って、十五年前のことを覚えている証言者を探す。
幾つも手を打った中のどれかでも当たれば良い。そして願わくば皇太后を納得させられれば──とは、期待できないかもしれないが。
今も偽物から離れずに、阿片の夢に浸っているであろう老女の想像を、翔雲は頭を振って追い払った。代わりに、美しい面に心配げな表情を湛えて彼を見つめる香雪に、微笑む。
「梨燦珠の手柄だな。褒美を考えておくように伝えるが良い。
「もったいないお心遣いでございます。ふたりとも、さぞ喜ぶことでしょう」
言葉では礼を述べながら、香雪はほんのわずか、唇に弧を描かせただけの強張った表情をしていた。紙のような顔色の理由は、怪我をした
「……俺は、そろそろ
寵姫を抱き寄せる時、翔雲の顔も硬く強張っていたはずだ。彼も彼女も、互いの身に危険が及ぶことを何より恐れているのだ。
昨夜、翔雲は後宮の
彼の狙いは知れずとも、取り逃がした
だから、翔雲は当面の居場所を外朝の
「連れて行きたいところだが、妃嬪と寝食を共にするのは聞こえが悪いし……何より、俺と一緒のほうがそなたの身に危険が及ぶだろうからな」
これが最善なのだ、と自身と相手に言い聞かせようとしても、一度腕の中に収めてしまうと愛しい女を手放すのは難しかった。香雪のほうも、名残惜しげに彼の
「わたくしのことは、何も……
「うむ。あの者は本当に
あの夜、目立った怪我をしたのは崔喜燕なる娘だけだった。
梨燦珠はあの
だが、お気に入りの
これまでに一度もなかったことだというのに、
『深夜に出歩く
つまりは、趙貴妃が喜燕を罰するのに使った口実を逆手に取って、不審な者の移動を封じたということだ。言われるまでもなく翔雲が命じても良かったのだが、彼女の願いによってそうなった、という形式を踏むことで、謝家は皇帝につくという
(これまでの不忠への弁明を一切しないのは、いっそ清々しかったな……)
「陽春皇子」の出現に際して日和見を決め込んだのと、今回の立ち回りで後宮の勢力の均衡を皇帝の側に傾けたのと。これで功罪の相殺は成っただろうと、謝貴妃は勝手に決めたようだった。権門の出身ならではの
「星晶が、華麟様に正義を説いてくれたのだそうですわ。楊
「……そうか」
喜燕を助けるべく
非力な宦官どもこそ事態を静観したいものだろうに、若輩の奉御ふぜいが、美貌と美声と理だけでいったいどうやって説き伏せたのか。
(もう一度あの者を召し出す必要があるだろうな)
あからさまに怪しい、とは思うが──ただ、後回しでも良いだろう。楊霜烈の動きは、今のところは彼に与するものと見て良いようだから。だから香雪は大丈夫だ、と。自身に言い聞かせながら、翔雲は寵姫を抱き締める腕に力を込めた。
「……何もできないのが心苦しくてなりません。わたくしがお毒見を務められれば良いのに……」
「そなたとまた会うという希望こそが、俺の支えになるだろう」
彼の胸に吸い込まれる切なげな溜息が愛しくて、離しがたくて、困る。けれど、香雪の耳に囁いた言葉に嘘はない。憂いなく彼女と再会するためにこそ、一刻も早く陰謀を
「──ご武運を」
「うむ」
最後に一度、香雪と口づけを交わすと、翔雲は後宮を後にした。
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