八章 白鶴、泉下より舞い上がる
第1話 梨詩牙、咆哮する
常ならば、屋敷は来客で賑やかなはずだった。梨詩牙の高名を慕って弟子入りを志願する者、出演の交渉に訪れる者。地方から役者仲間が訪ねてくることもあるし、裕福な
だが、ここしばらくは梨家の屋敷はどこか活気に欠けている。弟子たちの鍛錬の声は響いても、彼らを圧倒するはずの詩牙の声に今ひとつ張りがないのだ。
それに、近隣の住人の耳に馴染んだ少女の高い唄声が聞こえない。さらに言うなら、鍛えた役者の朗々とした声がぶつかり合う、派手な親子喧嘩が。
名優、梨詩牙の
曰く、口
「でも、実際は
梨家の
「忌々しいことに、顔が良いというところは合っています」
燦珠がたびたび市中で舞い唄った時に、衣装の手配や
そうして人目を集めた結果、要らぬ虫を引き寄せたのだと思うと、役者の先達とはいえ、詩牙が青蘭を見る目は恨みがましいものになる。当の青蘭は、涼しい顔で茶を啜っているのだが。
「燦珠は顔だけの男に
「……声も良かったんですよ、とてつもなく」
先輩役者の慰めを、詩牙は頭を抱えながら呻くように退けた。
娘を言い包めて後宮に
あんな顔であんな声で、若い娘が甘い言葉を囁かれたら逆らえないに決まっているのだ。特に彼の娘については、喜ばせる言葉を知っている男はほとんどいないのだから。
「おやまあ」
青蘭の同情を込めた呟きと眼差しが、父が把握する娘の気性は傍目にも間違っていないのだと教えていた。燦珠が顔だけの男に惹かれることはあり得ないが、声も良いとなると非常に怪しい。
(宦官の毒牙にかけさせるために大事に育てたんじゃないぞ……!)
霜烈という宦官は、自身の声の響きがどう聞こえるかを知り尽くしていたに違いない。
絶妙な緩急と絶妙な抑揚で言葉巧みに誘われて、燦珠はあっさりと目を輝かせていた。娘が、初対面の男に気を許して笑みかけるのを見てしまった父親の、悔しさと腹立たしさは八つ当たりのような罵倒として詩牙の喉からあふれ出た。
「宦官は這いつくばって皇帝だの
「
詩牙にとっては
「……いや、やらせるなら
「ほう、それはますます見たい」
四十を越えてなお、青蘭が演じる
「──まあ、芸を仕込んでおいて舞台に出さないなんて無理な話だったんだ。さっさと秘華園に入れておけば良かったんじゃないのかね」
「秘華園が後宮にあるのでなければそうしていましたが!」
長く役者をやっていれば、王侯貴族や金持ちの横暴の例はうんざりするほど見聞きすることになる。青蘭からして、風邪を引いているところを舞台に引きずり出されて、肺炎にまで
「後宮など……妃嬪どもが足を引っ張り合う
だから、娘が秘華園の存在を知ることがないよう、詩牙は役者仲間にも
(あの時の話の持って行き方も良くなかった……が、どうしていれば良かったんだ……!?)
もはや取り返しのつかないこととは知っていても、詩牙は何度となく考えずにはいられなかった。そもそもの話で言うなら、娘に芸を仕込まなければ良かったということになるのだろうが──だが、燦珠の才を見ればそんなことは決して言えない。だから余計に困る。
「燦珠は利発な子だよ。わざわざ騒動には首を突っ込むまい。……というか、
「そう願いたいものです」
素面にも関わらず、酔い潰れたように卓に突っ伏す詩牙に、青蘭は柔らかく笑ったようだった。
「梨詩牙の覇気がないのでは
「結構です」
肺炎で損ねた喉を治すために、青蘭は薬の調合に凝っていた。楽屋で配られる特製の
「ふむ、それは残念──」
「あの、詩牙
青蘭が溜息を吐いたところで、詩牙の弟子のひとりが
醜態の理由は、その弟子の背後から迫る、慌ただしくもいかにも権高で物々しい足音にあるのだろうか。顰めた顔を見合わせる詩牙と青蘭に、弟子が不躾な客の正体を囁く。
「あの……皇宮からの遣いということなんですが」
「皇宮……燦珠か!? あのお転婆が何かしでかしたのか!?」
詩牙が椅子を蹴立てて立ち上がり、吼えたまさにその時、豪奢な絹の刺繍の煌めきが
その官吏は
「
「皇帝が、役者ふぜいに何を命じる? 本当に皇宮からだという証拠があるんだろうな」
皇帝の威光を笠に着た官吏の偉そうな態度に、詩牙は反射的に噛みついた。役者ひとりを欺くために、
「……そう申すであろうと、そなたの娘からも書状を預かっている」
「何だと……」
燦珠に言及された驚きのあまり、詩牙は不覚にも官吏が差し出した書状を大人しく受け取ってしまった。広げれば、確かに彼の娘の奔放な筆跡が踊っている。
芝居以外のことには関わらないだろう、という親の予想が、完全に甘いものであったことに気付いてしまったのだ。
(なぜ燦珠が皇帝と関わり合いになっている!? 後宮の一大事とやらに、なぜ役者の力が必要なんだ!?)
天子様はとても良い方だから、という一文を読むに及んで、詩牙は思わずよろめいていた。気分ひとつで庶民の首を飛ばせる存在に、どうしてこうも気安く言及できるのか。燦珠は何も分かっていないとしか思えなかった。
「あの……
詩牙が腹の底から吼えた声は、屋敷を揺るがせた。娘が家を出て以来、本当に久しぶりに、名優・梨詩牙の本調子が復活したのだった。
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