第7話 燦珠、大役を受ける

 霜烈そうれつの目に宿る真剣な表情は、薄暗い中にも鋭くて眩くて怖かった。

 追い詰めるようにさえ感じる目の輝きから逃れようと、燦珠さんじゅは思わず椅子を引いて距離を取っていた。


「死なせる、って……!」


 彼が言っているのは、陽春皇子を、ということのはずだ。燦珠を揺さぶるために、わざわざ嫌な言葉を選んだだけで。

 彼の本来の名がこれ以上悪用されることがないよう、とうに死んだものとして皇太后を納得させる、ということ。それは分かる、けれど──


「……皇太后様はのことを信じきっていらっしゃるんでしょう? 私が、どうやって教えて差し上げるのよ」


 突然現れたは偽物だ、と。皇帝をはじめとして進言した者は多いはず。それを聞き入れようとしないからこそ今の事態になっているのだろうに。

 たった一度、舞を見せただけの戯子やくしゃの言葉が届くはずもないし、そもそも目通りする機会が得られるとも思えない。


 訳が分からないし、長身の霜烈を見下ろす格好になっているのも落ち着かない。座り直すか、せめて立ち上がって欲しいと思うのに、彼は縋るような眼差しで燦珠を見つめている。


秘華園ひかえんでは優れた戯子やくしゃが何ものにも勝ると、仰っていただろう。誰の言葉をれずとも、義母はは上は、驪珠りじゅの言葉ならば信じる」


 霜烈が口にしたのは、燦珠も思い出したばかりの言葉だった。ほかならぬ皇太后が口にしたこと、そのようなことはあり得ないはずのこと。しかも驪珠は十五年も前に亡くなっている。


 燦珠の不審の目に応えるように、霜烈はようやく立ち上がってくれた。卓上に置かれていた箱の蓋に手をかけると──白い羽根の衣装の神々しい輝きが、再び燦珠の目を射る。


「この衣装で、《鶴鳴ホーミン千年チェンニェン》を唄い、舞っておくれ。義母はは上が、驪珠の霊が現れたと信じるほどに完璧に」


 白い輝きを見るのは、ただでさえ畏れ多いことだった。伝説の花旦むすめやくが、伝説の舞台で纏ったもの。演目の名前を耳で聞くことさえ、太陽を見た時の目の痛みを感じさせるようだった。

 きょう驪珠りじゅ以外には演じたことのない、晴れがましい舞。それを再現できるとしたら、確かに彼女の霊以外にはあり得ないだろう。状況を打破する妙手ではあるのかもしれないけれど──


「その上で、驪珠として語っておくれ。我が子は死んだのだと──」

「無理!」


 頭では理解しても、燦珠の唇は勝手に拒絶の言葉を紡いでいた。今度こそ我慢できずに椅子を蹴立てて立ち上がると、霜烈が驚いたように責めるように目を見開いている。


「そなたの口からそのような言葉を聞くとは。娘ながらに役者を志し、才だけを頼りに意思を通して、玉座にある方の御心さえも動かしたのに?」

「でも……だって、きょう驪珠りじゅよ!?」


 先ほど言ったのと同じ言葉を繰り返しながら、燦珠は激しく首を振った。向こう見ずの自覚は重々あっても、これは話が別だ。驪珠がどれだけ特別だったか、話を聞いただけでも分かってしまっている。しかも彼女は、霜烈の実の母君だと教えられたばかりなのに!


隼瓊しゅんけい老師せんせいだって、私はまだ及ばないって。しなやかさが足りないって……!」


「だが、そなたは驪珠に似ている、と思う。義母はは上も仰っていたし、隼瓊老師せんせいも同意してくださった。姿かたちというよりは、うたや舞が──いや、それだけでなく……舞台の上での眩さや、華劇ファジュに捧げる熱量。存在そのものの、輝かしさが」


 過ぎた賛辞を並べられても、無理なものは無理だった。首を振り続ける燦珠に、霜烈は悲しげに溜息をこぼす。演技なのか素でこれなのか、絶妙に心を引っ掻いて罪悪感を込み上げさせる響きがあるのが腹立たしいほどさすが、だった。


「そなたが無理なら今の秘華園でできる者はいない。しん星晶せいしょう女生おとこやくの所作が強く出てしまうだろうし、さい喜燕きえんうたが弱い。そもそも明かせる者が少なすぎる」


 燦珠は、星晶の女姿での舞に感嘆したばかりだった。喜燕だって、舞を得意としているだけで、うたが下手だとはまったく思わない。

 霜烈の評は点が辛すぎて、燦珠を怖気づかせるばかりだった。それに何より、うたというなら──


「驪珠のうたって……だって、よう奉御ほうぎょでも叶わないんでしょう……!?」


 娘たちを涙させたうたを披露してなお、霜烈は驪珠には及ばないと不満そうだった。聞いた者の、耳だけでなく目も心も捕らえるあの声でも及ばないなら、燦珠のうたで皇太后を信じ込ませることなんてできるかどうか。


 震え上がりながら燦珠が指摘すると、霜烈は悔しげに俯いた。


「我がことだからな。最初は自分で演じようと考えたのだが、背丈も体格も違い過ぎるし──何より、私は役者としては十五年も怠けていた。いくら隼瓊老師せんせいに教えていただいても、付け焼刃では如何いかんともしがたい」

「ああ……だから隼瓊老師せんせいと……?」

「そういうことだ」


 それではあの時、霜烈は隼瓊に稽古をつけてもらうはずだったのだ。気が進まない様子ながらも唄ってくれたのは、皇太后に聞かせることを想定して、の反応を見たかったからか。


 事情が分かったのは良いとして──あのうたでもまだ力不足だなんて、信じたくない。


(私を困らせようとして言っているんじゃないんでしょうけど……)


 彼にとっても苦肉の策ではあるのだろう。無理難題であることも、きっと承知の上でのこと。叶えてあげたいとは思っても、やはり簡単には頷けない。


 ふたりは、眩い白の衣装を挟んで向き合っていた。沈黙した燦珠に、霜烈の懇願を込めた眼差しが突き刺さる。このままだと、彼が再び跪いてしまいそうで──それに、気になることがあって、燦珠は言葉を繋いでみる。


「……役者になりたかったの?」


 怠けていた、だなんて。皇子だったころにも芝居の練習をしていたかのようなもの言いだ。陽春皇子は、よく驪珠や隼瓊を真似ていたとは聞いたけれど。


(役者じゃないのはもったいないと思ってたのよね)


 皇子でもなく宦官でもなく。たとえば父の弟子のひとりとして出会っていたら、この美貌も美声も、もっと見慣れたり聞き慣れたりしていただろうか。素晴らしいうた武打たちまわりも、遠慮せずにねだれただろうか。


 ──あり得ないとは知っていても、その想像は楽しくて幸せなものだった。


 燦珠と同じ想像に耽った訳ではないだろうけれど、霜烈の口元もふ、と柔らかく綻んだ。


「ああ……無理な話だから、厳密に言えば否、だが。ただ、観るのも演じるのも好きだったからな。どの演目も美しくて楽しくて──あの夢の中に母がいると思えば誇らしくて……」


 かつてなく柔らかく優しい表情を浮かべる霜烈の目には、驪珠の舞が映っているのだろう。その表情を見るだけでも、伝説の花旦むすめやくをなぞって演じるのは難題だと分かる、けれど。


(驪珠のことを名前で呼んでばかりだったわ、この人……)


 皇太后のことは、母と呼ぶ癖に。先帝のことは、父に対するものとは思えない突き放した物言いをする癖に。こんな顔を見せておいて、実母のことをそうと呼ばないのは──正体が露見するのを恐れるからだけではない気が、する。


「私、ね──」


 燦珠は、一歩、足を進めて霜烈に近付いた。輝かしい美貌を見上げる視点は、いつの間にか馴染んだものだから安心する。


「天子様に申し上げたのよ。役者が演じるのは舞台の上でだけだって。は、皇太后様を下手なお芝居に巻き込んで騙しているじゃない? それはただの詐欺だって……」

義母はは上を欺くために舞うことはできない、か……?」


 眉を寄せた霜烈に、燦珠は首を振る。今度ばかりは、彼の願いを否定するためではなく、叶えるためこその仕草だった。


(この人も、きっとずっと演技を続けていたんだわ)


 霜烈にとっては、人生そのものが芝居だった。本来の名を捨てて、別人として生きる、という。たとえ「陽春皇子」が死んだことになっても、彼のこれからの生き方が変わる訳ではないのだろうけれど──何ごとにも、終幕は必要なのだろうと思う。


「皇太后様は、阿片の酒に酔っていらっしゃるみたい。美しくても幸せでも──悪い夢で、幻でしかないのに、溺れさせられているのよ。驪珠も、楊奉御も。その夢に囚われているなら、醒めさせてあげられたら良いと、思うわ……!」

「では」


 霜烈の目に輝きが宿ったのを見て取って、燦珠は早口に言い添えた。


「できるかどうかは分からない、けど! でも……何もしないままなのは、確かに嫌よ。役者にもできることがあるなら……しかもそれが、うたや舞によってなら──」


 言い出しておいて、身に余る大役に恐ろしくなって目を伏せる。すると、驪珠の白い衣装が目に入ってまた不安が忍び寄る。

 居心地悪く所在なく手を浮かせると──温かいものに捕らえられた。霜烈が、彼女の手をしっかりと握りしめて間近に微笑んでいる。


「そなたならばやってくれると、信じている」


 気休めでもお世辞でもなく、全幅の信頼を委ねられた言葉だと分かるから、燦珠の頬は熱くなった。任せておいて、と言い切ることができたら良いのにできないから、彼の手にもたれて弱音を吐いてしまう。


「今までで一番怖いわ……だって、驪珠を演じるのよ!?」

「振り付けは、隼瓊老師せんせいが教えてくださる。私も、覚えている限りのことを伝えよう。この目と耳に焼き付いている、きょう驪珠りじゅのすべてを」


 一度頷くと、霜烈の表情がやけに晴れ晴れとしているのが少し悔しい。でも、彼のこんな顔を見るのは珍しいから──


(大丈夫。やれる……やらなきゃ……!)


 自らに言い聞かせるためにも、燦珠は霜烈の手を強く握り返した。

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