第6話 喜燕、報われる
「──早く言いなさい。本当に足を折るわよ!?」
苛立ち焦って声を荒げる瑛月は、本気だ。それを察してなお、激しく首を振る。
足を守るために口を割ったら、喜燕はもう胸を張って
(
汚い手段を使った分際で、皇帝の御前で舞っただけでも過分の名誉だった。もともと、
だから、何をされても後悔しない。競争相手の足を損ねた報いに足を折られるなら、まるで天罰のようですらある。
足の芯からぼきり、という音が聞こえた。まるで枯れ枝を折るかのような鈍い音。次いで全身を走り抜けた激痛に、喜燕の全身から汗が吹き出し、身体が痙攣する。
「──……っ」
それでも、悲鳴を噛み殺した唇の端は、笑みのような形に引き攣ったはずだった。
屈しなかったことへの誇らしさ、罰を受けることができたことへの安堵が、舞を奪われた絶望に勝る。取り返しのつかない傷への悲しみと衝撃はやはり深くて、溢れる涙が汗と混ざりあって頬を伝うけれど。
「何なの、この子……! 気持ち悪いわね」
無言で泣きながら笑う喜燕を見下ろして、瑛月は吐き捨てた。
汚いものを踏みつけでもしたかのように、素早い動きで足を除けて
「後はそなたたちでやってちょうだい。とても嫌な感触だったわ。誰か、お酒を──あと、明るい
「き、貴妃様。一大事でございます……!」
瑛月の言葉を遮って転がり込んできた宦官は、苛立つ主が投げた団扇を顔面で受け止めることになった。宦官特有の甲高い呻き声を、さらに高い瑛月の罵声が掻き消した。
「何なの!? ほかの子も捕らえたの? それとも、殿下が、何か?」
「陛下の
宦官が短く答える声は、くぐもっていた。団扇に見舞われた鼻先を抑える手の隙間から、血が滴っている。それでも述べた内容は誰の耳にも明らかだった。
瑛月も
「陛下が、
「……どうして!? こんな遅くに、先触れもなく……!」
瑛月が纏う衣が奏でる慌ただしい衣擦れの音は、何かまた投げつけるものを探したのかもしれない。あるいは、何かしらを命じようとしたのか。
けれど、殿舎の女主人が行動を起こす前に、複数の足音が近づいて来る。押し止めようとする声と、推し通ろうとする声。侍女や宦官の高い声だけでなく──低く、威厳がある男の声も確かに聞こえる。喜燕も確かに聞いたことがある、その声の主は──
「非礼は百も承知だ。……取り込み中のところを悪いな、趙貴妃よ」
「陛下……!」
深夜の殿舎を、自身の威光で圧倒したと確かめてか、皇帝はゆっくりと語る。
「沈昭儀の
「そんな──」
瑛月が絶句した理由が、喜燕にはよく分かる。恐らくは彼女もまったく同じ理由で、床に伏せた目を見開いたから。
(
沈昭儀が願ったからこそ、そして喜燕が帯びていた役目があればこそ、ではあるのだろう。
けれど、それでも、皇帝自ら喜雨殿に足を運ぶ必要はまったくないはずだ。彼女が拷問に耐えられないのを恐れたとしても、多少の押し問答があるとしても、人に命じれば済むことだろうに。
「そちらにいるのが探している者だな、
呆然とする喜燕の耳に届いた皇帝の声は、甘く柔らかだった。
「はい。……喜燕。ごめんなさい。こんなことになるなんて……」
ひんやりとした細い指が頬に触れる感触に、喜燕はようやく我に返った。温かく良い香りに包まれて、沈昭儀に抱き寄せられたのを知る。
主を跪かせるなんて許されないと思うのに、熱を帯び始めた身体は言うことを聞いてくれず、ぐったりと寄りかかることしかできなかった。
喜燕をしっかりと抱き締めて、沈昭儀は瑛月に訴える。
「趙貴妃様。この子がいったい何をしたのでしょうか。粗相があったなら、わたくしに仰ってくだされば……!」
「……
目下の
「陛下……お立場に相応しからぬお振舞いに、大変驚いておりますわ。いくらご寵愛篤くとも、たかだか昭儀の願いで──それも、
今上の皇帝が、先帝の放蕩を嫌っていることを承知の上での、露骨な当てこすりだった。今お前がやっているのも同じことだ、同列に堕ちたくなければさっさと帰れ、と──言外の皮肉はあまりにも明らかで、皇帝からはっきりと漂う怒気は喜燕さえ震えさせた。
「……夜遊びの罪とやらへの罰はまだ足りぬのか。その者をいまだ
「……いいえ」
鋭く険しく問われて、瑛月はいかにも渋々ながら、といった調子で答えた。
悪巧みを暴かれそうになったから責め立てようとしていた、なんて言えるはずもない。
一方で、皇帝も貴妃の役目を盾にされたら表立って咎められない。だから、これ以上の抗議はできず、喜燕を引き渡すしかない──それが、落としどころなのだろう。
「ならばすぐにも引き上げよう。ゆっくりと休むが良いぞ」
「恐れ入ります」
言葉では従順に
(陛下に、守っていただいてしまった……!?)
迎えに出向いたのが皇帝その人でなかったなら。貴妃に対しても、有無を言わせず押し通れる立場でなかったなら。入れる入れないで揉めている間に、喜燕は殺されていたのかもしれない。
恐ろしい僥倖に震えながら、立ち上がろうとして──喜燕は、沈昭儀に縋ってしまった。見下ろしてみると、瑛月に折られた足首はもう青黒く腫れ上がっていた。自分でも怯む無残な有り様に、沈昭儀が悲鳴を上げる。
「喜燕、その足は……!?」
「朕が運ぶ。そなたたちは、早く
よろめきかけた沈昭儀に代わって喜燕を支えたのは、なんと皇帝だった。
「そ、そんな」
五爪の龍の刺繍を施した
「構わぬ」
足の痛みで思うように動けず、あっさりと皇帝の腕に抱きあげられてしまう。そうなると、
喜燕を抱き上げてなお、皇帝の足取りは淀みなく、
「
「……もったいない御言葉です」
それではふたりとも上手く逃げることができたのだ。美しく軽やかに舞うあのふたりが、自身のように怪我を負わずに済んだことへの、安堵。思わぬ
「あ、あの! 申し訳ございませんでした。御身が矢面に立たれては、趙貴妃様や瑞海王様が──」
今宵の彼女たちの動きが、皇帝の意を受けたものだと知られるのは、良くないことのはずだ。
喜燕たちが何を知ったか、陽春皇子が何を命じたかは分からぬまでも、陰謀を企む者たちにとって絶対に都合の良いことでないのは分かるだろうから。これまでは、まだしも体裁を保とうとしていた彼らも、直截的に
(燦珠たちが無事なら、私は見捨てたほうが良かったんじゃ……)
青褪めて震える喜燕を、皇帝は優しく見下ろしたようだった。
顔を上げることなど思いもよらないから、表情は見えないのだけれど。彼女を支える手つきはできるだけ傷に障らぬように気遣ってくれているようだったし、声の調子もごく落ち着いた、優しいものだったからそう思ったのだ。
「いずれ時間の問題だっただろう。そなたが気に病む必要はない。──早急に、ケリをつける」
ただ、恐らくは敵を思い浮かべて発したのであろう最後のひと言だけが鋭くて、怖くて。傷の痛みや身体の熱や畏れ多さによってだけでなく、喜燕の肌を粟立たせた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます