第6話 喜燕、報われる

 瑛月えいげつくつの裏が喜燕きえんの右足首を踏み躙っている。込められた圧で破れた皮膚と、軋む骨と。ふたつの痛みに喜燕は歯を食いしばって耐える。


「──早く言いなさい。本当に足を折るわよ!?」


 苛立ち焦って声を荒げる瑛月は、本気だ。それを察してなお、激しく首を振る。

 足を守るために口を割ったら、喜燕はもう胸を張って戯子やくしゃだとは名乗れない。それに──


玲雀れいじゃくと同じになるだけ……当然の報いを、受けるだけだから……)


 汚い手段を使った分際で、皇帝の御前で舞っただけでも過分の名誉だった。もともと、秘華園ひかえんに入るのは玲雀のほうだったかもしれないのだ。

 だから、何をされても後悔しない。競争相手の足を損ねた報いに足を折られるなら、まるで天罰のようですらある。


 足の芯からぼきり、という音が聞こえた。まるで枯れ枝を折るかのような鈍い音。次いで全身を走り抜けた激痛に、喜燕の全身から汗が吹き出し、身体が痙攣する。


「──……っ」


 それでも、悲鳴を噛み殺した唇の端は、笑みのような形に引き攣ったはずだった。


 屈しなかったことへの誇らしさ、罰を受けることができたことへの安堵が、舞を奪われた絶望に勝る。取り返しのつかない傷への悲しみと衝撃はやはり深くて、溢れる涙が汗と混ざりあって頬を伝うけれど。


「何なの、この子……! 気持ち悪いわね」


 無言で泣きながら笑う喜燕を見下ろして、瑛月は吐き捨てた。


 汚いものを踏みつけでもしたかのように、素早い動きで足を除けて長榻ながいすに身体を預けたらしい。その振動さえ、喜燕の傷に響いて痛ませた。身動きすらできずに喘ぐ彼女にはもはや見向きもせず、瑛月は機嫌悪く侍女や宦官に命じる。


「後はそなたたちでやってちょうだい。とても嫌な感触だったわ。誰か、お酒を──あと、明るいうたでも聞かせて──」

「き、貴妃様。一大事でございます……!」


 瑛月の言葉を遮って転がり込んできた宦官は、苛立つ主が投げた団扇を顔面で受け止めることになった。宦官特有の甲高い呻き声を、さらに高い瑛月の罵声が掻き消した。


「何なの!? ほかの子も捕らえたの? それとも、殿が、何か?」

「陛下の御成おなりです」


 宦官が短く答える声は、くぐもっていた。団扇に見舞われた鼻先を抑える手の隙間から、血が滴っている。それでも述べた内容は誰の耳にも明らかだった。


 瑛月も秀蘭しゅうらんも──喜燕も。思いもかけない事態を耳にして、息を呑み目を見開き、一様に雷に打たれたように身体を強張らせた。さらにその宦官は、平伏しながら念押しのようにより詳細な報告を述べる。


「陛下が、しん昭儀しょうぎをお連れで……この、喜雨きう殿に──」

「……どうして!? こんな遅くに、先触れもなく……!」


 瑛月が纏う衣が奏でる慌ただしい衣擦れの音は、何かまた投げつけるものを探したのかもしれない。あるいは、何かしらを命じようとしたのか。


 けれど、殿舎の女主人が行動を起こす前に、複数の足音が近づいて来る。押し止めようとする声と、推し通ろうとする声。侍女や宦官の高い声だけでなく──低く、威厳がある男の声も確かに聞こえる。喜燕も確かに聞いたことがある、その声の主は──


「非礼は百も承知だ。……のところを悪いな、趙貴妃よ」

「陛下……!」


 奉天ほうてん承運しょううんの尊貴な御方の声に姿に、室内にいた者たちが一斉に平伏する気配がした。喜燕も、縛られた手足と痛む足首が許す限り、精いっぱい礼を尽くした姿勢を取ろうと試みる。


 深夜の殿舎を、自身の威光で圧倒したと確かめてか、皇帝はゆっくりと語る。


「沈昭儀の戯子やくしゃ喜雨きう殿に連れ込まれたという注進があったのだ。昭儀の訴えなど、そなたは黙殺するだろう? ちんが出向くのが早いだろうと考えたのだ」

「そんな──」


 瑛月が絶句した理由が、喜燕にはよく分かる。恐らくは彼女もまったく同じ理由で、床に伏せた目を見開いたから。


戯子やくしゃひとりのために、陛下が……!?)


 沈昭儀が願ったからこそ、そして喜燕が帯びていた役目があればこそ、ではあるのだろう。

 けれど、それでも、皇帝自ら喜雨殿に足を運ぶ必要はまったくないはずだ。彼女が拷問に耐えられないのを恐れたとしても、多少の押し問答があるとしても、人に命じれば済むことだろうに。


「そちらにいるのが探している者だな、香雪こうせつ?」


 呆然とする喜燕の耳に届いた皇帝の声は、甘く柔らかだった。渾天こんてん宮に召された夜に聞いたのと同じように。この御方がこのように語り掛けるのは──そうだ、沈昭儀も同行していると聞いたばかりだった。


「はい。……喜燕。ごめんなさい。こんなことになるなんて……」


 ひんやりとした細い指が頬に触れる感触に、喜燕はようやく我に返った。温かく良い香りに包まれて、沈昭儀に抱き寄せられたのを知る。

 主を跪かせるなんて許されないと思うのに、熱を帯び始めた身体は言うことを聞いてくれず、ぐったりと寄りかかることしかできなかった。


 喜燕をしっかりと抱き締めて、沈昭儀は瑛月に訴える。


「趙貴妃様。この子がいったい何をしたのでしょうか。粗相があったなら、わたくしに仰ってくだされば……!」


「……翠牡丹ツイムータンを得て浮かれたのではないかしら。夜遊びをしていたようだから罰したのよ。皇后が柵立さくりつされていない以上、後宮の秩序を守るのは貴妃の役目です!」


 目下のひんを一喝してから、瑛月は皇帝の足もとに擦り寄ったようだった。沈昭儀に対するのとは打って変わった殊勝な態度──けれど、甘く纏わりつくような声には、例によって悪意の棘が潜んでいる。


「陛下……お立場に相応しからぬお振舞いに、大変驚いておりますわ。いくらご寵愛篤くとも、たかだか昭儀の願いで──それも、戯子やくしゃなんかのために! ──深夜に貴妃の殿舎を騒がせるなんて。まるで、文宗ぶんそう様の御代に戻ったようではございませんの?」


 今上の皇帝が、先帝の放蕩を嫌っていることを承知の上での、露骨な当てこすりだった。今お前がやっているのも同じことだ、同列に堕ちたくなければさっさと帰れ、と──言外の皮肉はあまりにも明らかで、皇帝からはっきりと漂う怒気は喜燕さえ震えさせた。


「……夜遊びの罪とやらへの罰はまだ足りぬのか。その者をいまだ喜雨きう殿に留める理由はあるのか」

「……いいえ」


 鋭く険しく問われて、瑛月はいかにも渋々ながら、といった調子で答えた。

 悪巧みを暴かれそうになったから責め立てようとしていた、なんて言えるはずもない。

 一方で、皇帝も貴妃の役目を盾にされたら表立って咎められない。だから、これ以上の抗議はできず、喜燕を引き渡すしかない──それが、落としどころなのだろう。


「ならばすぐにも引き上げよう。ゆっくりと休むが良いぞ」

「恐れ入ります」


 言葉では従順にへりくだりながら、瑛月の目が射殺さんばかりに喜燕を睨んでいるのが感じられた。喜雨きう殿の主がひと言命じれば、戯子やくしゃひとり消すくらいなんでもなかったのだ、と気付いて、喜燕の全身を冷や汗が濡らす。


(陛下に、守っていただいてしまった……!?)


 迎えに出向いたのが皇帝その人でなかったなら。貴妃に対しても、有無を言わせず押し通れる立場でなかったなら。入れる入れないで揉めている間に、喜燕は殺されていたのかもしれない。


 恐ろしい僥倖に震えながら、立ち上がろうとして──喜燕は、沈昭儀に縋ってしまった。見下ろしてみると、瑛月に折られた足首はもう青黒く腫れ上がっていた。自分でも怯む無残な有り様に、沈昭儀が悲鳴を上げる。


「喜燕、その足は……!?」

「朕が運ぶ。そなたたちは、早く轎子こしを」


 よろめきかけた沈昭儀に代わって喜燕を支えたのは、なんと皇帝だった。


「そ、そんな」


 五爪の龍の刺繍を施したほうを汚すのが忍びなくて、何とか逃れようと喜燕は足掻いたけれど──


「構わぬ」


 足の痛みで思うように動けず、あっさりと皇帝の腕に抱きあげられてしまう。そうなると、玉体ぎょくたいに必要以上に接するのが恐ろしくてもう縮こまるしかできない。


 喜燕を抱き上げてなお、皇帝の足取りは淀みなく、轎子こしの担ぎ手の宦官たちも、迷いなく動くことができている。……だから、これもやはり手っ取り早さを追求してのことなのだろう。喜燕の、この上ない申し訳なさと居たたまれなさを、別にすれば。


 喜雨きう殿の外に出ると、夜風が火照った頬に心地良かった。皇帝の轎子こしともなると、担ぎ手は十人を越えるようだ。当然、その分大きいし安定しているから、なのかどうか──まさか、まさか、と喜燕が思う間に、皇帝は彼女を抱えたまま轎子こしに乗り込んでしまった。畏れ多さのあまりに固まる彼女の耳に、低い声が囁く。


燦珠さんじゅしん星晶せいしょうは無事だ。よくやってくれた」

「……もったいない御言葉です」


 それではふたりとも上手く逃げることができたのだ。美しく軽やかに舞うあのふたりが、自身のように怪我を負わずに済んだことへの、安堵。思わぬねぎらいの言葉への喜び。そんな思いを、呆然としたまま噛み締めてから、喜燕ははっと目を見開いた。


「あ、あの! 申し訳ございませんでした。御身が矢面に立たれては、趙貴妃様や瑞海王様が──」


 今宵の彼女たちの動きが、皇帝の意を受けたものだと知られるのは、良くないことのはずだ。


 喜燕たちが何を知ったか、が何を命じたかは分からぬまでも、陰謀を企む者たちにとって絶対に都合の良いことでないのは分かるだろうから。これまでは、まだしも体裁を保とうとしていた彼らも、直截的に弑逆しいぎゃくを企むのではないか。……そう、気付いてしまったのだ。


(燦珠たちが無事なら、私は見捨てたほうが良かったんじゃ……)


 青褪めて震える喜燕を、皇帝は優しく見下ろしたようだった。

 顔を上げることなど思いもよらないから、表情は見えないのだけれど。彼女を支える手つきはできるだけ傷に障らぬように気遣ってくれているようだったし、声の調子もごく落ち着いた、優しいものだったからそう思ったのだ。


「いずれ時間の問題だっただろう。そなたが気に病む必要はない。──早急に、ケリをつける」


 ただ、恐らくはを思い浮かべて発したのであろう最後のひと言だけが鋭くて、怖くて。傷の痛みや身体の熱や畏れ多さによってだけでなく、喜燕の肌を粟立たせた。

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