第5話 薔薇、棘に毒を孕む
恐らくは、虜囚に威圧感を与えるために。薔薇には棘があるものだ。
「
そのほうが喜燕の恐怖と不安を煽るのだと、たぶん彼女は知っているのだ。猫が鼠を
「
どこまでも美しく優雅なのに、喜燕の肌を、それこそ蠅でも這うような不快感が騒めかせるのが不思議だった。悪意に塗れた声は、響きの美しさに関わらず聞き苦しいものだと、喜燕は初めて知った。
(沈昭儀は貴女とは違う……!)
瑛月の伯父とは、陽春皇子を見つけ出したと主張している
(偽物と趙貴妃様たちも一枚岩じゃない……あの人がほかの者と手を組むことを、この方たちも警戒している……)
瑛月にとって教えて差し上げる、とは監視して行動を縛ることと同義だ。沈昭儀のもとに喜燕を送り込んで
(馬鹿馬鹿しい。どちらにしても、悪人なのに……!)
身動き取れない姿で捕らえられて囲まれて、見下ろされる状況は、怖い。
けれど、沈昭儀をあて擦る瑛月のもの言いへの憤りが、喜燕に口を開く勇気を持たせてくれた。
「──
手が使えないから腹筋の力だけで上体を起こして、先ほど蹴られた腹の痛みに耐えながら。喜燕は精いっぱい瑛月を睨みつけた。
陽春皇子もこの貴妃も、真っ赤な嘘を真実として語るから気持ち悪い。何百回繰り返しても、嘘は嘘のままだろうに。信じるのは哀れな皇太后くらい、従う者がいたとしても利害ゆえでしかないだろうに。
「そうねえ、陛下はご不安でしょうとも。
そもそもの建前からして間違っているはずだ、と。喜燕の糾弾に、瑛月の軽やかな笑い声が応えた。
まるで、皇帝が玉座を惜しんで陽春皇子を認めようとしないのだと言わんばかりに。不当に貶められる皇子を、皇帝の敵意から庇護してやるのだとでも言いたげに。
瑛月の頭の中では、陽春皇子の行いは手ひどい裏切りであり許しがたい忘恩なのだろう。誰とも知れない役者崩れを皇子に仕立てて、大それた詐欺の片棒を担がせるのを恩と言うなら。
「陛下の御目があるからこそ、殿下には身を慎んでいただかなければならないのに。気鬱は、
くすくすと嗤いながら、瑛月は金糸の刺繍が彩る
「そなたたちは、何を聞いたの? 言われたの? わたくしに報告なさい。陛下の
それはつまり、陽春皇子の独断専行を許さないということだろう。改めて瑞海王と趙家の管理下に置いた上で、皇帝が偽物の立場を認めざるを得ないように追い込もうというのだ。先帝の御子、皇帝にとっても従兄弟にあたる方を冷遇するのは聞こえが悪いとか何とか言って。
喜燕は、身体を
「沈昭儀様にお伝えします。あの方は、陛下に正しく伝えてくださいますから」
陽春皇子の身元を暴くための、役者としての師の情報。あの男が
後者については、仲間割れを誘えるのかもしれないけれど──でも、目的の相手は
(拷問……するなら、すれば良い)
耐えられるかは分からなくても、少なくとも、燦珠か
「趙家に育てられた恩を忘れたのか。妓楼に売られるか、飢えて死ぬほうが良かったとでも? 今のお前があるのは誰のおかげだと思っている?」
こちらも、嫌というほど聞き覚えがある声だった。喜燕の
(恩……恩だって?)
秀蘭の声を聞くと瞬時にもの心ついてからこの方の記憶が蘇る。
叩いてものにならないのなら、その者が悪い。
(違う……!)
「そなたは、望んで沈昭儀に仕えた訳ではないでしょう? あの
だから、瑛月の猫撫で声に、喜燕が心動かされることはない。
「……優れた
燦珠が褒美をねだったあの場に、喜燕もいたのだ。訳も分からないまま平伏して、
徳の高きは芸の高きに
「それに──私は、沈昭儀様にお仕えできて嬉しく思っています! 清らかで優しい──正しい方だから。私に、得意を聞いてくださったから!」
「何ですって?」
言われた意味が本気で分からなかったのだろう、首を傾げた瑛月に、喜燕は心から笑う。この御方は、主の器ではないと、自ら証明してくださった。
「貴女様は一度たりとも私の
「生意気な……!」
叫んだのは、そして喜燕の頬を蹴ったのは、瑛月だったか秀蘭だったか。頭を思い切り床にぶつけて、視界が揺らいだ彼女には分からない。ただ──投げ出した右足首が何かに押さえられるのを、感じる。さやさやと優雅な衣擦れの音からして、瑛月に踏みつけられた、のだろうか。
「良いわ、それでは
瑛月は、喜燕に乗せた足に体重を込めた。華奢で、優美を極めた姫君といえども、全体重を乗せれば小娘の足を折ることはできるだろう。
「どうするの? 泣いて謝れば許してあげなくもないわ?」
喜燕の顔に恐怖の色が広がるのを見て取ったのだろう、瑛月はこの上なく愉しそうに笑った。
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