第5話 幽鬼、星夜に唄う
三十年に渡って格別の寵愛を注いだこの
夫の寵が彼女以外の
──
年齢も身分も位階も越えて苦楽を分け合った──いわば同士のような存在だからこそ、
『
『いいえ。あの御方は、私のことを覚えていてくださっていないご様子ですから』
跪いて応えた隼瓊の整った顔に、伏せているからだけではない
十五年振りに会えた彼女の愛し子は、実母の驪珠のことも、常にその傍らにいた隼瓊のこともほとんど覚えていないようだった。
彼女の膝の上にしっかりと抱いてはいても、
『そなたの舞を見れば思い出すかもしれないのに……。でも、良いでしょう。賑やかなのは若い人に任せて、年寄りはのんびりしましょうか』
『御意』
栴池宮の近ごろの華やかさを、霓蓉は誇らしく好ましく捉えていた。どういう訳か
陽春は、近く必ず身分に相応しい扱いを受けられるようになるだろう。いずれは帝位に就くことさえあるかもしれない。皇帝と皇后の子なのだから、とても自然なことではないだろうか。
(万寿閣に行くのは久しぶりだわ。
夫の横顔を思い出そうとしても、霞みがかったようにぼんやりとして像を結ばなかった。横顔──そう、彼女たちが連れ添ったおよそ五十年というもの、霓蓉の夫君はほとんど常に
でも──仕方のないことだ。
それだけで、十分だ。
* * *
万寿閣の壮麗な装飾は、闇に沈むと千古の時を経た遺跡めいて興趣深い。
虫除けに焚いた香は芳しく、桃か桜か
月のない夜だからこそ、小さな星のひと粒に至るまで、その冴え冴えとした灯りを惜しみなく地上に注いでくれる。微かな光を受けて、黄の
そして、その星明りの下で舞うのは隼瓊なのだ。
「これほどに暗ければ粗も目立ちませんでしょう」
生涯に渡って研鑽を重ねた
煌びやかな衣装や伴奏なしで演じたがる者がどれほどいるだろう。篝火が顔に落とす
今宵の隼瓊が纏うのは、緋色の衣装。炎に映えるその色が化けるのは龍か花か──霓蓉だけでなく、古参の侍女たちも年甲斐もなく浮き立っている。
「そなたならば舞う影だけでも美しいでしょう。──何を
杯に注いだ甘い酒を舐めながら、霓蓉は促した。応えて、隼瓊は仮の舞台の中心で拝跪する。
「今宵は──」
けれど、隼瓊が演目を口にすることはできなかった。霓蓉の侍女のひとりが、高い悲鳴で
「皇太后様! あれを……!」
万寿閣の三層の舞台は、上から順に天界、地上、冥界を表す。
演目によって舞台を使い分けるし、時には上層の舞台の床を一部取り払って、縄で
けれど、それはもう過去のこと。何か月か何年か──忘れてしまったけれど。夫が亡くなってから、万寿閣には楽の音が鳴り響くことおろか、人が立ち入ることさえなかったはずだ。
無人のはずの舞台、屋根に遮られて星明かりさえ届かぬ深い闇のただ中に、白い人影が佇んでいるのを見て取って、霓蓉の肌は粟立った。
「
まさか。いや、彼女以外にあり得ない。
相反する激しい感情が、霓蓉の老いた心臓を不穏に軋ませた。死者の霊が現れるとしたら、冥界の舞台ではないのか、と思うと同時に、驪珠なら常に天から舞い降りるだろうと容易に納得できる。
驪珠の舞はこの上なく軽やかだった。
風に舞う花弁、春天に溶けながら降る淡雪、空を翔ける鳥の、青を透かす風切り羽根。演じ終われば人の姿をしているのが不思議なほど、息もすれば飲み食いもする肉体があるのが信じられないほど──まるで、仙境に住まう天女が、戯れに人界に遊びに来たかのような。
だからきっと、夫は地に引きずりおろさなければと考えたのだ。
「
「恐ろしい……!」
霓蓉が息を呑んで立ち竦む横で、漆黒の闇にも浮き上がる白い姿を認めて、侍女たちが口々に悲鳴を上げて抱き合っている。
「どうなさいましたか、霓蓉様。万寿閣に、何か……?」
「隼瓊、だって……!」
確かに幽鬼が見えるはずの角度に首をもたげて、けれど隼瓊の目が凪いだままなのを目の当たりにして、霓蓉は言葉に詰まった。白い影は、今も微動だにせず彼女たちを見下ろしているというのに。
「驪珠がいるのよ! あそこに!
もどかしく、手を振り回しながら言い募るうちに、霓蓉の確信は深まっていった。天界の舞台に佇む
(そうだわ……あの時の驪珠よ……)
夫の六十の賀で、ひと際見事に舞った驪珠の姿が、その時の感動が蘇って、霓蓉の目の奥が痛んだ。
雲を掻き分けて舞い降りた、真白い鶴の舞い。
美しい声で夫の治世の久しく安らかであることを祝い、祈った
紛うことなき神鳥が飛来したのだと、だから安寧も平穏も
それから間もなくして驪珠は地上を去り、陽春は姿を隠し、夫は抜け殻のようになって残りの生を燻らせた。そして霓蓉自身も、また。
そのすべてを間近で見てきた隼瓊だろうに──なのに幾つになっても美しい
「私には、何も」
「そんな──」
「驪珠ならば私に姿を見せてくれぬなどあり得ぬこと。その……白鶴は、何か申しておりますか」
問われて、霓蓉は万寿閣を仰ぎ見た。すると、地上の人間の視線に応えるように、白い衣装の
流れる
ぴんと伸ばした指の先が、離れた距離でもはっきりと捉えられた気がした。白鶴が、長い
優雅に広げる大きな翼を表す動きは、決して早いものではない。けれどあらゆる瞬間が緊張に満ちている。
傾けた首、眼差しの角度、捻った胴が描く曲線──身体のあらゆる部位を使って奏でる妙なる調べ。静謐な中にも聞こえる音があるのだと、その白い影の舞は見る者に教えていた。
「驪珠だわ……」
「何ということ……」
侍女たちの囁きが、潮騒のように夜の静寂を微かに乱した。
霓蓉に古くから仕える者も、《
地に
見蕩れるに留まらない、ほとんど尊崇に近い感情の込められた視線を地上から集めておいて──白鶴は、静かに歌い始める。
九天戴日輪歓無極 輝かしい主君を戴いた皇宮では喜びが極まることなく
蒼生絶戦乱楽未央 戦乱が絶えた世では民の楽しみが尽きることがない
千年万年永永遠遠 この幸いが世々限りなく続くように
連連唱唱太平之歌 太平の歌を唄い継ぎましょう
楼閣から降る歌声を、侍女たちは天からの恩寵のようにひれ伏して受け止めている。十五年前のあの日と同じように。
けれど、今、すすり泣く声がそこここから聞こえるのは、歌舞の美しさゆえではない。白鶴の──驪珠の声は、慶賀の詞に似つかわしくなく憂いに満ちていた。
夜空に高く響く声が聞く者の胸に呼び起こすのは、喜びではなく深い悲しみだった。それが不思議でならなくて、霓蓉は恐れも忘れて声を張り上げた。
「驪珠……そなたでしょう? どうしてそのように悲しい声で歌うの?
驪珠は死してなお高く澄んだ声で唄うのに、彼女の声はなんとみっともなく聞き苦しく
(こんなことだから、
訳の分からない悲しみに喉を塞がれて、霓蓉は侍女たちの列を離れ、万寿閣のほうへよろめいた。
驪珠も彼女も、悲しむ理由などないはずだった。ほんのしばらく前までならまだしも、陽春が帰って来てくれたのだから。驪珠は笑って、霓蓉に我が子を託してくれるべきだ。
なのになぜ、遥か高みから見下ろす眼差しが、深い悲嘆に満ちていると感じるのだろう。
「霓蓉様……」
驪珠の
驪珠は、わずかに下界へと身を乗り出して、首を大きく左右に振った。霓蓉が間近に見たこともある、白い羽根の飾りが闇の中で跳ねる──その残像に目を瞬く間に、いっそう切々とした声が地上の者たちに降り注ぐ。
「私は、我が子を悼んでいるのです。可哀想な陽春のこと、死んでしまったのに誰にも顧みられないあの子のことを……!」
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