第8話 喜燕、逃走の果てに

 喜燕きえんは闇の中を駆けていた。背後から追いかける者たちを振り向くことさえせず、真っ直ぐに、一心に。


(女の足音じゃない……宦官か?)


 ただ、姿を見ずとも、衣擦れの音の微妙な違いや、足音の重さが追手の情報を教えてくれる。

 下級の宦官は、力仕事にも従事するのだったか。男ではないといってもそれは機能の話だけ、体力や足の速さではもちろん小娘を凌駕するだろう。三人が道を別れたことで生まれた隙を、使い潰す前に逃げ切れることを祈るしかない。


 三人がそれぞれ逃げる先も、あらかじめ決めてある。


 星晶せいしょうは、しゃ貴妃きひのいる永陽えいよう殿へ。一番動きづらく、かつ目立つ衣装なのが心配だけれど、彼女がもっとも後宮を知悉ちしつしている。


 燦珠さんじゅは、しん昭儀しょうぎの殿舎へ。後宮では新参者の彼女が、暗い中でも辿りつける場所は限られているから。


 そして喜燕は、秘華園ひかえんへ。謝貴妃や沈昭儀と同様に、隼瓊しゅんけいも眠らずに小娘たちの報告を待ってくれているはずだ。

 後宮の最奥に位置する秘華園まで、喜燕が駆ける距離はもっとも長いけれど──構わない。

 謝貴妃のためにも星晶に危険が及んではならないし、名優だという燦珠の父君に協力を求める時に、愛娘まなむすめが怪我をしただなんて伝えることはできないのだから。


「はあ……っ」


 冷えた夜の空気を吸い込む肺が、痛い。練習の時の短褐じょうげではなく、侍女の扮装は足にスカートが絡まって走りづらく動きづらい。でも、背後に複数の気配が蠢くのは、喜ぶべきことのはずだ。喜燕は、追手のいくらかを引き付けることができている。


 通り過ぎる殿舎の、硬く閉ざされた扉を叩くつもりは、毛頭ない。


 後宮で生き延びる秘訣は、余計な騒動に関わらないことだ。深夜に出歩いた上に追手を引き連れている不審者に構う者がいるはずがない。

 立場の弱いげじょや宦官も、の帰還に、立ち居振る舞いに細心の注意を払う妃嬪ひひんたちも同じこと。多くの宦官を操るらしいを恐れて、あっさりと引き渡される可能性すらあるだろう。


 だから、喜燕はひたすらに走る。息が乱れ、頭がぼうっとするのにも構わずに。

 夜の後宮は気が遠くなるほど広いようにも思えたけれど、ついに見慣れた一角に辿り着く。秘華園──戯子やくしゃが守られる華劇ファジュの園は、もう目の前だった。


(もうすぐ……!)


 門の内では、翠牡丹ツイムータンを見せるまでもなく、喜燕の顔を知っている者が待ってくれているだろう。隼瓊が、そのように計らってくれているはず。


 最後のわずかな距離を詰めるべく、喜燕はひと際強く地を蹴った。舞う時のように、全身がふわりと宙を浮く。スカートの裾が舞い、脚に絡まる。空中にいるうちに絹の生地を捌いて──着地したら、もう一度跳躍を、と。脚をめようとしていたのだけれど。


(──え?)


 喜燕の足が地に着くことは、なかった。


「……っ」


 軽やかに再び宙に跳ぶ代わりに、彼女の全身を痛みと衝撃が襲う。横から飛び出した何者かに身体を掴まれて引き倒された、と理解した時には、喜燕は黒い人影に肩を踏みつけられていた。


 首をじって睨め上げても、顔かたちは分からない。そもそも彼女が知る相手ではないのだろうけれど。ただ、体格と格好からしてやはり宦官だ。地を這う喜燕を見下ろして低く嗤う声も、女にしては低く男にしては高い、独特の響きを有していた。


「ひとりは秘華園に逃げるだろうと考えていたのだ。当たったな」

「……離、せ……っ」


 起き上がろうともがいたところを腹を蹴られて、喜燕は呻いた。身体を丸めて耐えるのが精いっぱいで、声を上げることさえできそうにない。うたで鍛えた声が出せれば、ここまで来たなら助けてくれる者もいたかもしれないのに。


 肩を踏む宦官の足を掴もうとした喜燕の手が、逆に捕らえられて捻り上げられる。

 関節の痛みに漏れかけた悲鳴は、口に押し込まれた布切れに吸い込まれた。最初のひとりだけではない、暗闇の中から何本もの手が伸びて、彼女の手足を縛り、布をかぶせて荷物のように纏めていく。


「連れて行け。お待ちだろう」


 誰がどこで、とは言わないまま、宦官のひとりがそう告げた時には、喜燕の視界も身の自由も完全に封じられ、誰かの方に担ぎ上げられていた。


      * * *


 夜の闇よりもなお深い闇に包まれた喜燕には、時間や距離を測る術はなかった。とはいえ、真夜中に怪しげな荷物を抱えていては後宮を出ることはできないだろう。ならば、どこかの殿舎に連行されているのだろうと推測できる。


(待ってるって言ってた……だから、すぐには殺されない……!)


 努めて冷静に自分に言い聞かせるけれど、その推測を喜ぶべきかは分からなかった。この扱いをしておいてお茶に招いてくれるはずもない。


 今宵、喜燕が見聞きしたこと。燦珠たちと計画していたこと。その背景にある皇帝の意思──彼女を捕えた者は、何にどれだけ気付いているのだろう。彼女から、どこまで聞き出そうとしているのだろう。そのために、何をするつもりだろう。


 ……喜燕は、秘密を守ることができるだろうか。


(燦珠と星晶は、無事に逃げていますように……!)


 祈る間に、肌に感じる温度が少し変わった。いまだひんやりとする春の夜の風が止んで、室内の柔らかく温かな空気に包まれた、と思う。鼻に届く香りは──花や化粧、焚かれた香。酒と菓子の甘い香りも混ざっている。女の部屋だ。それも、とんでもなく贅を凝らした。


 そんな部屋を、喜燕は知っている。沈昭儀の殿舎よりも一段と豪華で、けれどその主は高慢で冷酷だった。


「お待たせいたしました」


 と、喜燕を担いでいた宦官は彼女を床に転がした。そこそこに乱暴な扱いだったけれど、厚い敷物は喜燕を優しく受け止めてくれる。その感触は、彼女がかつて平伏したものと同じような。では、彼女は喜雨きう殿に運ばれたのだろうか。


(まさか……ううん、やっぱり……?)


 驚きよりも、納得のほうが勝る。そして次に恐怖がじわじわと込み上げる。混ざり合った感情によって喜燕の胸がさらにうるさく高鳴る間に、彼女の顔を覆っていた布は取り去られる。


 そして視界が晴れると、室内の灯りと装飾が眩く煌めき、喜燕の目を射潰した。壁や柱に描かれた種々の花や鳥や蝶。調度に使われた紫檀したん黒檀こくたんの艶。磁器の壺を彩る釉薬の色鮮やかさ。

 それに何より、深夜にも関わらず美しく着飾った女の髪や耳元や首回りを彩る金や銀や宝石が、輝かしかった。紅く塗られた唇が嘲笑を浮かべて、歪んでいる。


「あら──殿に色目を使う不届き者がいると聞いたら、見たことのある顔じゃない」


 喜燕は、彼女を見下ろす女の顔をまともに見たことがなかった。けれど、声は確かに聞き覚えがある。そして、その女の美しさも刺々しさも、声や言葉遣いから想像した通りのものだった。


「沈昭儀のしつけのていどが知れるわね……!」


 その女──ちょう貴妃瑛月えいげつは、捕らえた喜燕を通して彼女の現在の主をさげすんだ。

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