七章 深更、安らぐ者のなく
第1話 黒影、月下に舞う
(どこか、高いところに登れれば良いのに!)
後宮はいたるところに回廊が通り、庭園も高い壁で区切られている。壁を越えるなり、その上を走るなりできれば追手を撒くこともできそうなのに。市井の広場なんかとは違って、ここでは都合よく木箱だの樽だのがそこらに放置されてはいなかった。
「く……っ」
背後から伸びた腕を、燦珠は辛うじて地に転がって避けた。肩から転がり、その勢いを使って起き上がる──
敷物を敷いた舞台の上なら何でもない動作だけど、屋外でやると石が肩に食い込んで、痛い。それに、再び走り出す体勢を整える前に、ただでさえ暗い視界に濃い影が落ちる。立ち上がり切れていない燦珠の背に、追手が
(捕まる……!?)
歯噛みしながら身構え、ぎゅっと目を閉じた時──燦珠の傍らを、疾風が駆けた、と思った。
え、と思って目を見開くと、彼女に手を伸ばしていたと思しき黒衣の宦官が、身体をのけぞらせていた。
それは、風の
(えっ、えっ、嘘……?)
霜烈の動きは、武術というより洗練を極めた流麗な舞だった。
敵を叩きのめそうというよりは、手足を舞わせたその先に相手がいるかのような。舞の軌跡の先にいる無粋者が、勝手に倒れていくような──舞台の上での
足を高く上げて振り下ろす
闇を背景に黒衣で舞うから、目を凝らさなければならないのだけれど。黒の色調のわずかな違いが描き出す手足の線、
彼はきっと、燦珠を助けるために飛び出してくれたのだ。ほどなくして、追手のすべてが倒れたのは喜ぶべきことだ。
でも、真っ先に終わってしまった、と思うのはどうしてだろう。月の光の下で、音楽もなく演じられた舞を、いつまでも見ていたい、だなんて。
「
倒れた者たちの呻き声を耳障りに思いながら、燦珠はよろよろと霜烈のほうへ足を踏み出した。客が舞台に上がるのは無作法極まりない。素晴らしい舞の余韻を自ら壊してしまうのはもったいないし畏れ多いし。
でも、これは
「……無事か?」
「え、ええ……」
燦珠を振り向いた霜烈の頬は微かに朱を帯び、呼吸も乱れているようだった。
いつもは深い水を湛えた淵のように密やかに落ち着いた美貌の人だから、生きて血が通った気配を感じると何だか安心してしまう。そう、それに、彼には言いたいことが山ほどあった。まずは──
「今のもう一回やって! あ、できれば明るくて広いとこで!」
以前、《
「そなたは、このような時でも変わらないな」
「だってすごく綺麗だったもの! もっとちゃんと見たいわ……!」
ほかに聞くべきことはあるのに、自身の欲求を最優先した自覚は、ある。呆れたように小さく溜息を吐かれて、燦珠の頬は熱くなる。
(でも、仕方ないじゃない! あんなのを見せられたら!)
「どうして今まで何も──」
霜烈の隠し事を
「
闇のあちこちから、
独特の高さの声、それに蠢く影の背格好からして、宦官たちなのだろう。彼らは霜烈に言われた通り、倒れた同輩──なのだろう、たぶん──を縛り上げ、また、何人かは遣いの役を果たしに去っていったようだった。まったくもって、迷いなく忠実な仕事ぶりだった。
(奉御は最下級の役職だって言ってたじゃない……!)
そして、霜烈の立ち居振る舞いには似つかわしくないと、ずっと思ってはいたのだ。けれど、宦官たちを意のままに操る姿をさらりと見せられて、どうして驚かずにいられるだろう。
だって、これは後宮と皇帝の進退に関わる陰謀のはず。それぞれ役目や立場や、本来の主がいるはずの宦官が、こうも一糸乱れぬ動きを見せるなんて信じがたい。貴妃である華麟でさえ、最初は傍観を決め込もうとしていたくらいなのに。
燦珠が絶句していると、宦官のひとりが小さく囁いた。
「そなたも、くれぐれも気を付けるのだぞ、
「ああ。ありがとう、
霜烈が呼んだ名を聞いて、燦珠はようやく気付いた。あの、
霜烈を案じる声音も、彼が返した率直な礼も、心がこもった温かなものだと聞こえたから、ほんの少しだけ気を緩めることができる。でも、本当に少しだけだ。燦珠は霜烈の白皙の横顔を見上げて、おずおずと問いかける。
「楊奉御……よね? ねえ。貴方って、誰なの……? あの──」
見目の良い宦官を探せ、と。陽春皇子が言っていたのは、やはりこの人のことだとしか思えない。でも、たとえ周囲に
それに──はっきりと尋ねてしまったら、彼の秘密を暴いてしまったら。これまで見知ったと思っていた霜烈という人が、消えてなくなってしまうかもしれない。そんな埒もない不安が、燦珠の舌を凍らせた。
「これから教える」
彼女の恐れをあやすかのように、霜烈は微かに笑みを浮かべた。
「……そなたにしか言えぬのだ。
ああ、そうか、と。霜烈が言い訳のように呟くのを聞くうちに、燦珠は気付く。彼も恐れているのだろう。何かは分からないけれど、教えた後で彼女がどう反応するのかを。それだけの秘密を、彼は打ち明けようとしてくれている。
「ついて来ておくれ」
今はこれ以上は何も聞かない。──聞けない。だから、燦珠は唇を結んで霜烈の背に従った。
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