第7話 燦珠、今なすべきことは

 は、星晶せいしょうを伴って殿舎へと戻っていった。

 夜風で酔いが醒めたのか、遠目に見送る後姿の足取りはしっかりしている。あるいは、今宵初めて会った女に共謀を持ちかけた高揚によって覚醒したのか。


 燦珠さんじゅ喜燕きえんは、ふたりの姿が完全に闇に溶けるまで待ってから、隠れていた茂みから抜け出した。

 月と星の灯りだけが頼りの庭園では、彼方に思える殿舎の輝きが眩い。微かに京胡きょうこの音が風に乗って届いたのは、散策から戻ったを迎えて、饗宴が再開されたのだろうか。


 だから、庭園にいるのは燦珠たちふたりだけ、口を開いてももう大丈夫なはず、なのだけれど──


「ねえ──」

「だよ、ねえ?」

「うん……」


 ふたりともが曖昧に言葉を濁すだけで、はっきりとの名を口に出すことはできなかった。それでも、闇の中でも、喜燕の目に燦珠と同じ疑問が浮かんでいるのがはっきりと見て取れた。


(なんであの人がよう奉御ほうぎょのことを知ってるのよ……!?)


 霜烈そうれつがあの男に味方するはずはない。その点は、燦珠はまったく疑っていない。

 華劇ファジュを、秘華園を愛すると言った彼の姿勢は一貫しているし、言葉には嘘がないと思うから。何よりあのうたを聞いた後では、の同類だなんて考えるだけでも非礼になるだろう。


 でも──彼には何か秘密があるようなのも、燦珠はとうに気付いていたのだ。


 とはいえ、この場でいくら考えたところで答えが出るはずもない。燦珠と喜燕は揃って溜息を吐くと、やるべきことをあえて口に出した。心を騒がせる疑問に蓋をするかのように。


「……早く、栴池宮ここから出よう。しん昭儀しょうぎ隼瓊しゅんけい老師せんせいに報告しないと」

「ええ……爸爸パパに頼むのも、早いほうが良いでしょうし。今ごろ星晶も不安でしょうし、ね……」


 今宵の本当の目的は、の本当の出自を探ること、だったのだ。そして、それに必要な情報の欠片は、しっかりと手に入れることができた。

 あとは無事に皇帝のもとにその情報を届けるだけ、至尊の御方の権威と、燦珠の父の人脈を利用すれば、役者崩れひとりの身元を割り出すことはもはや難しいことではないだろう。


(楊奉御にもすぐ会えるわ。明日にでも……そうしたら、今度こそ問い詰めれば良いのよ)


 そうして、隠し事の代償に、また唄ってもらえないか強請ねだってみよう。あのすさまじく綺麗なうたを、また──その思いを杖にして、喜燕と寄り添って、燦珠は暗い道を辿り始めた。


      * * *


 再び賑やかな歌舞と酒の香に満たされた花庁きゃくまに戻ると、星晶が燦珠たちに駆け寄ってきた。


「燦珠、喜燕……!」

「ごめんね、心配したでしょ。私たちも……外の風に、当たってたの」


 人の耳を憚って、後をつけたの、とは言わなかったけれど、燦珠たちが何を聞いたのかは表情で察してくれたのだろう。星晶は小さく頷いた。

 夜の冷気によって、舞った後の頬の上気は冷めてしまったようだけど、衣装に不自然な乱れがないのを確認して心から安堵する。は、彼女に不埒な真似はしなかったらしい。


(人探しを言いつけるために呼び出したの? ……命じられそうな相手を、物色していたのかしら)


 後宮に突如舞い戻った皇子が華劇ファジュを好むと分かれば、擦り寄ろうとする者も現れる。野心を持って近づく者なら利用し合うこともできる。


 特に、喜雨きう殿の──いずれ彼を切り捨てようとしているちょう貴妃きひの手の者を掻い潜って、栴池せんち宮に潜入しようという者なら使とでも思ったのかもしれない。


(あの人も必死なのね)


 嘘が暴かれれば命がないのはもちろんのこと、をまっとうしたところで遠からず殺される末路が待っているのだから。なりふり構わず足掻くのも当然なのかもしれない。


 もちろん、最初から悪事に手を染めなければ良かったのだから、燦珠が心から同情することなんてないけれど。役者が舞台の引き際を見誤ったというなら、終わらせてやることこそ優しさというものだ。


 為すべきことを為すべく──手に入れた情報を速やかにしかるべき御方に渡すべく、燦珠たちは目で語り合った。すなわち、すぐに栴池せんち宮を辞さなければ、と。


 跪いた星晶に、栴池宮の侍女は残念そうに溜息をこぼした。


「あら、そなた、もう帰ってしまうの?」

「はい……既に過分のご厚意をいただきました。この上殿下の御心を占めようなどとは、出過ぎた望みとわきまえております」


 星晶が顔を伏せるのは恐縮しているからではないだろう。

 皇太后付きの侍女なら、彼女の男装での演技を見たことがあってもおかしくはない。間近に顔を突き合わせることで気付かれることを恐れるほうが大きいはずだ。もちろん燦珠も喜燕も、必要以上に深く頭を垂れている。


「そなたの舞は見事であった。皇太后様にもお伝えしましょう。きっとご所望されることでしょう」

「恐れ入ります。光栄でございます」


 皇太后が見ていたら、さすがに星晶だと気付かれていたかもしれない。あの御方は──たとえ現実は見ようとしないのだとしても、華劇ファジュを見る目はとても確かなようだから。


      * * *


 いまだ楽の調べや笑い声がさざめく栴池宮を出ると、夜の闇はいっそう濃く感じられた。後宮の通路の壁も石畳も、細部にいたるまで壮麗な装飾が施されているのを知っているのに、昼の輝かしさが嘘のように何もかもが闇に塗り潰されている。


 星晶を先に、侍女姿のふたりが後に従う格好で、しばし進む。酒宴の賑わいが完全に背後に消えると、聞こえるのは娘三人分の足音だけ──では、なかった。


(ねえ……)


 燦珠は手を伸ばして、同行するふたりの袖をそっと引いた。声を出さないのは、無言の掟を守るためだけではない。彼女たちの後をつける者たちに、気付いたことを悟らせないためだ。星晶も喜燕もそこは心得ているから、ふたりともあからさまに振りむいたりはせず、ただ小さく頷いた。


 瑞海ずいかい王や趙貴妃の手の者か、あるいはほかの殿舎の妃嬪ひひんか。可能性はいくらでもある。

 に関わる陰謀が暴かれるのを恐れる者もいれば、皇子に取り入ろうと焦る者もいるのだろうから。宴席で目立った星晶を、いち早くどうにかしようとか、せめてどの殿舎に属しているのか確かめようとか考える者がいても、おかしくはない。


轎子こしを使わせてもらったほうが良かったかしら。……いいえ、それだと目立つしのろくなってしまうものね)


 星晶を案じる華麟かりんは、轎子こしを貸し出そうと申し出てくれていた。担ぎ手の宦官がいれば心強いはずだから、と。


 でも、戯子やくしゃは姫君がたと違ってわざわざ轎子こしを使わないものだ。派手な振る舞いは人目を惹くし、怪しむ者も出るかもしれない。それではそもそもの目的を果たすこともできなくなると、固辞していたのだ。それでに首尾よく接近できたのだから、判断としては間違っていなかったはず。……要は、無事に逃げ切れば良いのだ。


(決めていた通りに、ね?)


 無言のまま、視線によって意を交わすのにももう慣れてきた。三人は傍目には見えぬように頷き合うと、そのまましばらく歩みを進めた。月に誘われて散歩に出たかのような、ゆったりとさりげない足取りで。


 そして、分かれ道に行き当たった時──それぞれに、違う方向に向けて走り出す。星晶が邪魔そうに払いのけた絹の披帛ひれが、月灯りに煌めきながら宙に舞う。それが地に落ちるのも、見る前に。


 背後で息を呑む気配が、みるみるうちに遠ざかる。誰を追うか、手勢をどう分けるかでせいぜい悩んでくれれば良い。その間に、燦珠たちは距離を稼ぐことができるのだから。


(誰かひとりでも無事なら良いのよ!)


 もちろん、全員が逃げ切れるに越したことはないのだけれど。


 でも、こちらだって遊びのつもりはまったくない。戯子やくしゃでも小娘でも──あるいは、だからこそ。秘華園ひかえんを乱し、悪用する企みを放っておく訳にはいかないのだ。

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