第6話 闇夜、野心の蠢いて

 夜の庭園に消えていく星晶せいしょうを追って、燦珠さんじゅ喜燕きえんスカートの裾を乱して走り出した。


「そなたたち、殿下のお邪魔を──」


 皇太后の住まいたる栴池せんち宮には似つかわしくない無作法なのだろう、年配の侍女が眉を逆立てるけれど──


「盗み聞きなどいたしません! 遠目に様子を窺うだけですわ!」

「不名誉なことがあっては、皇太后様にも貴妃きひ様にも申し訳が立ちません!」


 ふたりして相手以上の剣幕で怒鳴ることで、強引に花庁きゃくまを後にする。咎められようと怪しまれようと、不埒な考えを抱いているに違いない男と星晶をふたりきりにする訳にはいかないのだ。


(どの殿舎の貴妃様とは言ってないもんね!)


 常識的に考えても、皇太后の目と鼻の先で皇子様──かどうかも決まっていない怪しい人──が戯子やくしゃに手を出すのは醜聞だろう。を認めるか否かに関わらず、戯子やくしゃの主たる妃嬪ひひんが良しとする事態でもないはず。

 よって、燦珠たちの所属が問題になることはない。それより何より、今は星晶を放っておけない。


 庭園に出ると、煌々と灯りに彩られた室内とは打って変わって、闇が深く重く下りていた。月も星も出ているけれど、酒宴の眩さに比べればいかにも頼りない。木々や茂みはさらに濃い影を作り出して、先に出たはずのふたりの姿を呑み込んでしまったかのようだった。


「酔ってたもの、遠くには行ってないはず……」

「あ、あっち! 影から回り込もう?」


 それでも、星晶の紅色の衣は月灯りの中でもよく目立った。は、彼女を四阿あずまやに連れ込もうとしているらしい。四阿の反った屋根と柱が、夜空を黒く切り取っている。

 小声で囁き合ってから、の視界に入らないであろう経路を計算して、燦珠と喜燕はいっそう足を急がせた。


 だって、いくら業余者ドシロートに毛が生えたていどとはいえ、うたの声は夜の庭園によく響くはずなのだ。それが聞こえないということは、あの男は嘘の口実で星晶を連れ出したということになる。


(唄ってなんかないじゃない! 星晶に何する気よ!?)


 華麟かりんの怒りを恐れるまでもなく、燦珠自身がそんな狼藉ろうぜきを許せない。いざとなれば、を殴り倒してでも星晶を助け出さなくては。

 密かに闘志を燃やしつつ、足音を忍ばせて四阿に近づくと──夜風が、男の低い声を運んでくる。


「──お前はどの殿舎から送り込まれた?」


 の声だ。宴席では、まだ貴公子らしいなよやかな風情を装おうとはしていたのに、今は酒に灼けた声が剣呑に尖っていて、怖い。星晶が息を呑む気配も確かに聞こえたから、燦珠の心臓はとたんに不穏に脈打ち始める。喜燕と片手を握り合って、唇に指をあて合って。辛うじて、油断せずに見守ろう、と伝え合う。


「……銀花ぎんか殿でございます」


 星晶は、微かに緊張を帯びた声で、あらかじめ決めていた設定を答えた。暗い中に連れ出されての詰問に、怯え戸惑う風情を見せるのは不自然ではなかっただろう。でも、は軽く鼻を鳴らしてその答えを両断した。


「信じられんな。お前のような戯子やくしゃがいたのに、あの女は出し惜しみをしていたのか」


 あの女呼ばわりされたのは、銀花殿の貴妃のことだろう。に露骨に擦り寄りはしないけれど、機嫌伺いはする、ていどの対応にしているという御方。

 だから、抱える戯子やくしゃで最高の芸を持つ者を送らなかったのも、まったくあり得ないことではないかもしれないけれど──


「申し訳ございません。主の意に背いて参上いたしました。すべて、殿下のお目に留まりたいがための卑しい一心でございます」


 少し考えるような間を置いた後、恐らくは跪く時の衣擦れの音と共に、星晶は用意していた嘘を述べた。

 の歓心を買いたいがために、独断で栴池せんち宮に入り込んだ、と──これなら、重ねて問い詰め辛いはずだし、男心をくすぐるはずだった。けれど──


「それも、信じがたい。……が、少なくとも喜雨きう殿の者ではないのだろうな。舞の趣向が、まるで違った」


 いまだ疑り深げなざらざらとした声で、は味方のはずの殿舎の名を挙げた。


(喜雨殿の者なら安心、とは思わないのね……?)


 喜雨殿の主、ちょう貴妃瑛月えいげつを見つけ出した──と主張する──瑞海ずいかい王の姪だという。栴池せんち宮に戯子やくしゃを送って、「還ってきた皇子」に取り入ろうとする筆頭でもあるのだろうに。このように嫌悪を込めて語るのは──


「正体を隠して俺に近付こうという気概があるなら、役に立って見せろ。どうせ、野心があってのことなのだろう」

「……わたくしに何をお望みでしょうか」


 敵も、一枚岩ではないということだ。燦珠が察したことを、星晶も察したのだろう。言葉遣いは淑やかなまま、声の調子がいつもの凛としたものに転じる。その変化はきっと、の真意を見極めようと意識を凝らしたからだ。


 彼のほうでは、野心ありと見込んだ女が食いついたのだとか何とか、都合よく考えたのかもしれない。続けた声には、嫌悪に加えて怒りと侮蔑が醜く混ざり合って煮え立っていた。


「瑞海王も趙貴妃も不忠者だ。俺を利用して自らの権勢を高めることしか頭にない。いや、瑞海王に至っては俺を踏み台にして玉座を得ることすら企んでいるだろう」

「まあ……」


 が告げたことは、別に驚くようなことではない。華麟かりんも予想していたこと、後宮の住人にとっては周知の事実ですらあるだろう。

 あんなにもだらしなく遊んでいたように見えたこの男が、それに気付いていたことこそ驚きかもしれないけれど、でも、それなら彼が考えそうなこともあるていど想像がついてくる。


(瑞海王様や趙貴妃様を出し抜いて生き延びる? でも、どうやって……?)


 目的は分かってもその手段に見当がつかない。そのもどかしさを解消しようと、燦珠は夜風に乗って届く男の声に耳を澄ませた。


義母はは上の庇護も永遠ではない。俺は、足もとを固めねばならぬのだ。分かるな?」

「はい……陛下はまだ、殿下のことを従兄弟ぎみとは認めていらっしゃいません」


 何を考えているか分からない、しかも大罪を犯していることが明らかな男と対峙している星晶の不安と緊張はどれほどのものだろう。情報を引き出そうと必死に考え、言葉を選んでいるのが微かに震える声から伝わって、燦珠と喜燕が握り合う手にも力がこもる。星晶の手も握ってあげられればと、ふたりともが切に願っているはずだった。


「だから認めさせなければならぬ。否定できぬ証拠を突き付けてやらねば……!」

「わたくしに、その証拠を作れと仰るのですか……!?」


 ようやく話が見えた、と。離れた場所にいる娘三人の心がひとつになりかけたのを、男の低い嘲笑があっさりと砕いた。


「俺を偽物のように言うでない。作るのではない。のだ。俺は後宮ここで育ったのだからな。誰にも知られず隠していたものくらい、ある……! ただ、俺自身が動くとあらぬ疑いを招きかねぬと、それだけのことだ」


 夜の闇の中にふたりきりと信じているのだろうに、はあくまでもとして振る舞っていた。うたの実力はさておいて、役者としては腹がわっていると言えなくもない。


(全然、褒めるところじゃないけど……!)


 燦珠たちの目的は、この男のを突き崩すことなのだから。


「どこに、どのように隠されているものなのでしょうか」


 星晶の声も、今や斬りつけるように鋭いものだった。


 後宮にいたことなど絶対にないはずのが、どうして証拠とやらを差し出せるのか。皇族であると万人を納得させられれば、確かに身の安全は保障できる──それどころか、玉座への道さえ拓けるのかもしれないけれど。

 その情報を、この男はどこからどうやって手に入れたのだろう。


「ものではない。人だ」


 焦れる星晶をもてあそぶように、は判じものめいたもの言いをした。星晶が眉を寄せる姿を愉しんだのだろうか、もう少し分かりやすく教えてくれるのは、低く嗤う声を闇に流してからのことだった。


「二十五、六の年ごろの、見目の良い宦官だ。あるいは死んでいるかもしれないが、とにかくそのような年格好の者の情報を寄こせ。翠牡丹ツイムータンがあれば後宮の出入りは自由なのだろう。戯子やくしゃならばできるはずだ」


 星晶が応えなかったのは、驚きを呑み込むためだったに違いない。燦珠と喜燕も、闇の中で目を見開いて見つめ合っていたのだから。


(見目の良い宦官って……)


 調べるまでもなく、彼女たちには心当たりがあってしまうのだ。後宮に、宦官は数えきれないほどいるけれど、見目良いことが最大の特徴になるような者はそうはいないはず。


「首尾よく行ったらお前を貴妃に──いや、皇后にしてやっても良い」


 脳裏に浮かんだ霜烈そうれつの面影で頭がいっぱいになってしまって──燦珠は、が帝位への野心を露にしたこと、星晶を狙っているとあからさまにしたことに憤る余裕さえなくなっていた。

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