第3話 仙狐、酒宴を賑わす

 闇に沈み始めた栴池せんち宮は、けれどかれた篝火かがりびの中で真昼の明るさを誇っていた。その門前は、未亡人の住まいには相応しくなく、人の群れがごった返して。


 歌舞に備えて着飾っていると思しき戯子やくしゃたちの、花のように色鮮やかな披帛ひれ水袖シュイシウひるがえり、髪を飾る金銀や玉のかんざしや絹の花が炎に照らされて煌めくかと思えば、地味な装いのげじょや宦官が忙しく走り回る。宴席の酒食を運んだり給仕に従事する者もいれば、伶人楽師を務める者、戯子やくしゃの着替えや俊扮けしょうを手伝う者と、役割が様々にあるのだろう。


 宮殿の内側は春の夜の酒宴に華やいでいるのだろうけれど、門の外においては例によって無言の掟が支配している。そのために、誰もが視線や指先の仕草だけでやり取りして道を譲り合うのが、異様と言えば異様だった。


 燦珠さんじゅ喜燕きえん星晶せいしょうの三人もまた、隣接する殿舎の壁の影に隠れて、無言のうちに頷き合った。それぞれの役割、目と耳を配るべきことについては、頭の中に叩き込んである。これもまた一種の演技なら、戯子やくしゃたるもの失敗することは許されない。


 それにしても──と、燦珠はしみじみと思う。燃える篝火かがりびによってあかく照らされた星晶の白い顔の、なんと綺麗なことだろう。


 舞った時に揺れるように、髪は一部を結い上げてあとは背に流している。足りない長さは、付け毛で補って。いつもはすっきりと晒しているうなじが、少し隠されることでかえって色気が増すのが不思議なほどだ。額に、赤と金で描いた花鈿かでんは闇の中でも明るくともって白皙の美貌をいっそう引き立てる。


 好んで青や緑を纏う普段の印象を覆すために、あえて華やかな紅色の襦裙じゅくんを選んだのに、やはり可憐さよりも凛とした印象になるのはさすが、だろうか。

 咲き誇る花というよりは、珊瑚さんご瑪瑙めのうを磨き上げたような、研ぎ澄まされた硬質な美は、日ごろは男装しているからこそだろう。それでも今の星晶は、どこからどう見ても絶世の美姫そのもので──ひたすらに溜息を吐くしか、ない。


花旦むすめやくの立場がないわあ……)


 一抹の悔しさも覚えるけれど、何よりもまず頼もしく思うべきだろう。


 だって、陽春ようしゅん皇子は、栴池せんち宮に群がる戯子やくしゃを舞わせては、気に入った者を傍に呼んで酌をさせたり語らったりするのだとか。見渡したところ、集まっている戯子やくしゃの中で星晶の美貌に太刀打ちできそうな者はひとりもいない。

 女の好みは人によって違うにしても、を無視できる男なんて男じゃないだろう。しゃ貴妃きひ華麟かりんだって、準備の段階で声にならない悲鳴を上げてもだえていた。


(上手くやれば、大丈夫……!)


 内心の緊張など表にはちらりとも見せないように。あくまでも、優雅にゆったりと微笑みながら。燦珠たちは栴池せんち宮の内に入り込んだ。


 後宮の中にいる時点で不審な者はいないということになっているからか、あるいは客が多すぎて面倒になったのか。皇帝の寝殿に参じた時と比べれば身体検査はあってもないに等しいていどのものだった。そもそも、燦珠たちはを害するために来たのではなく、暗器を隠し持っている訳でもないのだし。


 ──という訳で、三人は見咎められることもなく殿舎の奥に通された。宴の喧騒や料理の香りが伝わってくる小部屋が、形ばかりとはいえ最後の関門に当たるようだった。


「そなたたちは? どなたの名代みょうだいで来たのかしら」


 連日の宴にはさすがにんでいるのだろうか、年配の侍女がややぞんざいな目つきと言葉遣いで跪く燦珠たちを見下ろした。本来は皇太后に仕えているからだろう、妃嬪ひひんの名を出されてもかしこまることはないのだろうな、という気位の高さが垣間見えた。


銀花ぎんか殿から参りました」


 星晶は、華麟や隼瓊とはかって決めたの所属を恭しく述べた。侍女役の燦珠と喜燕は口を開くことはできないから、星晶の堂々たる演技を後ろから見守るだけだ。ある意味では特等席に当たるのだろうけど。


(すごいわ、声もいつもと違うじゃない……!)


 なお、銀花ぎんか殿も、貴妃の殿舎なのだという。その主である御方は、ちょう貴妃瑛月えいげつほど露骨にに擦り寄ってはいないけれど、華麟ほど中立を保っている訳でもないとのことだ。


 つまりは、とりあえず戯子やくしゃを送ってご機嫌伺いをしている殿舎の名ということになるから、勝手に名前を借りても問題になりにくい──はずだった。たぶん。燦珠たちが失態を演じて怪しまれない限りは。


「そう。花庁きゃくまの隅で控えているように。殿が順番にお声がけします」


 事実、栴池せんち宮の侍女は疑った風もなくあっさりと頷いた。痩せ枯れた手が扉を開くと──花庁きゃくまの喧騒が、燦珠たちの目と耳に飛び込んでくる。


(わ……!)


 耳を刺すシンバルの音に、単皮鼓たんぴこの甲高く速い調子。そこに重なる京胡きょうこも、花弁の上で翅を踊らせる蝶を思わせる、軽やかに転がる調べを奏でる。

 聞いているだけで胸が騒ぎ血が熱くなるような華やかな楽──さらに、舞い踊る水袖シュイシウの間を、模造の剣や槍が飛び交う派手な舞に視覚でも惹き付けられる。武器の柄にあしらわれた色とりどりの房が宙に広がり、まるで室内の花火のようだ。


(何の演目だろ。武戯じゃない……?)


 武器を舞わせる龍套ぐんぶたい靠衣よろい姿の武人──もちろん女だけど──であるのに対して、中心で舞うのは刀馬旦おんなしょうぐんではなく、優美かつ軽やかな衣装を纏った花旦むすめやくだった。頭飾かぶりもの披帛ひれに、なぜか毛皮があしらわれているのは何の役柄を表しているのだろう。


 舞姫が身体に迫る白刃を紙一重でかわす動きが危うく艶めかしく挑発的だ。床に落ちた絹地は、たぶん彼女が脱ぎ捨てたもの。時おり足で蹴り上げて、刃に対する盾にすると、薄い紗の向こうにしなやかな肢体の曲線が透けて、これもまた胸を騒めかせる。小娘の燦珠でもそうなのだから、はさぞご満悦、なのだろうか。


「《掲露狐精ジエルーフージン》だ……」

「喜燕、知ってるの?」


 隣に控えていた喜燕の呟きを拾って、燦珠は首を傾げた。すると彼女は、舞い踊る水袖シュイシウを追って目をくるくると動かしながら教えてくれる。


「趙貴妃様の──喜雨きう殿の演目だから。美姫に化けた仙狐を、酔わせて尻尾を出させるの」

「ああ、なるほど。道理で知らないと思った……!」


 《鳳凰フェンファン比翼ビーイー》もそうだったけれど、後宮でしか演じられない、市井においては知る機会がない演目もあるのだ。

 まして、香雪こうせつとも華麟かりんとも不仲な趙貴妃の拿手戯おはことなると、今を逃すと二度と見られないかもしれない。そう思うと、星晶の出番を待つ間も無駄にせずにしっかり見て、技をおかなければ。


(狐の役だから毛皮なのね。尻尾を現わしているのかも……? で、正体を見せたところで捕まえようとしているところなのね?)


 水袖シュイシウだけでなく、披帛ひれも巧みに操って舞う仙狐役の戯子やくしゃは、確かに名手だった。燦珠も喜燕も星晶も、練習する時間さえあれば肩を並べられるに違いないけど! 今の問題は、それよりも──


「……殿方って、が好きなのかしら……」


 隼瓊しゅんけいが言っていた、男の気を惹くための舞とはこういうことか、と。腑に堕ちつつも心配になった燦珠が囁くと、喜燕と星晶も揃って困ったように眉を下げた。


「どうだろう……本来は、皇太后様のために賑やかなのを、だったはずなんだけど」

「趙貴妃様のご趣味でもあるよね。派手というか、華やかというか」

「うん、まあね。見るほうも分かりやすいだろうしね」


 星晶は秘華園ひかえんで過ごして長く、喜燕はかつての主人のことだからよく知っているようだった。燦珠としても、ちらりと見た趙貴妃の、やや険のある美貌を思い出せば、ふたりの声に潜んだ含みにも何となく納得がいく。


(でも、主がどうでも、見事な舞であることには違いないわ)


 目の前で繰り広げられる絹と剣と槍の乱舞は、女が見ても惹き込まれるし見ごたえがある。今宵は休んでいるという老齢の皇太后だって、きっと若返る心地だっただろう。

 それは間違いがないけれど──だからこそ、不安が募る。龍套ぐんぶたいを従えていない星晶がひとりで舞って、の目に留まることができるだろうか。


 燦珠と喜燕の頬が強張りかけた時──星晶が、明るく言った。彼女の笑顔も一点の曇りもなくて、宴席の華やぎよりも眩しく、燦珠たちの心を晴らしてくれるかのようだ。


「──でも、喜雨きう殿からは、連日戯子やくしゃが来ているんだろう? そろそろ食傷してもおかしくないよね」

「星晶、何を踊るつもりなの?」


 たおやかな美姫が、少年めいた口調で悪戯っぽく笑う──その不釣り合いさが不思議で、そして同時に魅力的で。酔った時に似たくらりとした感覚を味わいながら、燦珠は尋ねた。


(派手なのじゃなく、趣向を変えて、ってことよね……?)


 意図は分かっても、こうも自信と余裕たっぷりにしていられるのには、どんな秘策があるのだろう。燦珠と喜燕の疑問と期待にはすぐに答えず、星晶は上座で酒杯を傾けるをちらりと睨んだ。


「飲み過ぎは良くないって、教えて差し上げようかな、って」

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