第4話 酔芙蓉、清らに香る
《
透かし格子の窓から漂うひんやりとした春の薫風も、すぐに花の香りだけを残して熱に散らされる。贅を極めた装飾の室内には、瞬きしてもいまだ
出番を待つ
(そうね、確かに酔い覚ましは必要そうね!)
仙狐の舞も、息の合った
でも、この場の雰囲気は燦珠にはあまり感心できない。彼女は、妓楼で演じてみないかという誘いを断ったことが何度もある。舞手の技量よりも容姿や身体つきを見るああいう場所の空気と、この場のそれに通じるものを感じてしまって
爛れた空気の源は、高みから
皇帝でない癖になぜか後宮にいる男で、しかも皇帝と違って
媚びて、取り入ろうとする者と、それを品定めする者。その両方がいるからこそ、酒よりも質の悪い何かしらの淀んだ気配が
(
陽春皇子の放蕩ぶりが、燦珠には今ひとつよく分からない。
万が一本物の皇子だとしても、後宮の本来の主である皇帝の神経を逆撫でるような振る舞いが、どうしてできるのだろう。皇族の詐称だけでも大罪なのだし、露見する前に楽しんでおこう、とか? 絶対に露見しないという自信があるとか?
いずれにしてもまともな神経ではないのだから、考えるだけ無駄なのだろうけど。とにかく──
「──お願いできるかしら?」
「ふむ、良い趣向だ」
「我らは休憩になるの」
「きっと良い舞ですから、よく見ていてくださいね」
喜燕が宦官たちに微笑みかけた時──
舞い終えた仙狐たちがはけた後に、星晶がひとり、進み出たのだ。屋根の下にも関わらず、月の光が彼女だけに降り注いでいるかのような清雅な立ち姿は、おのずと人の目を惹き付け、息を呑ませる力があった。
胸を締め付けるような、畏れにも似た期待に張り詰めた空気を震わせるのは、
拍子を取るのは騒がしい
まるで、酔った者が足もとをふらつかせるかのように。けれど星晶は倒れることなく、揺らぎを遠心力に変えて大きく回る。
身体を斜めにしながらゆらゆらと回る姿は、勢いを失った
「《
正解を呟いたのは、誰だったのか。
軽やかなようで危うく、けれど倒れそうなほどに身体を傾けても、必ずふわりと起き上がる──人の重さを備えた手足が舞うとは思えない、仙女が戯れに地上に遊びに降りたかのような舞を前に、よそ見をするなんて許されないから分からない。
《
危うい回転を繰り返すたびに、
長くしなやかな腕が操る
「
「うん。信じられない。来て良かった……」
燦珠がしみじみと呟いたのに対して、傍らにいる喜燕が大きく頷く気配が伝わってきた。
大柄な
《
星晶は女の姿で舞っているのに、回転の一瞬の合間に目が合うと、どきりとしてしまう。涼やかな流し目に、心臓を貫かれたようで。彼女の視線を受けた者は皆、同じ思いを味わっているのことだろう。
ちらりと上座に目を向ければ、陽春皇子は完全に手を止めて舞に見入っている。星晶が言った通り、もはや酒を呑むどころではないようだ。
(酔いも醒めたでしょうね!)
勝手に得意に思いながら、燦珠は最後の瞬間まで、星晶が呼び起こした花の香を──それに似た清涼な空気を堪能した。酒宴の熱気に当てられた身体に、
「そなた──こちらへおいで。近くで話がしたい」
まんまと釣りに成功したのを知って、星晶は
「まあ、光栄でございます。──この衣装ではお酌もできませんから、侍女も参ってもよろしいでしょうか」
星晶の、淑やかで優しい声音を聞くと、燦珠でさえもうっとりとして頬が熱くなってしまう。涼やかな舞で醒めたはずの高揚が、瞬時にして蘇る。きっと皇子も同様だったのだろう、焦れたような性急な声が、重ねて美姫を呼ばわった。
「無論だ。さあ、早く……!」
侍女姿の燦珠と喜燕を従えた星晶が近づくと、けれど陽春皇子は整った顔を軽く顰めた。
「なんだ、意外と大きいんだな」
燦珠は、思わず首を横に向けて喜燕と目を見交わしていた。喜燕の目に一瞬だけ鋭く浮かんだ険を見て、まったく同じ憤りを抱いたのが分かる。星晶の舞を見た後で、その麗しい微笑を間近にして、背丈を気にするなんてつまらない男だ。
「お恥ずかしいことでございます。このような女はお嫌いでしょうか……?」
当の星晶は、慌てた様子もなく健気に俯く演技を見せているけれど。凛と咲いた花が萎れる風情に、皇子も心動いた様子だったけれど。
「いや……。まあ、座れば構わぬか。ひとりで舞ったのはその背丈ゆえか? 苦労しているのだろうな?」
「ええ、はい……どうしても、ほかの者から浮いてしまいますので」
「だが、だからこそ私の目に留まったのだ。気を落とす必要はないぞ」
そして恐らく、彼があり得ない失言を漏らしたことにも。怒りよりも呆れが先に立って、燦珠は心の中で溜息を吐く。
(これさあ、もう偽物で決まり、で良いんじゃないの……?)
本物の陽春皇子は秘華園育ちなのだ。長身の
女は本来舞台に立たず、男を演じることはさらにあり得ないと思い込んでいるなら──それは、市井で生まれ育った者の発想に違いない。
燦珠も喜燕も、そして恐らく星晶も、同じく確信を抱いたはずだ。けれどあいにく、小娘たちの心証なんて裁きの場では何の役にも立たないのだ。
(もっと決定的な証拠が必要、なのよね)
大それた偽物の正体を暴いて尻尾を掴むべく、燦珠はほかのふたりと頷き合って陽春皇子を取り囲むように侍った。
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