第4話 酔芙蓉、清らに香る

 《掲露狐精ジエルーフージン》がかもした熱気は、花庁きゃくま全体を酔わせたかのようだった。


 透かし格子の窓から漂うひんやりとした春の薫風も、すぐに花の香りだけを残して熱に散らされる。贅を極めた装飾の室内には、瞬きしてもいまだひるがえ水袖シュイシウや閃く白刃の残像が閃いているかのよう。

 出番を待つ戯子やくしゃたち、出番を終えてなおに近づく機会を待っている者たちも、酔ったように頬を紅潮させて浮ついた声で囁き合っている。


(そうね、確かに酔い覚ましは必要そうね!)


 喜燕きえんと並んで、伶人楽師役の宦官たちがいる席に向かいながら、燦珠さんじゅは思う。


 仙狐の舞も、息の合った龍套ぐんぶたいも見事だった。


 でも、この場の雰囲気は燦珠にはあまり感心できない。彼女は、妓楼で演じてみないかという誘いを断ったことが何度もある。舞手の技量よりも容姿や身体つきを見るの空気と、この場のそれに通じるものを感じてしまっていとわしいのだ。


 爛れた空気の源は、高みから戯子やくしゃを見渡している陽春ようしゅん皇子だろう。

 皇帝でない癖になぜか後宮にいる男で、しかも皇帝と違って華劇ファジュ秘華園ひかえんに甘い──と、期待されている。

 媚びて、取り入ろうとする者と、それを品定めする者。その両方がいるからこそ、酒よりも質の悪い何かしらの淀んだ気配が花庁きゃくまにとぐろを巻いているのだろう。


しゃ貴妃きひ様のお話だと、あの人は用が済んだら消されてしまう、って……気付いていないのかしら? 逃げる手立てをもう考えているの……?)


 の放蕩ぶりが、燦珠には今ひとつよく分からない。

 万が一本物の皇子だとしても、後宮の本来の主である皇帝の神経を逆撫でるような振る舞いが、どうしてできるのだろう。皇族の詐称だけでも大罪なのだし、露見する前に楽しんでおこう、とか? 絶対に露見しないという自信があるとか?

 いずれにしてもまともな神経ではないのだから、考えるだけ無駄なのだろうけど。とにかく──


「──お願いできるかしら?」


 星晶せいしょうに耳打ちされた演目を継げると、伶人楽師たちは喜んで頷いた。


「ふむ、良い趣向だ」

「我らは休憩になるの」


 京胡きょうこ月琴げっきんを構え直す者がいる一方で、武場だがっきの担当の者は楽器を手放して肩を回している。そう、賑やかな演目が幾つも続けば、演者も観客も耳が疲れてしまうだろう。


「きっと良い舞ですから、よく見ていてくださいね」


 喜燕が宦官たちに微笑みかけた時──花庁きゃくまを満たすざわめきが、水を打ったように静まり返った。


 舞い終えた仙狐たちがはけた後に、星晶がひとり、進み出たのだ。屋根の下にも関わらず、月の光が彼女だけに降り注いでいるかのような清雅な立ち姿は、おのずと人の目を惹き付け、息を呑ませる力があった。


 胸を締め付けるような、畏れにも似た期待に張り詰めた空気を震わせるのは、京胡きょうこの高く嫋々じょうじょうとした調べ。

 拍子を取るのは騒がしいシンバル単皮鼓たんぴこではなく、月琴げっきんの弦を弾く、柔らかく低い音。熱気で蒸された花庁きゃくまに吹き込む涼風のような楽に合わせて──星晶のしなやかな肢体が、ゆらり、と揺らぐ。


 まるで、酔った者が足もとをふらつかせるかのように。けれど星晶は倒れることなく、揺らぎを遠心力に変えて大きく回る。

 身体を斜めにしながらゆらゆらと回る姿は、勢いを失った独楽こまを思わせる。独楽こまと違うのは、星晶の回転は止まるどころか滑らかに緩やかに途切れることなく続いていくところだ。その独特の動きは、華劇ファジュに習熟したこの場の者ならすぐに分かるはず。


「《酔芙蓉ズイフーロン》……」


 を呟いたのは、誰だったのか。


 軽やかなようで危うく、けれど倒れそうなほどに身体を傾けても、必ずふわりと起き上がる──人の重さを備えた手足が舞うとは思えない、仙女が戯れに地上に遊びに降りたかのような舞を前に、よそ見をするなんて許されないから分からない。


 《酔芙蓉ズイフーロン》は、そもそもは時と共に色を変える花の姿を、美姫が酩酊する様に重ねた演目だ。けれど、今の星晶が舞うのは、優美なひだを持つ花弁を綻ばせる酔芙蓉すいふようの花そのもののようだった。


 危うい回転を繰り返すたびに、スカートの裾が波の軌跡を描いて躍る。鮮やかな紅色の生地は、中空で透けると朝焼けや、桃の花霞はながすみの色にも様を変える。

 長くしなやかな腕が操る水袖シュイシウは、ひるがえるたびにその先々で花の蕾を綻ばせる。そのように、見る者に幻視させる。その花はきっと、おりのように漂う酒や、肴の脂の匂いを洗い流す、爽やかな香りを振りまくのだろう。


反串ファンチュアンで、こんなに綺麗に舞えるなんて」

「うん。信じられない。来て良かった……」


 燦珠がしみじみと呟いたのに対して、傍らにいる喜燕が大きく頷く気配が伝わってきた。


 反串ファンチュアンとは、役者が得意とする役柄とは別の役を演じることを指す。

 大柄なごうけつ役の役者がしとやかなおんなやくに扮したり、軽妙な動きで笑いを取るどうけ役が、真面目な顔で老生がくしゃを演じたり。無理があるのは客も承知で、役者が慣れない所作に苦戦したり、本来の役柄が垣間見えたりするおかしさを楽しむための余興の趣向だ。


 《天一涯ティエンイーヤー》で喜燕が志勇しゆう将軍を演じたのも、一種の反串ファンチュアンに当たるだろう。あの時は燦珠も舞っていたから見蕩れるどころではなかったけれど──今は、思う存分観客に徹することができる。


 星晶は女の姿で舞っているのに、回転の一瞬の合間に目が合うと、どきりとしてしまう。涼やかな流し目に、心臓を貫かれたようで。彼女の視線を受けた者は皆、同じ思いを味わっているのことだろう。

 ちらりと上座に目を向ければ、は完全に手を止めて舞に見入っている。星晶が言った通り、もはや酒を呑むどころではないようだ。


(酔いも醒めたでしょうね!)


 勝手に得意に思いながら、燦珠は最後の瞬間まで、星晶が呼び起こした花の香を──それに似た清涼な空気を堪能した。酒宴の熱気に当てられた身体に、玻璃はりの器で甘く澄んだ冷水を差し出されたかのような──そんな、心洗われるような清々しいひと時を。


 京胡きょうこの調べが鳴り止んで、星晶の水袖シュイシウが床に垂れ落ちると──の掠れた声が、代わりに響いた。舞が終わるのを、待ちかねていたかのように。


「そなた──こちらへおいで。近くで話がしたい」


 まんまとに成功したのを知って、星晶は水袖シュイシウで口元を覆った陰で会心の笑みを浮かべたようだった。


「まあ、光栄でございます。──この衣装ではお酌もできませんから、侍女も参ってもよろしいでしょうか」


 星晶の、淑やかで優しい声音を聞くと、燦珠でさえもうっとりとして頬が熱くなってしまう。涼やかな舞で醒めたはずの高揚が、瞬時にして蘇る。きっとも同様だったのだろう、焦れたような性急な声が、重ねて美姫を呼ばわった。


「無論だ。さあ、早く……!」


 侍女姿の燦珠と喜燕を従えた星晶が近づくと、けれどは整った顔を軽く顰めた。


「なんだ、意外と大きいんだな」


 燦珠は、思わず首を横に向けて喜燕と目を見交わしていた。喜燕の目に一瞬だけ鋭く浮かんだ険を見て、まったく同じ憤りを抱いたのが分かる。星晶の舞を見た後で、その麗しい微笑を間近にして、背丈を気にするなんてつまらない男だ。


「お恥ずかしいことでございます。このような女はお嫌いでしょうか……?」


 当の星晶は、慌てた様子もなく健気に俯く演技を見せているけれど。凛と咲いた花が萎れる風情に、も心動いた様子だったけれど。


「いや……。まあ、座れば構わぬか。ひとりで舞ったのはその背丈ゆえか? 苦労しているのだろうな?」

「ええ、はい……どうしても、ほかの者から浮いてしまいますので」

「だが、だからこそ私の目に留まったのだ。気を落とす必要はないぞ」


 華麟かりんが見たら発狂しかねない馴れ馴れしさで、は星晶の肩を抱き寄せた。過分の厚意を見せたつもりなのか──星晶の目が怖いくらいに冷え切っているのには気付いていないようだ。

 そして恐らく、彼があり得ない失言を漏らしたことにも。怒りよりも呆れが先に立って、燦珠は心の中で溜息を吐く。


(これさあ、もう偽物で決まり、で良いんじゃないの……?)


 本物の陽春皇子は秘華園育ちなのだ。長身の戯子やくしゃを見て女生おとこやくではないかと考えのは、あまりにも不自然だ。いくら幼くても、苦労したとしても、隼瓊しゅんけいを忘れるはずがないのだから。


 女は本来舞台に立たず、男を演じることはさらにあり得ないと思い込んでいるなら──それは、市井で生まれ育った者の発想に違いない。


 燦珠も喜燕も、そして恐らく星晶も、同じく確信を抱いたはずだ。けれどあいにく、小娘たちの心証なんて裁きの場では何の役にも立たないのだ。


(もっと決定的な証拠が必要、なのよね)


 大それた偽物の正体を暴いて尻尾を掴むべく、燦珠はほかのふたりと頷き合ってを取り囲むように侍った。

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