六章 権謀術数、饗宴を為す

第1話 星晶、密かな願い

 渾天こんてん宮の片隅で一夜を過ごすことを許された翌朝──東の空にまだ朝焼けが残る早朝に、燦珠さんじゅ喜燕きえん秘華園ひかえんへと駆け戻った。

 なお、皇帝と香雪こうせつに挨拶に上がった時、ふたりは既に着替えて洗顔や化粧も終えていた。名残を惜しんで政務を疎かにして官を嘆かせる、とかは華劇ファジュの筋書きにしかないのかもしれない。たぶん、ふたりともが真面目かつ潔癖な人柄だからだと思うのだけれど。


 そして、朝の早さは秘華園においてもさほど事情は変わらない。

 無言の掟が支配する後宮の通路から、戯子やくしゃの園に足を踏み入れると、すぐにあちこちから喊嗓子はっせいれんしゅうの声が響いてきた。舞やたちまわりの練習も始まっているのだろう、衣装の裾が風を切る音、くつが床を擦る音も。


 そんな中で、燦珠たちが求める相手を探すのは簡単だった。そう隼瓊しゅんけいは、ある練習場で星晶せいしょうを相手に稽古をつけているところだったのだ。


 稽古を中断させる非礼を詫びてから、燦珠は昨夜あったことを報告した。偽の陽春皇子が語る出自のこと、役者崩れならば彼女の父の人脈で身元を辿れるかもしれないこと。


(星晶は──しゃ貴妃きひ様のお耳に入っても大丈夫よね。どちらにもくみしないと仰っていたもの)


 謝貴妃華麟かりんは、皇帝が欺瞞を暴くことを望んでいる風でさえあった。だから、燦珠の行動をあえて妨げることはしないだろう。


「──という訳なので、栴池せんち宮に参上したいと思います。つきましては、隼瓊老師せんせいにお許しをいただきたいです!」


 を偽物と断じる隼瓊は、彼の機嫌取りに栴池せんち宮に集まる戯子やくしゃを快く思っていない。主である妃嬪ひひんの命ならまだしも、己の判断で行った者にはもう教えないとさえ公言している。


(でも、理由があれば話は別、よね……!?)


 きょう驪珠りじゅの子の名を勝手に利用されることに、隼瓊も憤っているのだろうから。陰謀を暴く策の一環としてなら、きっと認めてくれると思ったのだけれど──


「それはできない」


 例によって年齢を感じさせないすらりとした体躯たいくを、簡素な上衣と褲子ズボン短褐じょうげに包んだ隼瓊は、あっさりと首を横に振った。


「え──」


 にべもない返事に一瞬だけ絶句してから、燦珠は慌てて食い下がった。真意がちゃんと伝わっていないのか、あるいは実力が足りないと思われていないのかと疑って。


のために唄ったり舞ったりする訳じゃないんです。あくまでも、情報を集めるためで……! あの、私じゃ色気が足りないですか……? 何か、演じてみますか!?」


 後宮内での移動にあたって目立たないように、今の燦珠は娘らしく短い対襟の襖衣うわぎ馬面裙スカートを合わせている。

 舞踊には向かない格好ながら、説得に必要ならと腕まくりをしようとした燦珠を、けれど隼瓊はそっと手を伸ばして止めた。


「そのようなことは──多少は、あるが。そなたは男の気を惹くつもりで舞ったことはないだろうから。だが、そなたならばそのように演じることは難しくないだろう」


 技量を認められたことにひとまず安堵しつつ、許可が下りない理由を判じかねて燦珠は首を傾げた。残る理由として考えられるのは──彼女の身を、案じてくれているのだろうか。


「危険も、承知の上です。悪いことに芝居を利用しているなんて……! 戯子やくしゃも何かしないと、天子様の印象が悪くなってしまいます!」


「そう……誰も、可愛い娘たちを餓狼がろうの餌食に差し出したりするものか。そこももちろん、懸念している。そして一方で、そなたの言う通り、秘華園の姿勢が問われる事態であること、手段を選んでいられぬことも分かっている」


 燦珠の考えは、半ば当たって半ば外れていたようだった。隼瓊は、危険を軽視してはいないけれど、必要なことだと理解してくれている。戯子やくしゃの面子に対する危機感も、燦珠と共有してくれているようなのに。


「陽春は、本当に利発で愛らしくて……。皇后様の膝にいても、驪珠りじゅや私を真似て唄っては舞おうとしていた。帝位を狙うはずなどなかったのに。あの子の名を汚されること、私としても耐え難い……!」


 ……それに、整った唇の間から漏れる呟きは、こんなに悔しそうなのに。彼女にとっては、これはただの陰謀ではない。亡くなった子供の死体を掘り起こして操り人形に仕立てるようなひどい侮辱のはずだ。


「じゃあ、どうして──」

「そなたは目立ちすぎている。選考の時も、《鳳人ファンレン相恋シャンリェン》の時も。日常の稽古の時でさえ、盗み見ている者が絶えない」

「え、そうなんですか!?」


 焦れて、地団太を踏みかけていた燦珠は、思わぬことを聞かされてきょとんと目を瞬かせた。


(うーん、《鳳人ファンレン相恋シャンリェン》だけなら、俊扮けしょうをしていなければ大丈夫って言えたんだけど……)


 いつもの稽古も見られているなんて気付いていなかったし、そもそも想像だにしていなかった。まあ、それくらいなら燦珠だって父の弟子たちに対してしていたし、隼瓊にしても咎めていなかったのかもしれない。

 でも──それなら確かに、彼女の面は割れている、のだろうか。


「陥れるまではいかずとも、競争相手は気になるものだ。──だから、そながた栴池せんち宮に潜入しようとすれば即座に露見する」

「あの、では私が行きます。私なら、燦珠ほどは目立っておりません」


 喜燕がすっと手を挙げると、隼瓊は彼女の顔をしげしげと眺めてから軽く頷いた。


「そうだな。喜燕ならまだ安心かもしれぬ。あるいは、信頼できる子を選んで声を掛けるか──」

「でしたら、私ではいけませんか?」


 でも、この場にはもうひとり聞いている者がいたのだ。涼しげな声がさらりと割って入るまで、きっと誰もが忘れていたのだけれど。だって、宴席で男に取り入ろうという話題だから、を意識していなかったのも無理もないはずだった。


「星晶……! でも、貴女──」

「私も、女だよ? こんななりでもね」


 髪を男のまげに結った星晶は、いつもの凛とした、貴公子の佇まいで爽やかに笑う。燦珠と喜燕、それに隼瓊さえ驚かせたのを、誇るかのように。

 一応は内密の話を憚ってか、少し離れた場所に下がっていた星晶は、長い脚を踏み出して隼瓊の前に進むと、首を傾げた。


「私が女の姿をすれば、誰も気づかないのではないでしょうか」

「それは……そう、かもしれぬが。華麟かりん様が何と仰るか」


 しきりに瞬きをした隼瓊は、星晶がした姿を思い浮かべようと苦労していたのだろうか。燦珠も同じ思いだったから、混乱するのも分かる気がする。

 初めて出会った時以来、星晶はあまりにも自然に格好良かったから、つい、本当の性別を忘れてしまう──というか、彼女は単純にひたすら綺麗な存在で、男とか女とか考えていなかった、というほうが正しいだろうか。


「説得します。たっての願いだと、おねだりすれば聞いてくださると──寵愛におごって良いと思っています」


 とにかく、晴れやかに笑う星晶は、これまで見た中でも一番綺麗な表情を浮かべていたかもしれない。

 きっと、彼女だって芸が無力であることに悩んでいた。主の表情を本当に晴れさせることができないのを、憂えていた。だから、できることがあるかもしれないと知って奮い立ったのだろう。


「私だって、一度は女を演じてみたいと思っていたんです」


 あるいは、頬を染めて悪戯っぽく呟いたのが本音なのか。いずれにしても、またとない心強い味方が現れたのだ。

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