第5話 霜烈、春を嘆く
恐らくは初めて
そしてすぐに、
「
「燦珠を秘華園に入れたっていう人?」
だから、霜烈は喜燕と星晶にとってはすでにちょっとした有名人だったのだ。後宮の
「そう! 綺麗でしょう?」
「うん、とても。あんな
喜燕が無言で大きく何度も首を上下させ、星晶が溜息と共に呟くのを聞いて、燦珠は胸を張る。
(ほら、言った通りじゃない!)
霜烈の美貌は、もちろん何ら彼女の手柄ではないけれど。ふたりが見蕩れているのがなぜか我がことのように得意で嬉しくて、燦珠は胸を張った。
当の霜烈は、目の色を変える娘たちの
「娘たちがいるとは聞いておりませんでしたが」
「言っていたら、そなたは来てくれなかっただろうからな」
とても綺麗な顔の霜烈が、じっとりと睨むとたいそうな迫力だ。なのに隼瓊はまるで動じず、それどころかにこやかに微笑んで応じた。
「燦珠と喜燕が《
「お手本──もしかして、楊奉御がやってくれるんですか!?」
そこまで聞いて、黙っていることができなくて。燦珠は思わず、霜烈の前に進み出ていた。
(やっぱり! この顔と声で芝居をやらないなんてもったいないと思ってたのよ!)
いずれにしても、絶対に見逃しても聞き逃してもならない一幕に違いない。燦珠が期待に目を輝かせ声を弾ませると、霜烈はいっそう顔を顰めた。
「手本など──」
「では、先日の《
そう──あの後、確かに霜烈は燦珠と星晶の舞を褒めて、労ってくれた。即興で歌詞も振り付けも変えたのに見事だったと、
その時の彼も、いつもの黒衣姿だったけれど、眩い笑顔は大輪の花が綻ぶように美しくて燦珠を見蕩れさせたのだ。
(あんなに褒めてくれたんだから、ね……?)
熱いおねだりの視線で見つめる燦珠を見ない振りで、霜烈は隼瓊に対してだけ抗議した。
「それではなおのこと、下手な
けれど、隼瓊は何も言わずに彼の目を燦珠に向けさせた。ここぞとばかりに、「そんなことないから、良いからやって!」の一念を込めて、笑顔で圧を加える、彼女のほうへ。
「…………」
何か言おうと口を開きかけ──そして、霜烈は諦めたように目を伏せた。それでも、顔も言葉も、燦珠ではなく隼瓊だけに向けるのが彼の意地らしい。
「《
「ああ。
《
(
どんな手本を見せてくれるのか、と。
浮き立つ思いに駆られて、燦珠は跳ねるように壁際に下がった。喜燕と星晶も彼女に続いて、そして、代わって霜烈が練習場の真ん中に進み出る。
黒一色の装いに、密やかな足取りは後宮を行き交う宦官のそれでしかない。
(でも、楊奉御はとても綺麗だし)
想像で補うのに苦労はないだろう、と。燦珠は安心して彼の姿を眺めていた。
でも──霜烈が手を目の高さに掲げた瞬間に、ぞくりと寒気に似た感覚が背筋を走る。
(……え?)
霜烈の視線が、壁に並んだ娘たちを撫でる。燦珠の心臓に、切ない痛みを残しながら。
その痛みの源は、憂いと悲しみ。孤独と
水が忍び寄るように、手足を絡め取って息を詰まらせる。観客を
別来幾春未還家 何度春を過ごしても貴方はまだ還らない
高く通る、澄んだ声だ。男の役者でも裏声で唄うものではあるけれど、宦官であるゆえか、霜烈の声はさらに高く、よく響く。
それでいて込められた情感はどこまでも暗く低く地を這うようで、「妻」の重く寂しげな溜息が耳元に聞こえるよう。美しい
今年又落櫻桃花
起き上がる気力もなく寝台に寝そべり、結わないままの髪をかき上げる女の姿が、確かに見える。霜烈の髪はしっかりと結われて
額に垂れる髪の間から覗く目には、きっと薄桃色の
再開錦字書、只使人嗟 大事な手紙を読み返しても、嘆きは深まるばかり
身体の前に差し伸べた手は、書簡の微かな重みがそこにあるのをありありと表現していた。わずかに伏せた目に宿る狂おしさが、夫からの一字一字を食い入るほどに見つめているのだと伝えてくる。
胸にかき
風兮風、為我吹使他再還 風よ風よ、あの方を私のもとに還しておくれ
決して、声を張り上げた絶唱ではない。けれど、なんて深く聞く者の心に刺さる
遥かな空に祈り、訴え、
旅路に
霜烈が唄い終わっても、しばらくの間、誰も何も言わなかった。
「……すごい」
そう呟いたのは、誰だっただろう。
喜燕か星晶か、それともどちらかが漏らした溜息に込められた思いを、言葉として認識しただけだったのかも。
とにかく、それを聞いてやっと、燦珠は動くことを思い出した。
「なんで──」
口を開いて、霜烈のほうへ足を踏み出す──と、なぜか彼の姿がぐにゃりと歪んだ。
溢れるほどの涙が込み上げていたのにも、気付いていなかったのだ。それほどに惹き込まれて、聞き惚れていた。
(ずるいわ、ひどいわ……!)
美貌と長身と美声に加えて、演技の才にまで恵まれているなんて。こんな素晴らしい
感動と羨ましさと、少しばかりの憤りの涙を流しながら、燦珠は霜烈に詰め寄って問い質す。
「なんで黙ってたの!? そんなにすごいのに! ねえ、
「お、お願いします! できるなら……!」
絶対にまだ隠し玉があるだろう、と。霜烈の胸倉を掴む勢いの燦珠に釣られたように、喜燕も進み出た。目元を
「あまりの熱意だから余芸を見せただけのことだ。つまらぬものを見たがるよりは、しっかり隼瓊
けれど、霜烈はするりと燦珠の手から逃れてしまう。そのしなやかな身のこなしからして、絶対に
つい先ほどまで目眩がしそうな色気を漂わせていた癖に、もういつもの涼しげな表情に戻って、しかつめらしく忠告してくるのも何だかひどい。
「つまらないだなんて……! そんなことを言われては、私たちの立場がありません!」
星晶も、黙っていられないのだろう。きっ、と霜烈を見据える眼差しの鋭さは、凛々しく勇敢な
「私は、隼瓊
けれど、霜烈は、微苦笑と共に隼瓊に目礼して、
弟子ではない、なんて言ったのに──霜烈に向けて頷いた隼瓊は、確かに教え子に対する
「良い手本だったと、誇らしいが──満足していないようだな」
「このていどで、どうして思い上がることができましょう。私は、
「それは、まあ……相手が悪いが」
ふたりの関係を探ろうと、興味津々で耳を澄ませていた燦珠は、いっそ憤然として言い切った霜烈の態度に目を剥いたし、諦めたように肩を竦めた隼瓊に口をぽかんと開いた。
(嘘……
ふたりとも、大真面目に言っているとしか聞こえなかった。あれを越える声や演技の人がかつていただなんて。それこそ今生きている
「付き合わせてすまなかったね。下がってよろしい。──また、後で」
宥めるような笑みを浮かべた隼瓊に言われて、霜烈は無言で一礼すると退出していった。残された娘たちは、やはり無言のうちに慌ただしく視線を交わす。
後で!? 後でってどういうこと!? の意味だ。むろん、隼瓊に直接尋ねる蛮勇をふるえる者は誰もいなかったけれど。
「……昔から
「そう、なんですか……」
娘たちの浮足立つ様子が見えたのか、隼瓊はごく端的に教えてくれた。時々教わったくらいであれほど唄えて演じられるものなのか、はなはだ疑問だ。というか、そんなことはあって欲しくない。
(……楊奉御ってものすごい天才なの? それとも、こっそりみっちり稽古をつけてもらっていたのかしら……?)
後宮の現状に心乱れて練習どころではなかったのは、つい先ほどまでのこと。霜烈の
喜燕も星晶も、目を潤ませて頬を上気させて、心ここにあらずの様子だからきっと同じ思いだろう。今夜は三人して夜更かしすることになりそうだった。
──と、注意散漫な弟子たちを、隼瓊は軽く手を叩いて飛び跳ねさせた。彼女たちが背筋を正したところで、ようやく今日の稽古が開始となるようだ。
「あの子はああ言っていたが、とても参考になったろう? 燦珠は、あの憂いと恋慕を目標にしなさい。喜燕は、遠方の妻があの表情で待っていると思って演じるように」
そうだ、あれを見た後なら、
(思いっきり糧にしてやるわよ!? つまらないだなんて、言わせないんだから……!)
より美しく、切なく、見る者の涙を誘うような──そんな演技で皇帝と
「はい!」
ふたりして同じことを考えたのだろうか。燦珠と喜燕の力強い返事が、重なった。
* * *
霜烈が唄った詞は、李白の作品を参考にしております。
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