第3話 喜燕、正しくあるために
「わたくしは──皇帝の
建物の造りについて、
(なのに、なんで……?)
どうして、喜燕は
喜燕に過分の名誉を与えたのは、沈昭儀だ。皇帝を陥れる陰謀を目の当たりにして、臆しながらも正しくあろうとする綺麗な御方。白菊のようなその姿も、心の在り方も。
「わたくしは、ほかの方にお仕えする気はございません。万が一にも皇宮を去られるのでしたらお供します。たとえ
そこまで強く言い切ってから、沈昭儀はふわりと左右に視線を彷徨わせた。
左右──つまりは、燦珠と喜燕へ。謝貴妃に対しての毅然としたもの言いとは打って変わって、
「もしもの時は、燦珠と喜燕のことを華麟様にお願いできますでしょうか。こういう時はどのようにすれば良いのか──あの、一筆
謝貴妃の忠告は順当なものに聞こえたのに、沈昭儀は聞き入れるつもりはないようだった。大輪の牡丹を思わせる謝貴妃の表情が悲しげに曇り、大きな目が悲しげに伏せられた。
「分からないわ。わたくしは、星晶を誰かに委ねるなんて考えたこともなかった。でも……ええ、香雪様がそう仰るなら、必ず……!」
* * *
永陽殿を辞した沈昭儀は、
燦珠と喜燕は、徒歩だ。日ごろから鍛えている身には歩くのは何らの苦ではないけれど、ただ、帯から提げた
隣を歩く燦珠が、喜燕にもの言いたげな眼差しを向けてくる。後宮はそもそも
視線で応えてあげれば良いのかもしれないけれど、喜燕の頭は考えごとでいっぱいだった。
彼女が知る、ふたりの貴妃の違い。さらにそのふたりと沈昭儀の違い。後宮と秘華園の今後に、喜燕自身の行く末。いくつもの像が頭の中でぐるぐると混ざりうねり──浮かび上がるのは、あの舞台の翌日の記憶。
翡翠の花のとろりとした艶に、ひやりとした冷たさ、精緻な花弁の細工は喜燕が焦がれたものだった。けれど、手にして良いものだとは思えなかった。
彼女は秘華園で何ら芸を披露した訳ではない。隼瓊は徳高いと評してくれたけれど、そんな言葉が相応しくないのは自分が一番よく知っている。
『
『私は、そなたの師、
瑛月からの密命を、さらに遡って
『白老師の教えに想像がつくからこそ、そなたが為したことを尊いと思う。今、私に打ち明けようとしていることそれ自体も』
『そんな……』
男装姿で、微かな笑みを浮かべた隼瓊は、五十前の婦人とは思えないほど凛々しく美しかった。
その姿も語ることも眩しすぎて、汚い喜燕を消え入りたい思いにさせた。けれど、隼瓊はすぐに笑みを消して小さい溜息をこぼした。
『これから騒がしくなりそうだ。正直に言って、余計なことは聞きたくない。沈昭儀の御心を慰めるのに専心して欲しいのだが──そうもいかないか』
そう──確かに。「
皇子の帰還から一夜明けた時点でも、
(私のことなんて、考えてる場合じゃないんだ)
優れた
『申し訳ございま──』
『では、私の
居たたまれなさを感じながら、喜燕が引き下がろうとした時──けれど、彼女の手に温かいものと冷たいものが同時に触れた。
前者は隼瓊の手、後者は隼瓊の
いずれも畏れ多くて、悲鳴を上げて放り出そうとしてしまった。繊細な翡翠の細工を投げ出さずに済んだのは、隼瓊の指がしっかりと彼女のそれを捕らえて離さなかったからだ。
隼瓊は、喜燕の指を導いて
(何か刻まれている……文字……?)
名高い
喜燕の目に疑問が浮かんだのを読み取ったのだろう、隼瓊は軽く頷いた。長い指先が翡翠の花を裏返すと──そこに刻まれているのは、
『
先帝からの
元通りに隼瓊の
(白
白秀蘭がその名誉に浴していたなら、必ず喜燕たち教え子に誇っていたはずだ。ならば、あの女は秘華園の本当の頂点に立つことはできなかったのか。
(自慢……じゃない、と思うけど)
宋隼瓊と白秀蘭は、どうやら不仲なようだ。とはいえこの流れでただの自慢話をする必要もないし、何より隼瓊はそういう人ではないだろう。
では、これも何らかの教えなのだろうか。
新しい師の答えを待って喜燕が居住まいを正したのを見て取ってか、隼瓊は満足そうに微笑んだ。
『燦珠も星晶も、今の子たちが持つ
(私は、徳高くあらねばならない。正しい振る舞いをしなければならない)
かつての喜燕の主、趙貴妃瑛月は正しくないのだろう。あの御方は、燦珠を陥れることを指して余興と言ったから。
つまりは、より主となる演目──陽春皇子の帰還──があるのをあらかじめ知っていたのだ。ならば「陽春皇子」その人も、彼におもねる
静観を決め込む謝貴妃華麟は──賢明ではあるのかもしれない。けれど、正しくなければならない喜燕にはそのように半端な振る舞いは許されないだろう。だから──
(沈昭儀様にお仕えできて良かった。優しいだけでなく、今の後宮で誰よりも心正しい方……!)
この方のために演じることができたなら、少しでも慰めになれたなら。
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