第2話 燦珠、厳しい現実
牡丹のようなふんわりとして華やかな美貌には、
けれど、彼女が
(やっぱり、大変なことが起きているんだわ)
燦珠と
あれから十日ばかり、
この間に香雪が皇帝に召されたのもただの一度だけだ。至尊の御方でさえ、愛する女に会うのも
(すべては、『
伝説の
行方知れずだった御方が生きていて良かった、なんて言っていられる事態ではないのだけは、承知していたけれど。
「香雪様。ご機嫌は──麗しくないのでしょうね」
「謝貴妃様──華麟様。お伺いしたいことがあって参りました」
香雪の声も、いつになく硬い。燦珠たちが窺えるのは、彼女の
そもそも、
震えていながらも、香雪の声音は確実に詰問の調子を帯びていた。
「以前、何があっても仲良くしてくださると仰ってくださいました。あれは──何が起きるかをご存知だったからなのですか……!?」
挨拶も忘れるほどの動揺ぶりが痛ましくて、燦珠はそっと喜燕と視線を見交わした。
いつも通りの男装で、華麟の隣に控える星晶も、きっと彼女たちと同じ思いだ。
「まさか……!」
そう──華麟も心を痛めている、と見えた。細い首が激しく振られ、紅い唇が苦々しげに歪んで、強い言葉を吐き捨てる。
「あんな馬鹿馬鹿しい茶番を見せられるとは思ってもいなかったわ。あんな、下手くそな上に恥知らずで、皇太后様の御心も亡くなった御方も踏みつけにするような……!」
「華麟様……」
香雪の声がわずかに緩んで、安堵の感情が滲んだようだった。華麟と、あるていどは思いを同じくできていると分かったからだろう。
けれど、背筋の緊張が完全に解けることはない。貴妃でさえも、悔しさを露にすることしかできないのだとしたら、状況の難しさがいっそう突き付けられたことになるからだろう。
「座ってちょうだい。少しでもわたくしを信じてくださるなら、だけど」
燦珠たちも、円い卓を囲んだ
前回は活けた花の代わりに場に彩りを添える存在として呼ばれたのだろうけれど、今回については華麟と香雪の好意による計らいだろう。
事実、華麟は茶で口を湿した後、香雪だけでなく燦珠たちにも等しく眼差しを注いでから切り出した。
「何があっても、というのは……陛下がお志を遂げられないことになっても、というだけのつもりだったわ。分かるでしょう。清く正しいだけでは政は
皇帝の清廉さを嫌う者もいる、ということだろうか。そのこと自体は、分からないでもないけれど──
(天子様に逆らう奴がいるなんて……ううん、いる、んでしょうけど……)
華麟は、以前にも香雪に忠告してくれてはいたのだ。あの時は漠然とした不安を感じただけだったけれど──というか、燦珠は今もなお、何をどう不安に思えば良いのか腑に落ちていないのだけれど。
(そりゃ、
詐称ならすぐに露見するのではないか、とか。その割には「陽春皇子」の機嫌を伺おうとする妃嬪が多いらしい──秘華園の
「
「さすがは香雪様ね。とても、正しいわ」
香雪も抱いているらしい疑問に、華麟は苦い笑みを浮かべながら頷いた。
細い指がくるくると動いて、宙に文字のような図形のようなものを描く。彼女の頭の中では、関係者が配置されているのかもしれない。
「『陽春皇子』を本物として認めさせる。
燦珠と香雪が息を呑んだ一方で、星晶と喜燕はそっと目を伏せている。彼女たちのほうが、権謀術数というものに慣れているらしい。
目を見開いて卓を見渡した香雪は、華麟の説明に納得している者がいるのを悟ったのだろう、白い頬をさらに青褪めさせた。
「畏れ多い企みです。まかり通って良いはずがございません」
「本当に。けれどね、多くの者は自身の損得で考えるのよ」
宥めるような華麟の声は、ひどく弱々しかった。鋭く正しい香雪の視線から逃れるように、彼女は庭園に目を向ける。
貴妃の自慢のはずの庭園は、この間に季節が進んで
華麟の溜息が、冷めつつある茶の水面にさざ波を立てた。
「恐らく、だけど──わたくしたちは今の殿舎を追われることはないわ。何度も妃嬪を入れ替えるのは手間だしお金もかかるし、娘を送り込んだ諸家も納得しない。瑞海王様は、妃嬪の地位と引き換えに支持か、少なくとも黙認を求めるおつもりでしょう」
「天をも恐れぬ大罪を黙認するなど──」
「良くないのは百も承知よ。わたくしだって、どこの誰とも知れぬ男に侍るつもりはないわ。いいえ、わたくしより何より、絶対に星晶を触れさせたりしない……!」
華麟がきっ、と睨んだのは、後宮の東のほうだ。「陽春皇子」は、皇太后の御傍、その方角に起居しているらしい。
十五年振りの帰還を祝って、挨拶に伺う
今上帝の
(どこの誰とも、って……
あの日──皇太后の言動にどこか不安を感じた燦珠は、正しかったらしい。
とても高貴な、けれど老いたあの御方は、夢と現実、望むことと実際に起きたことの区別がついていない。子を思う母──実母ではないけれど──の思いが何より強いのは、
愛し子が手の届かないところに行ってしまったと受け入れるよりは、見目良く成長した姿で目の前に現れてくれたと信じたい、のだろうか。
(とても強く思い込んでしまわれている、のね……誰の忠告も届かないくらい。迂闊なことを言えば皇太后様のお怒りを買ってしまう──そうなることを見越しての芝居だった……?)
皇太后の心を踏みつけにしている、と華麟が憤ったのはそういうこと、なのだろうか。
(芝居を馬鹿にしてるわ……!)
芝居は夢や幻を見せはするけれど、人を欺くことはしないはず。瑞海王とかいうお偉い人は、燦珠たちの舞のすぐ後で、彼女たちの演技もダシに使ってひと芝居打ったのだ。
今さらながらに利用された悔しさと腹立たしさが込み上げて、燦珠は
「……問題はね──」
と、強い口調から一転して、華麟がまた溜息を洩らした。星晶は主に気づかわしげな目を向けているけれど、口を挟むことはできないようだ。政は、
「今、わたくしたちが何をするか、しないのか──よく見られているし忘れられることはないということよ。ことがどちらに転んでも、ね。どうなるか分からないから、わたくしは動いてはならないと言われたわ。最低限、どちらにも
華麟の懇願するような眼差しを、香雪は仮面のような無表情で受け止めた。
美しい
あるいは、皇帝を思って悲しみを湛えているのか──燦珠が香雪の想いを読み取るよりも先に、紅を刷いているのになぜか白く見える唇が、静かに動いた。
「ご忠告は痛み入ります。わたくしのために仰ってくださっていることと、疑ってはおりません」
「
不意に名を呼ばれて、燦珠と、隣に席を占めていた喜燕は小さく跳ねた。
「わたくしも星晶を守りたいの。そのためには付け入る隙を与えてはいけないの。あの……ほら、陛下だってお調べになっているのでしょうし。わたくしたちが何もしなくても、すべて上手く行くかもしれないわ? 嘘が暴かれて、罪人は裁かれて……」
これが
でも、これは芝居ではないのを誰もが知ってしまっている。
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