第一部・下 燦珠、後宮の闇を掃う

五章 皇宮、偽春に惑う

第1話 皇帝、行き詰まる

 十五年振りに後宮に陽春ようしゅん皇子」は、ちゃっかりと皇太后の居所である栴池せんち宮に居ついた。


 今上帝の妃嬪ひひんが主に後宮の西側の殿舎群に住まうのに対して、先帝に仕えた太妃たいひらは東側に退いている。つまりは、死んだはずの王子をかたる詐欺師は、愛らしく利発だったという「陽春皇子」を見知っている文宗ぶんそう帝の太妃たいひに囲まれているということだ。


へのご挨拶に、太妃たいひ様がたは引きも切らず栴池せんち宮を訪れているとのことでございます」


 外朝がいちょう濤佳とうか殿──彼が執務を執り行う場にて、翔雲しょううんは平伏するかい太監たいかんを冷ややかに見下ろした。

 この宦官の立ち位置が奈辺なへんにあるかは、本物と断じられた訳ではない者を敬う口振りから明らかだった。それに、太妃たいひらの思惑も知れている。


「例の戯子やくしゃの面影がある美貌と、口を揃えておいでなのだろうな。昔のことをよく覚えていらっしゃるものだ」


 文宗帝の子を得たもの、得なかったもの。寵愛篤かったもの、薄かったもの。実家の権勢のほど。


 太妃たいひらの立場は様々だが、文宗帝の芝居好きを助長させ、秘華園ひかえんに溺れさせることで利を得ていたという点ではおおむね一致している。


 皇宮育ちではない、よって彼女らにとって縁薄い翔雲よりも、戯子やくしゃ腹の皇子に擦り寄ったほうが得だと考えるのは道理ではあるだろう。愛し子が帰って来たと信じて疑っていない、皇太后の機嫌も取らねばならぬのだろうし。


「陽春殿下は、本当に愛らしい御子でいらっしゃいましたので……」

「それはもう何度も聞いた。宦官ふぜいが後宮から這い出し、ちんの時間を奪う理由に値することか?」


 宦官とは、後宮の所用に従事するための者たちだ。外朝は本来彼らの領分ではない。下働きの奉御ほうぎょなどならまだしも、宦官を統括すべき太監が後宮を離れるのは、怠慢たいまんの謗りを受けかねない。


 皇帝に睨まれて、隗太監は恐懼きょうくの体で肥えた身を縮めた。


「ご不興もまことにごもっとも。奴才わたくしめも、後宮に成人のが長くあるのは不都合なことと存じております」


 男のようでいて男でない存在が上げるいかにも困り切った声音には一切構わず、翔雲は無言で先を促す。

 用があるなら早く言え、と。何かしらの相槌を期待していたらしい太監は一瞬、不自然な間を置いたが、諦めたように言葉を継いだ。


「皇太后様はさぞお寂しいこととは存じますが──にはしかるべき称号と封土をお与えになるべきかと愚考いたします」


 案の定というべきか、隗太監の進言は考慮に値しない類のものだった。

 だが、翔雲が自ら退ける必要はなかった。低い──宦官のそれとはまったく違う、男の声の一喝が轟いたのだ。


「まさしく愚考である!」


 声の主は首輔さいしょうだ。宦官に官の領分を侵されたとでも聞いて、駆けつけたのか。


宸襟しんきんを煩わせるしか能のない佞臣ねいしんめが。く下がれ」


 高い悲鳴を上げた隗太監が、虫が這うような速さで退出すると、首輔さいしょうは翔雲の前に駆け寄りながら膝を床についた。たいそう雑な拝跪の礼は、それだけの危急の事態だと示している。


「陛下。かの者を王にほうじるなどあり得ませぬ。どこの馬の骨とも知れぬ下郎を皇族に数えるなど、末代までの──」

「当然だ。万が一にもそのようなことをすれば、何が起きるか見えている。とたんに国中に瑞兆ずいちょうが満ちるのであろう。ちんの時と同じようにな!」


 先帝文宗の皇子が次々とたおれるのを見て、皇族男子から皇太子が選ばれるのを予期した父興徳こうとく王は、長子である翔雲に自らを律するように命じた。

 彼はかねてより文武に秀でているとの評判が高かった。皇帝と後宮の退廃にんだ諸官は、次は英邁な主君を望むだろうと父は考えたのだ。


 事実、翔雲は自らの評判によって玉座に登った。とはいえ、皇帝の実子でない身がそこに至るにはそれなりの手順が必要だった。諸官や諸侯の推挙──と、謙遜を示すための形ばかりの固辞──に加えて、天も彼をよみしているのだというが。


 空を覆う彩雲さいうん、光輪を纏う太陽に、白い羽根や毛皮の鳥獣。本物か否かはさほど問題がなかった。ならばも同じ手を使えるということだ。


(『陽春皇子』の帰還と同時に瑞兆が続けば、今度はかの者こそが帝位に相応しいと言い出すのだろう……!)


 人が作り上げた瑞兆に、けた老女の妄想に。そんなもので帝位が左右されるのは愚かしく、けれどその愚かさを利用して帝位を得た彼には建前の重要さもよく理解している。盾として利用されれば、いかに厄介になるのかも。


「陛下は血筋正しく栄和の国を統べるに相応しい才気をお持ちの御方。ようやく主上しゅじょうと崇められると思いましたものを……!」


 首輔さいしょうの歯軋りは、要はやっとまともな皇帝をいただけたのに、ということだ。担ぎ上げられた翔雲以上に、担ぎ上げた者たちの苦労も忍耐も一入ひとしおだろう。


 外朝がいちょうの諸官は彼を支持する者も多いというのは、とりあえずの慰めではある。翔雲は溜息を堪えて為すべきことを口に出して整理しようとした。


「太妃たちが余計な入れ知恵をするまえに図々しい化けの皮を剥いでやる。この後は秘華園の古参の戯子やくしゃを召して──」

「要は陽春皇子が確かに亡くなっていると分かれば良いのです」


 玉言ぎょくげんを遮られた非礼と、告げられた内容の唐突さに翔雲が瞬く隙に、首輔さいしょうは勢いよく捲し立てた。膝でいざって彼に近付き、人目もないのに声を顰めながら。


「子供の死体──骨だけならいかようにもできましょう。後宮の池なりに見つけさせればよろしい。十五年も捨て置かれたのです。陽春皇子も、弔われぬままではあまりに哀れかと」

「……子を亡くした父母を、空の墓に詣でさせるのか」


 衷心ちゅうしんからの進言では、あるのだろう。だが、子供の墓を暴いて遺骨を盗むと仄めかされて、翔雲の声は尖った。


「皇宮の勝手で民にかような非道を強いては、それこそ天命を失おう。かの者と瑞海ずいかい王の悪事は、ちんの手で暴かねばならぬ」

「は──」


 叱りつけられたにも関わらず──平伏する間際、首輔さいしょうは口の端に笑みを浮かべていたような気がした。

 若い皇帝を試していたなら余裕があることだ。あるいは、彼の甘さを付け入る隙と見たのだろうか。


(この者の策は受け入れがたい。かといって有無を言わせず処刑しても禍根が残る……)


 帝位惜しさに先帝の皇子をしいした、などと囁かれる余地は絶対に残してはならないのだ。「陽春皇子」の嘘の綻びを、一刻も早く見つけ出さねばならなかった。


      * * *


 栴池せんち宮の庭園の片隅に設けられた四阿あずまやにて。

 池のほとりを皇太后と並んで散策する「陽春皇子」を覗き見させたふたりの戯子やくしゃは、まったく正反対のことを述べた。


驪珠りじゅにはまったく似ておりません。陽春殿下が無事にご成長あそばされていたなら、もっとずっと美しい貴公子におなりだったでしょう」

「確かにきょう驪珠りじゅの面影がございます。文宗ぶんそう様が寵愛された美貌を見間違えるはずはございません」


 ひとりは、そう隼瓊しゅんけい。先日の席ではごうけつ包青天ほうせいてんを演じ、役柄そのままの堂々たる口上を見せた戯子やくしゃだ。

 芸を見せるための場ではないとあって、今日はほうに合わせるのも褲子ズボンではなくスカートだが、背の高さも硬い言葉遣いもきびきびとした所作も、同年代の婦人とはまるで違う。


 もうひとりは、ちょう家に仕えるはく秀蘭しゅうらん

 秘華園ひかえんを辞しているため正確には戯子やくしゃだが、五十を越えている割には、声も仕草も若々しくどこか艶がある。若いころは文宗ぶんそう帝の覚えもめでたかったことだろう。


 いずれも、陽春皇子を実際に知り、かつその母である喬驪珠にも縁あった者ということだったのだが──


「驪珠ともっとも多く共演したのはこの私だ。忘れるはずも見間違えるはずもないだろう」

「そなたは驪珠を美化するあまりに目が眩んでいるのであろう。女の癖に、夫婦気取りで滑稽な……!」

「ならば貴女は驪珠に嫉妬して目が塞がれているのだ。翠牡丹ツイムータンに名を得られなかったのを、いまだに根に持っているようだな!」

「何を……!」


 不毛な言い争いになりつつあるのを察して、翔雲は溜息と共にふたりの女を黙らせた。


「もう良い。双方下がれ」


 おとこやくだろうとおんなやくだろうと、女の争いの厄介なことは変わらないらしい。季節は春の盛りだというのに、寒風吹きすさぶ真冬に逆戻りしたような気分になる。


 年配の戯子やくしゃたちを下がらせた後、翔雲はひとり四阿あずまやに残って沈思した。


(とりあえず顔の良い男なら容姿は誤魔化せると踏んだのだな。そしてそれも間違いではない……)


 幼くして姿を消した陽春皇子の人柄など誰も知らない。

 信頼できる証言といえば母譲りの整った姿をしていた、という一点だけ、そしてそれに当て嵌まる若い男はいくらでもいる。


 彼の心証としては、そう隼瓊しゅんけいの証言を信じたい。

 が、なにぶん多勢に無勢というものだった。皇太后の機嫌を窺う者ども、芝居に甘い後宮の主を望む者どもが口裏を合わせる限り、記憶頼みの証言では真実を明らかにできそうにない。


(あとは、奴の身元を問い質すか……義母はは上は、さぞだろうが)


 翔雲の視線の先で、皇太后は「陽春皇子」にべったりと貼り付くようにしている。

 もう二度と見失うまいとしているのかもしれないが──だが、彼女が縋っているのはとうに死んだ子の幻に過ぎないのだ。

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