第一部・下 燦珠、後宮の闇を掃う
五章 皇宮、偽春に惑う
第1話 皇帝、行き詰まる
十五年振りに後宮に帰還した「
今上帝の
「かの御方へのご挨拶に、
この宦官の立ち位置が
「例の
文宗帝の子を得たもの、得なかったもの。寵愛篤かったもの、薄かったもの。実家の権勢のほど。
皇宮育ちではない、よって彼女らにとって縁薄い翔雲よりも、
「陽春殿下は、本当に愛らしい御子でいらっしゃいましたので……」
「それはもう何度も聞いた。宦官ふぜいが後宮から這い出し、
宦官とは、後宮の所用に従事するための者たちだ。外朝は本来彼らの領分ではない。下働きの
皇帝に睨まれて、隗太監は
「ご不興もまことにごもっとも。
男のようでいて男でない存在が上げるいかにも困り切った声音には一切構わず、翔雲は無言で先を促す。
用があるなら早く言え、と。何かしらの相槌を期待していたらしい太監は一瞬、不自然な間を置いたが、諦めたように言葉を継いだ。
「皇太后様はさぞお寂しいこととは存じますが──かの御方にはしかるべき称号と封土をお与えになるべきかと愚考いたします」
案の定というべきか、隗太監の進言は考慮に値しない類のものだった。
だが、翔雲が自ら退ける必要はなかった。低い──宦官のそれとはまったく違う、歴とした男の声の一喝が轟いたのだ。
「まさしく愚考である!」
声の主は
「
高い悲鳴を上げた隗太監が、虫が這うような速さで退出すると、
「陛下。かの者を王に
「当然だ。万が一にもそのようなことをすれば、何が起きるか見えている。とたんに国中に
先帝文宗の皇子が次々と
彼はかねてより文武に秀でているとの評判が高かった。皇帝と後宮の退廃に
事実、翔雲は自らの評判によって玉座に登った。とはいえ、皇帝の実子でない身がそこに至るにはそれなりの手順が必要だった。諸官や諸侯の推挙──と、謙遜を示すための形ばかりの固辞──に加えて、天も彼を
空を覆う
(『陽春皇子』の帰還と同時に瑞兆が続けば、今度はかの者こそが帝位に相応しいと言い出すのだろう……!)
人が作り上げた瑞兆に、
「陛下は血筋正しく栄和の国を統べるに相応しい才気をお持ちの御方。ようやく
「太妃たちが余計な入れ知恵をするまえに図々しい化けの皮を剥いでやる。この後は秘華園の古参の
「要は陽春皇子が確かに亡くなっていると分かれば良いのです」
「子供の死体──骨だけならいかようにも用意できましょう。後宮の池なりに仕込んで見つけさせればよろしい。十五年も捨て置かれたのです。陽春皇子も、弔われぬままではあまりに哀れかと」
「……子を亡くした父母を、空の墓に詣でさせるのか」
「皇宮の勝手で民にかような非道を強いては、それこそ天命を失おう。かの者と
「は──」
叱りつけられたにも関わらず──平伏する間際、
若い皇帝を試していたなら余裕があることだ。あるいは、彼の甘さを付け入る隙と見たのだろうか。
(この者の策は受け入れがたい。かといって有無を言わせず処刑しても禍根が残る……)
帝位惜しさに先帝の皇子を
* * *
池のほとりを皇太后と並んで散策する「陽春皇子」を覗き見させたふたりの
「
「確かに
ひとりは、
芸を見せるための場ではないとあって、今日は
もうひとりは、
いずれも、陽春皇子を実際に知り、かつその母である喬驪珠にも縁あった者ということだったのだが──
「驪珠ともっとも多く共演したのはこの私だ。忘れるはずも見間違えるはずもないだろう」
「そなたは驪珠を美化するあまりに目が眩んでいるのであろう。女の癖に、夫婦気取りで滑稽な……!」
「ならば貴女は驪珠に嫉妬して目が塞がれているのだ。
「何を……!」
不毛な言い争いになりつつあるのを察して、翔雲は溜息と共にふたりの女を黙らせた。
「もう良い。双方下がれ」
年配の
(とりあえず顔の良い男なら容姿は誤魔化せると踏んだのだな。そしてそれも間違いではない……)
幼くして姿を消した陽春皇子の人柄など誰も知らない。
信頼できる証言といえば母譲りの整った姿をしていた、という一点だけ、そしてそれに当て嵌まる若い男はいくらでもいる。
彼の心証としては、
が、なにぶん多勢に無勢というものだった。皇太后の機嫌を窺う者ども、芝居に甘い後宮の主を望む者どもが口裏を合わせる限り、記憶頼みの証言では真実を明らかにできそうにない。
(あとは、奴の身元を問い質すか……
翔雲の視線の先で、皇太后は「陽春皇子」にべったりと貼り付くようにしている。
もう二度と見失うまいとしているのかもしれないが──だが、彼女が縋っているのはとうに死んだ子の幻に過ぎないのだ。
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