第10話 皇帝、茶番を演じる

瑞海ずいかい王……!」


 立ち上がり、あまつさえ許しなく発言した者の名を、翔雲しょううんは吐き捨てるように呼んだ。


 皇族とはいえ、皇帝と皇太后を前にしてのこの大胆極まりない非礼は、十分に罪に値する。だが、皇帝の叱責にも構わず、その男は恐れげもなく滔々と語る。


文宗ぶんそう様の亡き後、秘華園ひかえんは灯が消えたようで影ながら案じておりましたが。きょう驪珠りじゅや、若いころのそう隼瓊しゅんけいもかくやの戯子やくしゃが新星のごとく現れるとは。頼もしいことでございますな!」


 その堂々としたこと、遮る隙を見失うほどだったが──秘華園についてあて擦られていると気付くと、じわじわと怒りが込み上げてくる。

 瑞海王は、秘華園の悪習を廃そうとした彼を暗に批判した。そして、燦珠さんじゅたちの舞を、自身の都合の良いように捻じ曲げて利用しているのだ。


(今の顛末を見て言うのが、それか……!?)


 褒美を固辞した燦珠に、徳を称揚した隼瓊なる古参の戯子やくしゃに。

 まともに礼節を知る者なら、秘華園に蔓延はびこる収賄とは真逆の振る舞いを目の当たりにして感じ入るところだろうに、図々しいことこの上ない。


「──控えよ」


 低く、冷たく、脅すように。翔雲は告げた。帝位にある者の瞋恚しんいを伝えるべく、ごく端的に。


「秘華園の盛衰はそなたが気に懸けることではない」

「は。まことに僭越せんえつなこととは存じます。が、私はひたすらに皇太后様のご心中を慮ったまででございます」


 だが、瑞海王が恐れ入ることはなかった。しょせん若造と舐めているのだろう。

 そして実際、皇帝でさえも皇太后には遠慮しない訳にはいかないのだ。芝居第一の、半ばけた老女に!


 瑞海王の余裕は、皇太后が依然として機嫌良くふわふわと笑っているからだろう。


「ありがとう、瑞海王。哀家わたくしは大丈夫よ。とても良いものを見せてもらったもの。秘華園も心配いらないわ。ねえ?」

「……ええ、義母はは上」


 皇太后は、いったい誰に微笑みかけているのか分かっているのだろうか。


 亡夫の跡を継いだ皇帝と分かっているのか、それとも、長年連れ添った文宗ぶんそう華劇ファジュを楽しんでいる心地なのか。いずれにしても、皇太后が止めないのなら、翔雲に瑞海王を黙らせることはできなかった。


「まことに出過ぎたことではございますが、今日になるまで私は恐れておりました。皇太后様がいかに心細く思し召しておいでであろうか、と。今の秘華園にお慰めできる戯子やくしゃがいるのか、と」


 舞台の上で平伏し続ける戯子やくしゃたちは、瑞海王の言葉をどのように受け止めただろう。

 今日まで翔雲が彼女たちの心中を慮ることなどなかったが、白々しく皇太后を案じるをする瑞海王に比べれば、戯子やくしゃのほうがよほど信じられるし好ましい。


「ゆえに、必ずや皇太后さまの御心を安らげるを、用意しておりました。先の舞の後でお見せするのも恐縮かもしれませぬ。とはいえ、隠すことこそ罪になるであろうと心得ますゆえ、ご寛恕いただきたいと存ずるのですが……?」

「まあ、何かしら。哀家わたくしは構わないわ。見せてちょうだい」


 皇帝と皇太后の席のすぐ下にまで擦り寄って、上目遣いをする瑞海王が忌々しくてならなかった。新たな戯子やくしゃが紹介されるとでも思ったのか、身を乗り出す皇太后も。


(演じた者たちを休ませてやれば良いだろうに……!)


 戯子やくしゃが一番と言いながら、気儘に振る舞う老女に我慢しかねて、翔雲は立ち上がると声を荒げた。


「瑞海王! 今日は華劇ファジュの会である。皇族たるもの、身分にそぐわず芸を披露するかのようなもの言いは慎め。戯子やくしゃの本分をおかすものではない」


 翔雲は、瑞海王の発言を茶番と決めつけた。


 どうせこの男の望みは秘華園を隠れ蓑に甘い汁を吸うことだけ、皇太后への配慮など見え透いた嘘でしかないのだ。見事な舞やうたを演じた戯子やくしゃたちを前にしての下手な演技は見るに堪えない。


恐懼きょうくのいたりでございます。ですが、皇太后様の仰せでございますゆえ」


 先ほどよりもよほど直截な叱責だっただろうに。瑞海王は、形ばかり跪いただけで済ませた。例によって皇太后を盾にした不遜なもの言いと共に、客席の端に控えた宦官に目配せをする。


「──さあ、殿……」


 その言葉を合図にして、宦官たちの間から立ち上がった男がいた。


 後宮に、本来は皇帝以外の男はいるはずがないのに。特別に招き入れられた皇族でさえないその男は若く背が高く、それこそ役者のように整った顔立ちをしていた。

 絹のほうを纏って貴公子然とした装いをしてはいるが、どこか馴染んでいない──まるで、慣れない衣装を着せられたかのように。


 胡乱うろんを極めた存在を前に、翔雲は絶句してしまった。その隙に、その男は彼の──というか皇太后の前に膝をついた。


義母はは上。お久しゅうございます」

「……そなた……?」


 皇太后の目に、光が宿った。今日のどの演目を見た時よりも明るいその光は、しかし翔雲の目には不吉な凶星きょうせいの輝きにしか見えなかった。


(まさか)


 殿下という称号。皇太后を義母ははと呼ぶこと。引き比べるのも吐き気がする発想だが、翔雲自身と同じ年ごろの──役者のような美男。


 揃い過ぎた条件が、ある一点を指し示すような気がしてならない。


 彼が思い浮かべたのと同じ名を、思い浮かべた者も多いのだろう。誰もが息を呑む中で、その男はゆっくりと首を巡らせて、切れ長の目を細めた。


「秘華園も、何年振りでございましょう。庭も殿舎も変わりなくて──十五年前の、童子のころに戻った心地でございます」

「まさか。まさか、そなたは……!」


 翔雲が止める間もなく、皇太后が深衣の裾を翻して席を飛び出した。設けられた段を転がるように降りて、彼女はその男の傍らに膝をついた。


 華劇ファジュの一幕にでもありそうなを彩るのは、瑞海王の高らかなだった。


陽春ようしゅん殿下でいらっしゃいます! 皇太后様が、掌中のたまと愛でられた! 兄君がたをはばかって身を隠されておいでだったのを、私が探し出し保護したてまつりました!」


「──その御方は十五年も前に亡くなったと聞いている! 死者をかたるとは冒涜にもほどがある……!」


 予想はできても、かくも大胆かつ恥知らずな主張を言ってのけるのが信じ難くて、翔雲が怒鳴る前に一拍の間が空いてしまった。


(偽者だ。考えるまでもない……!)


 十五年も姿の見えなかった者が、都合良く見つかるはずがない。万が一見つかったとして、このような派手なを行う必要がない。


 わざわざ今日のこの場でを披露したのは──皇太后に見せつけ、そして信じ込ませるためだとしか思えなかった。


 事実、皇太后は目を剥き唾を飛ばして、眼下から翔雲を詰っている。


「なんて酷いことを言うの!? やっと陽春が帰って来てくれたのに!」

「十五年振りに会った者、それも、子供と大人を、どうして見分けられると仰いますか!?」


 今や彼自身が茶番劇の役者に貶められているのに気付いて、はらわたが煮える思いだった。


 なんと滑稽で、なんと無様な。至尊の身がかように侮られ貶められているのに、皇太后は誰とも知れぬ男に抱き着いて子供の駄々のように首を振っている。


驪珠りじゅを思い出した日にその子が現れたのよ!? 驪珠が引き合わせてくれたに違いないわ……!」

義母はは上……!」


 かつて首輔さいしょうに戯れのように述べたことを思い出しながら、翔雲は呻いた。


 先帝の御子が存命であったなら、彼は帝位を戴く立場にはなかった。もしも陽春皇子が現れたなら、彼は位を譲らねばならない。──瑞海王の狙いは、それだというのか。


(だが、それも本物であったなら、だ!)


 言葉を失うほどの怒りに震える彼を見上げて、陽春皇子は弱々しく──そう見える風情で──微笑した。


「お疑いももっともでございます、従兄あに上。覚えている限りの父帝のことや義母はは上のこと、後宮の倣いを語ればあかしになりましょうか。お気の済むまで尋問なり拷問なり、いかようにも──」

「そんなことはさせないわ! 哀家わたくしが、許しません!」


 勝手に皇帝を従兄あにと、皇太后を義母ははと呼ぶ非礼だけでも死罪に相当するはずだった。なのに、皇太后は自身の立場も弁えずに罪人を必死に庇うのだ。そのように台詞を言わされていることに、気付きもしないで!


「陛下。確かに軽々に判断できぬこととは重々──ここは、日を改めて詮議の場を設けるべきかと」

「……ならばその者を獄に繋げ。余人と接触させてはならぬ」


 なし崩しに偽者を皇宮に受け入れさせようとしている瑞海王の意図を察して、翔雲は吐き捨てた。脅しのつもりではなく、完全なる本気だったのだが──


哀家わたくし阿陽あようをまた引き離すの!? それならば哀家わたくしもこの子について行くわ!」

義母はは上、お聞き分けを! 皇族の詐称は重罪でございます!」


 皇太后はうるさく、その反応を見越しているらしいは余裕を崩さなかった。


「それでは、殿下には皇太后様のお住まいにお運びいただくのはいかがでしょう? 人の出入りの確かなことは獄にも劣りませんでしょう」

「……義母はは上の御身に万が一のことがあれば、そなたの一族にも累が及ぶぞ」


 ここまで瑞海王の筋書きということなのだろう。したり顔の進言も、翔雲の悔しまぎれの反論も。


「当然でございます! 我が一命を賭すほどに偽りのないこと、皇太后様の御為だけのことと、ご了解くださいますように……!」


 翔雲は了解した。


 と瑞海王は綿密に謀った上でこの場に臨んでいるということ。

 多少の尋問では襤褸ぼろが出ないように口裏を合わせているし、皇太后に疑問を抱かせぬよう亡き皇子のことを調べ上げているであろうことを。


(馬鹿げた──だが、厄介な策を巡らせてくれる……!)


 この場でが本物などと信じているのは皇太后だけだろう。だが、と考える者は?

 秘華園の戯子やくしゃに、彼女らを通じて利益を得る権門に、そこに連なる妃嬪たち。──皇帝の資質や正統性よりも、御しやすさを重視しかねない者たちだ。


 この事態を知っていたのか予想していたのか、表情を動かさない者たちがいる。動揺を隠そうとしてか目を泳がせるもの、団扇の影で顔を寄せ合う者。


 それぞれの表情を浮かべた妃嬪たちの中で翔雲が信じられるのは、青褪めた顔で不安げな眼差しを送ってくる香雪こうせつだけだった。

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