第3話 皇帝、開演前の一幕
内部の部屋は、芝居の道具を置く舞台裏や
貴人の観客を想定しているがゆえに、客席が高く──すなわり、
彼にとっての目下の最大の関心事は、皇太后とつつがなく意思疎通すること、だった。
「ご機嫌
公式の行事ではない後宮での催しとあって、やや砕けて龍の刺繍を施した
彼にはまだ皇后がいないため、舞台の正面の最上の席を占めるのは彼と皇太后のふたりである。貴妃たちも来賓の皇族たちも、そして大切な
演技が始まり、食事や点心が供されれば会話の種に困ることもないだろうが、最初の挨拶はそうも行かない。
「そなたは──」
できる限りにこやかに、敬意を込めたつもりだったのだが。皇太后は、翔雲を見てゆったりと首を傾げた。
白く変じてはいても豊かな髪を結い上げた
「誰だったかしら」
どうしてこいつは馴れ馴れしく母などと呼ぶのだ、と言いたげな眼差しを向けられて、翔雲の頬は引き攣った。
皇太后の侍女たちもさすがに青褪めて浮足立つが、皇帝の目配せを受けてどうにか口を噤む。
(会う度に一から説明しなければならぬのか……?)
うんざりとした呆れを隠して、翔雲は笑みを繕った。
「
「ああ……」
懇切丁寧に説明されたうえでなお、皇太后は曖昧な表情で首を傾げるだけだった。
芝居で蕩けたこの御方の脳は、俗世の些事など言われた端から零れ落ちていくのだろう。
「
夫君に先立たれた太后のみが使う人称を使ったから、さすがに今がいつかは弁えてくださっているのだろうか。
あるいは、皇太后が哀惜するのは亡夫ではなく、幼くして亡くなったという皇子のことかもしれないが。本人を目の前にして、他人の噂を尋ねるような皇太后の口ぶりは、不安を掻き立てるものではあった。
(
「そのように伺っております」
ともあれ、
「本当に……可愛い子だったのよ。芝居が好きで、
翔雲を眺めながらしみじみと呟く皇太后は、彼は可愛くないと言いたいようだった。十かそこらの童子、それも、
「畏れながら、皇帝の本分とは
より正確に言うならば、文宗帝が残した負債を清算し、あわよくば多少なりとも余裕を持たせた状態で次代に渡したい、ということになるが。
たぶん皇太后に言ったところで理解しないし、先帝への批判など、彼の立場で言えることでもない。
「そう……」
皇太后の顔は、いまだぼんやりと曇ったままだった。彼女が思い描く陽春皇子ならば、もっと養い親の機嫌を窺って甘えるはずだったのに、ということなのだろうか。
だが、その子がもはやいない以上は、我慢していただくほかはない。翔雲とて、死児を引き合いに出されて愚痴をこぼされる不快に耐えているのだから。
というか、そもそも皇太后に我慢などという概念はないのかもしれない。
「ねえ、
知るか、と。翔雲が危うく吐き捨てそうになった時──彼の眼下に華やかな
「陛下! お招きいただき光栄に存じます。秘華園に花が咲くのは久方ぶりでございますな」
「……
その五十絡みの男の称号を、翔雲はなるべく感情を込めずに呟いた。
特に会いたくなかった客のひとりである。彼とは祖を同じくする皇族の一員ではあるが、それだけに皇位には野心があるだろうと容易に想像がつくからだ。この男自身は年齢が行き過ぎているとしても、その子息らは翔雲とさほど変わらないだろう。
翔雲への挨拶もそこそこに、皇太后に対しても叩頭した素早さを見れば、
「皇太后様にもご機嫌麗しく。今日は、
「まあ、そうなの? この前の仙狐の舞もとても良かったのよ。楽しみねえ」
後宮に相応しからぬ品位の舞に言及する
「趙貴妃はそなたの血縁であったな。行って、顔を見せてやると良い」
「もったいないお心遣いでございます。恐れ入ります」
いそいそと趙貴妃の席に向かった
彼女は彼女で、大伯母の
「──時に、
「ええ、ええ!
翔雲が思い出すのに一瞬の間を擁した
(それは、ともかく……)
他人の、それも年端も行かない娘の力を借りるのは大変に
「はい。新入りの
「星晶はねえ、若いころの
皇太后の上機嫌な呟きは、翔雲にはよく分からなかったから独り言として聞き流すことにした。老女の繰り言に付き合う代わり、彼は香雪のほうへそっと視線を送る。
例の、
(しょせんは、芝居なのだが)
舞台からは、弦楽器の調律の音や、慌ただしい衣擦れの音が聞こえ始めている。
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