第3話 皇帝、開演前の一幕

 祥寿しょうじゅ殿は、後宮の殿舎というより劇場と呼ぶほうが相応しい建物だ。例の戯迷芝居オタク仁宗じんそう帝が造らせたものである。


 内部の部屋は、芝居の道具を置く舞台裏や戯子やくしゃの楽屋を除けば、ほぼ大きな大庁ひろまがひとつだけ。そこに舞台と客席がしつらえられているのだ。

 貴人の観客を想定しているがゆえに、客席が高く──すなわり、戯子やくしゃが客を見下ろすことがないように造られているのが市井の茶園しばいごやとの違いだと聞いている。仁宗帝の言葉によるとそのほうが芝居を見やすいとのことだが、翔雲しょううんはまったく興味がない。


 彼にとっての目下の最大の関心事は、皇太后とつつがなく意思疎通すること、だった。


「ご機嫌うるわしゅう存じます、義母はは上」


 公式の行事ではない後宮での催しとあって、やや砕けて龍の刺繍を施したほうを纏った翔雲は、皇太后にうやうやしく拝礼した。


 彼にはまだ皇后がいないため、舞台の正面の最上の席を占めるのは彼と皇太后のふたりである。貴妃たちも来賓の皇族たちも、そして大切な香雪こうせつも、彼からは遠い下段に席を設けられている。

 演技が始まり、食事や点心が供されれば会話の種に困ることもないだろうが、最初の挨拶はそうも行かない。


「そなたは──」


 できる限りにこやかに、敬意を込めたつもりだったのだが。皇太后は、翔雲を見てゆったりと首を傾げた。

 白く変じてはいても豊かな髪を結い上げたまげは、豪奢な鳳冠ほうかんと相まって老女の細い首にはいかにも重たげだった。皇太后が纏うのは、丈長くゆったりとした袖の深衣。姿だけ見れば、格式高い装いの威厳ある老貴婦人、なのだが──


「誰だったかしら」


 どうしてこいつは馴れ馴れしく母などと呼ぶのだ、と言いたげな眼差しを向けられて、翔雲の頬は引き攣った。

 皇太后の侍女たちもさすがに青褪めて浮足立つが、皇帝の目配せを受けてどうにか口を噤む。


(会う度に一から説明しなければならぬのか……?)


 うんざりとした呆れを隠して、翔雲は笑みを繕った。


成宗せいそう陛下の第四子にして文宗ぶんそう陛下の弟、興徳こうとく王の子、翔雲でございます。義母はは上のご推挙をいただいて帝位に就きました。政務にかまけて孝養がおろそかになり、申し訳もございません」

「ああ……」


 懇切丁寧に説明されたうえでなお、皇太后は曖昧な表情で首を傾げるだけだった。

 芝居で蕩けたこの御方の脳は、俗世の些事など言われた端から零れ落ちていくのだろう。けかけている、とも言う。夫君である先帝の崩御さえ忘れているのではないかと危ぶむこともあるのだが──


興徳こうとく王の御子は、哀家わたくしの可愛い子と同い年だったわね……?」


 夫君に先立たれた太后のみが使う人称を使ったから、さすがにがいつかは弁えてくださっているのだろうか。


 あるいは、皇太后が哀惜するのは亡夫ではなく、幼くして亡くなったという皇子のことかもしれないが。本人を目の前にして、他人の噂を尋ねるような皇太后の口ぶりは、不安を掻き立てるものではあった。


陽春ようしゅん皇子と言ったか……)


 首輔さいしょうは、彼が皇太后と顔を合わせることを見越して、彼女がかつて寵愛した皇子の話を聞かせたのかもしれない。皇帝が戸惑うことなく、話を合わせることができるように。気を利かせたと言えるのか、最初から説明しておかないのは不敬なのか。


「そのように伺っております」


 ともあれ、首輔さいしょうのお陰で、翔雲は過去と現在と夢と現が曖昧になった老女を刺激せずに相槌を打つことができた。


「本当に……可愛い子だったのよ。芝居が好きで、哀家わたくしの膝でよく唄っていたわ。子供だから、まだ澄んだ綺麗な声で。大きくなってもきっと可愛いままで、哀家わたくしを慕ってくれたのでしょうに」


 翔雲を眺めながらしみじみと呟く皇太后は、彼は可愛くないと言いたいようだった。十かそこらの童子、それも、戯子やくしゃを母に持ったという陽春皇子と比べられても困る。


「畏れながら、皇帝の本分とはうたでも芝居でもございませんから。文宗陛下から受け継いだ栄和えいわの国をより富ませることこそ我が務めと心得ております」


 より正確に言うならば、文宗帝が残した負債を清算し、あわよくば多少なりとも余裕を持たせた状態で次代に渡したい、ということになるが。

 たぶん皇太后に言ったところで理解しないし、先帝への批判など、彼の立場で言えることでもない。


「そう……」


 皇太后の顔は、いまだぼんやりと曇ったままだった。彼女が思い描く陽春皇子ならば、もっと養い親の機嫌を窺って甘えるはずだったのに、ということなのだろうか。

 だが、その子がもはやいない以上は、我慢していただくほかはない。翔雲とて、死児を引き合いに出されて愚痴をこぼされる不快に耐えているのだから。


 というか、そもそも皇太后に我慢などという概念はないのかもしれない。まげ鳳冠ほうかんの重みに耐えかねたように首を傾げた老女は、性懲しょうこりもなく過去に意識を彷徨さまよわせているようだったから。


「ねえ、哀家わたくしのあの子はどこへ行ってしまったのかしら。そなたは知らないの?」


 知るか、と。翔雲が危うく吐き捨てそうになった時──彼の眼下に華やかな龍袍りゅうほうを纏った男が平伏した。


「陛下! お招きいただき光栄に存じます。秘華園に花が咲くのは久方ぶりでございますな」

「……瑞海ずいかい王か」


 その五十絡みの男の称号を、翔雲はなるべく感情を込めずに呟いた。


 特に会いたくなかった客のひとりである。彼とは祖を同じくする皇族の一員ではあるが、それだけに皇位には野心があるだろうと容易に想像がつくからだ。この男自身は年齢が行き過ぎているとしても、その子息らは翔雲とさほど変わらないだろう。


 翔雲への挨拶もそこそこに、皇太后に対しても叩頭した素早さを見れば、瑞海ずいかい王の姿勢はおのずと知れる。


「皇太后様にもご機嫌麗しく。今日は、喜雨きう殿の戯子やくしゃが見ものでございますぞ」

「まあ、そうなの? この前の仙狐の舞もとても良かったのよ。楽しみねえ」


 ちょう貴妃きひ瑛月えいげつが披露したという、煽情的な演目のことだ。


 後宮に相応しからぬ品位の舞に言及する瑞海ずいかい王も、瞬時にして雲った目を覚醒させて破顔する皇太后も、翔雲の嫌悪を呼び起こして止まない。せめてその片方だけでも追い払うべく、翔雲は下座の一角を示した。


「趙貴妃はそなたの血縁であったな。行って、顔を見せてやると良い」

「もったいないお心遣いでございます。恐れ入ります」


 瑞海ずいかい王の妃のひとりが、瑛月の母の姉妹だったはずだ。つまりは、彼の後宮は皇族の手の者も忍び込んでいるのだ。一族揃って油断がならないのは承知しているが、さすがに今日のこの場で密談もしないだろう。


 いそいそと趙貴妃の席に向かった瑞海ずいかい王を目で追った翔雲の視界に、しゃ貴妃華麟かりんの姿が映った。

 彼女は彼女で、大伯母の太妃たいひと歓談しているようだ。その内容は、彼の想像が及ぶところではないが──華麟の姿を見て、ふと、思い出すことがある。


「──時に、義母はは上。永陽えいよう殿の抱えの……しん星晶せいしょうなる戯子やくしゃをご存知でしょうか」

「ええ、ええ! 女生おとこやくの、とても格好良い子よ。手足がすらりとして、本当に素敵で……今日はあの子も踊るのかしら?」


 翔雲が思い出すのに一瞬の間を擁した戯子やくしゃの名を、皇太后は瞬時に容姿と合わせて想起したようだった。この御方の意識がいったいどこをさ迷っているのか、彼にはまったく理解も判断もし辛い。


(それは、ともかく……)


 他人の、それも年端も行かない娘の力を借りるのは大変に業腹ごうはらではあったが。翔雲も、少しだけ意趣返しのようなものがしたい気分だった。


「はい。新入りの花旦むすめやくとふたりで舞うのだとか。相手役は、私が先日合格させたばかりなのですが、なかなか見事なものでした。ですから……その者も、楽しみにしてくださいますように」


「星晶はねえ、若いころの隼瓊しゅんけいに似ているの。それならその娘は驪珠りじゅの面影があるかしら。でもねえ、あれほどの舞はもう二度と、ねえ……」


 皇太后の上機嫌な呟きは、翔雲にはよく分からなかったから独り言として聞き流すことにした。老女の繰り言に付き合う代わり、彼は香雪のほうへそっと視線を送る。


 例の、燦珠さんじゅなる娘を推したのは、ひたすらに彼女の言葉と、試験で見せたあの娘の度胸を信じてのことだ。


(しょせんは、芝居なのだが)


 戯子やくしゃの出来で勝ったの負けたのと感じるなどと、いかにも秘華園の風に染まったようで奇妙なことではあるのだろうが。試験の時の彼のように、皇太后たちが目を見開く様を見ることができれば痛快かもしれない。


 舞台からは、弦楽器の調律の音や、慌ただしい衣擦れの音が聞こえ始めている。華劇ファジュの幕が、間もなく上がろうとしていた。

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