第2話 燦珠、決意の朝
当日、朝早く──
その勢いのまま、軽やかにその人影の傍に走る。恐らくは貴人が風光明媚を愉しめるよう、芝居の背景としても利用できるよう、
そんな美しく不可思議な一角には、
とにかくも、練習に夢中になるあまり、近ごろ会えていなかった顔だ。犬が尻尾を振る勢いで、燦珠は霜烈の顔を見上げて笑いかけた。
「楊
「
「やっぱり! 頼んでみて正解ね!」
格好良い
それでも実際に顔を見るまでは半信半疑だったから、燦珠はようやく安堵しつつはしゃぐことができる。隼瓊と霜烈の関係はいずれ知りたいとは思うけれど、今は謎めいたこの男を動かす手段があると分かっただけでも十分だ。
それに、彼のほうでも声を掛けに来るくらいには燦珠のことを気にしてくれているらしい。
「本当は、お仕事があるのかしら? 良くないことかもしれないけど、でも、見てほしかったのよね……」
「本当に問題があるならば
「そう? そうできるなら良かった……!」
この美貌と長身で、目立たないように、なんてできるのかどうか。ものすごく疑問ではあったけれど、燦珠はひとまず安堵した。彼女よりずっと後宮に詳しいはずの彼が言うならできる、ということなのだろう。
燦珠だって、
それでも霜烈は彼女にとって特別な存在だった。どうしても舞を見て欲しいし──伝えておきたいことも、ある。
燦珠は、背伸びをすると霜烈の耳元に唇を寄せた。
「あのね、
霜烈は、そもそも人目につきにくい場所を選んで姿を見せたのだろう。蛇行する道は、前後を行く者の姿を隠してくれる。
だから、声を憚る必要は本当はないのかもしれないけれど。それでも、言おうとしていることの内容が内容だから、燦珠の声は低くなる。
「それに、秘華園の
「黙っていたことを怒っているか? 聞いたところでそなたの気が変わることはなかったと思うが」
唇を尖らせる燦珠に、霜烈の声は例によって平らかで涼やかだった。でも、どこか心配そうな響きが聞こえるのは、彼女の気のせいだろうか。
(ううん。この人だって感情があるのよ。少なくとも、私にやらせたいことがある──だから、機嫌を損ねたくはないのよね)
年上の男の人に対して覚える感情ではないかもしれないけれど。燦珠は、相手を安心させようと笑みを浮かべた。
「自分で気付かせたってことよね? 貴方、やっぱり狡くて賢くて
「そなたはいつも私を買いかぶるな」
悪役として、
笑って受けてくれると思えるくらいには、彼女たちの距離は近づいているはずだ。だから──燦珠だって怒ったりなんかしていない。霜烈が教えなかったことにも、ちゃんと意味があるはずだと思う。
「むしろ、嬉しいわ。秘華園に来て、私がどう感じて何を考えるか、分かってくれていたってことだもの。……だからこそ、貴方に見てもらわなきゃいけなかったのよ」
「大それたことを考えていそうだ」
「そうかしら。そうかも? でも、当たり前のはずのことよ!」
共犯者の眼差しを交わして、燦珠は霜烈と笑い合った。大それたこと、が何なのか、きっと彼も少しは想像がついているはずだ。
「私は、今日は思い切り楽しんで
まだ眩い衣装は纏っていないけれど、簡素な
《
それこそが、彼女が今日踊ることの意味になるはずだ。
「誰よりも見事に──天子様が
時おり浮かない顔を見せる喜燕も、燦珠の同行に目を光らせては陰口に余念がないほかの
(やることが増える一方で大変なんだから、もう!)
最初は、自分のためだけだった。女の身で舞台に立ちたい一心だけ。
後宮に入ってみれば、
「それが秘華園のあるべき姿だと、私も思う。当代の陛下は英邁な御方。あの御方のもとで、健やかに清らかに栄えて欲しい」
ほら、少なくとも霜烈は頷いてくれる。そうだろうと思っていたから、本番前に会っておきたかったのだ。確かめることができた嬉しさと得意さに、燦珠は腰に手をあてて胸を張る。
「でしょう! 私を見つけて良かったわね?」
「うむ、まことに」
試験の後の時のように、霜烈が跪いて礼を述べてくれそうな気配を感じたので、燦珠は慌てて後ずさった。彼女にしてみれば当然のこと、何も感謝をされるようなことではないのだ。
彼にも同意してもらって、改めて気合を入れたかっただけで。──その目的は、十分に果たすことができた。
「じゃあ、私、そろそろ行くわね。着替えと
「そうすると良い。……念のために言っておくが、出番を終えるまで食べ物と飲み物には十分注意せよ。目立つ
手を振ろうとしたところに、霜烈がくれた忠告はもっともなもの、けれど同時に無用のものだった。だから燦珠は笑って答える。手を振って、走り出しながら。
「ありがとう! でも、大丈夫よ。仲良くなった子に、楽屋にいてもらうから!」
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