四章 鳳翼一閃、暗雲を払う
第1話 喜燕、板挟み
皇太后主催の
砂糖の欠片の代わりに彼ら彼女らが運ぶのは、明日の宴席に使う茶器や食器や、贅を凝らした食事に使うための材料、それに舞台に使う小道具や大道具、背景の幕などだ。
明日の会場となる
とはいえ、だからといって仮にも秘華園での催しが簡便なものには決してならない。例えば
染付の磁器の花瓶を抱えて廊下を進む喜燕の袖に、何かの重みが加わった。
(
趙
どうして
* * *
大規模な宴席を前にした熱気や慌ただしさとはまた別に、使用人は日常の務めも変わらずこなさなければならない。
という訳で、花瓶の後も大小の箱やら袋やらを運んでから、喜燕は小走りで
(明日は大事な日なのに……!)
違う。喜燕は燦珠を踊らせてはならないのに。どうして、あの娘を案じるようなことを考えてしまったのか。扉を開けながら混乱した喜燕は、さらに目と耳に刺さるきらきらとした刺激に頭を揺さぶられた。
「あ、喜燕!」
彼女の鼓膜を襲ったのは、本番を前にしていつもより高く弾んだ燦珠の声。
そして目を
「
翼をはばたかせるように──燦珠が腕を広げてくるくると回ると、室内に太陽が現れたかのような輝きが振り撒かれた。
喜燕は、その輝きの細部まで見極めようと目を凝らす。単に豪華なだけでなく、着た者が舞った時にもっとも美しく見えるように計算し尽くされたその衣装を。
基調となる生地の色は、鮮やかな紅。
ただし、身頃にも袖にも金や銀や青や黄に染めた羽根飾りが施されているから、ひと目見た時の印象は何色というより、とにかく眩しい、というものだ。
羽根飾りの先は生地に縫い留められてはおらず、舞手の動きに合わせて揺れるようになっている。それによって華奢な燦珠の身体はひと回りもふた回りも大きく見えるし、羽根飾りが踊ると地の紅が覗いて一瞬ごとに目まぐるしく色が移り変わるように見えるのだ。
極彩色の虹を纏うかのような衣装に、喜燕の唇から純粋な感嘆の溜息が漏れた。
「ええ……とても綺麗……」
「でしょう!? 喜燕にも見て欲しくて待ってたの」
違う者が言えば、鼻持ちならない自慢だと思ったかもしれない。でも、燦珠が言うと嫌味がないから不思議なものだ。
この娘にとっては、きっと、美しいものは常に美しく、楽しいものは常に楽しいのだろう。そして自ら発する言葉にも裏も表もないのが分かるから、悪く取ろうという気になれない。ただ──とてつもなく眩しすぎて、真っ直ぐに見ることができないだけで。
「ねえ、明日は、私の楽屋にいてくれない? 着替えとか
「
そっと目をそらしながら、喜燕はぼそぼそと呟いた。たとえ鳳凰の衣装を纏っていなかったとしても同じだっただろう。燦珠の笑顔そのものが、彼女には目を焼く太陽に見える。
今日もすでに目が回るような忙しさだというのに、当日になればさらに仕事が増えるのは間違いない。それに──
(私は、あんたの傍にいたくないのに)
否、彼女の好き嫌いで言えば、燦珠についていたい。ただでさえ花咲くような華やかな笑顔のこの娘が、衣装と
でも、それは同時に、瑛月の命令を実行する余地ができてしまうということだ。
なのに、燦珠は喜燕の悪意など欠片も疑っていないのだ。
「喜燕さえ良ければ──えっと、余計なお世話でなかったら、隼瓊
あの夜の後も、燦珠とは密かな練習を続けていた。それぞれ昼間の仕事と練習もあるから毎晩のように、とはいかなかったけれど。
その時にはうっかり言葉遣いや態度が親しげなものになってしまっていた自覚は、ある。燦珠が、珍しくも人の顔色を窺うような気配があるのは、きっと少ししょげているのだ。今の彼女の態度がよそよそしいとでも思っているのだろう。
(どうして、そんなこと言うの)
喜燕にとって、都合の良い状況になってしまうのだとも知らないで。務めが忙しいから何もできませんでした、と瑛月に言えたら良かったのに。
燦珠の提案は、喜燕は怠けて良いということだ。
(見たい。見たいよ。ほかの誰よりも、
友を、間近で応援したい。主の命令を遂行したい。同時に叶えることなどできないのは分かっているのに、どちらを望んでいるのか分からないまま、喜燕の唇は自身の意思に関係なく勝手に返事をしていた。
「……とても嬉しいお心遣いです。ありがとうございます」
「ううん! 私が安心したいだけだから。じゃあ、明日もよろしくね!?」
正面から見なくても、燦珠が顔を輝かせて笑ったのが伝わってきた。太陽が雲間から現れたのを確かめるのに、空を見上げる必要がないくらいに当然のこと。
太陽は眩しくて暖かくて──でも、喜燕の心を照らすにはまだ足りないのだ。
* * *
衣装を、
とはいえ、さすがに万全の体調で臨むことの重要さは分かっているのだろう、寝台に向かわせるのに苦労はなかったし、今宵はさすがに練習に抜け出すことはないだろう。たぶん。
喜燕の袖に投げ込まれた文は、そのころには鉛の重石を持ち歩いていたかのように彼女を疲弊させていた。自室に戻ってやっと取り出してみれば、いかにも貴妃が使いそうな、上質の薄い紙片でしかなかったのに。そこに記されていたのは、流れるような美しい筆跡で、ただ一文。
──余興を楽しみにしている。
文を広げると現れた、何かの粉末の包みを握りしめて、喜燕は荒く乱れる呼吸を宥めようとした。燦珠が無事に本番を迎えようとしていることに業を煮やして、瑛月が手段を送って寄こしたということに違いない。
(余興、だなんて……!)
その日の話題をさらうはずの見事な演目を、
許せない、と思うと同時に、自分にそんなことを言う権利があるのか、と心の中の影が囁く。影を追い払おうとすれば、それは
瑛月からの文を火に投じれば、瞬く間に黒く
彼女の裏切りを知ったら、燦珠はどんな顔をすることだろう。
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