第11話 喜燕、真夜中の練習
とはいえ部屋そのものも小さいから、手探りで起き出すのに何の支障もない。そもそも彼女は寝間着に着替えていなかったし、深夜に起きなければならないという緊張によって寝返りも打っていなかったのだろう、触ってみた感じでは髪型も崩れていないようだった。
すぐ近くにある、何段階か広く豪華な
何かと騒がしいあの娘も、この時刻はさすがに眠りに就いているのだろう。
(昼間、あれだけ練習してるんだしね)
そして、夜が明ければまた早いうちから
それでも、喜燕の行動を見咎められる訳にはいかない。夜中に歩き回るだけでも不審なのに、
喜燕に与えられた役割は、ふたつ。ひとつは、燦珠の舞を盗んで代役を務められるまでに習熟しておくこと。もうひとつは、皇太后が催す会の前に燦珠をどうにかすること。
同じ年ごろということで燦珠に
(
肝心のことを主に伏せている不安と緊張に、近ごろの喜燕はほとんど常に心臓に嫌な痛みを覚えている。
言わないからこそ命令が変わらないのだとは分かっていても、主の機嫌を損ねる情報を告げる勇気には、彼女にはなかった。
(あんなにぴったりの舞だもの……)
跳躍はより高く回転はより速く、かつ華やかに美しく。謝家が用意しているという豪奢極まりない衣装も必要ないほどに、あのふたりは互いの力量を引き出している。舞と
暗い廊下を歩む喜燕の視界を、鳳凰の舞の残像が照らすような思いさえ、した。あの教えを噛み締めようとしても、その眩さに掻き消されてしまいそうな。
(でも、真理でしょ? 燦珠は
新参者で立場の弱い沈昭儀に、皇帝の寵愛
誰もが打算で動いているだけ。その、はずだ。そうでなければならない。役者同士は常に、隙あらばより良い役を得ようと競い合い争い合うものだ。
(でなかったら、私──)
喜燕はすでに、一緒に育った
耐え難い恐怖が喉からせり上がり、声となって喜燕の唇からこぼれ出た。
「
夜風に紛れるていどの、ごくささやかな呟きのはずに、けれどなぜか反応が返って来た。
「誰? 誰かいるの!?」
「あ──」
自身の存在に気付かれたこと、不穏な言葉を聞かれたかもしれないこと──そして、
いくつもの驚きに頭を殴られて、喜燕が立ち竦む間に、声の主は軽やかな足取りで彼女に駆け寄った。いつもの練習着、薄桃色の
「びっくりした! 喜燕じゃない! 私、
間近に耳に刺さる燦珠の声によって、喜燕はどうにか気を取り直すことができた。
考え込みながら歩いているうちに、彼女は練習場に辿り着いていたらしい。誰にも見られぬ時間を選んだつもりが、どういう訳か先客がいたのだ。
瞬きすれば、燦珠が灯したらしい灯りが目を刺すのに、それにも気付かないほど、喜燕は暗い考えに取り憑かれていたのか。
「後宮の
……それにしても、普通の人間は寝静まる真夜中だというのに、燦珠の声は舞台の上で
「……声」
「あ──そうね、怒られちゃうわよね」
低くぼそりと呟くと、燦珠は慌てたように両手で口を塞いだ。たぶんもう遅い。けれど、いまだ誰も叱責しに来る気配がないということは、燦珠の声によって起こされた者はいなかったのかもしれない。
溜息を堪えて、喜燕は次々と湧く疑問を相手にぶつけることにした。
「……なんで?」
「眠れなかったから。練習しようと思って」
「……気付かなかった」
「起こしちゃ悪いと思ったから……窓の側から木を伝って出て来たの」
それは、燦珠の鍛えた肉体ならそれくらい簡単なことだろう。深夜に抜け出すべく緊張していたはずの喜燕が目を覚まさなかったのも、それほどの失態ではないのかも。でも、問題はそこではなくて──
(そこまでして練習!?)
驚きが収まると、湧き上がってくるのは呆れと不審だった。やる気とか熱意とかいう域を越えて、寝ても覚めても──文字通りに! ──練習というのはちょっとおかしいのではないかと思う。
奇妙なものを見る目で見られていることに気付いたのだろうか、燦珠は恥ずかしそうに頬を両手で包み込んだ。一応、変なことをしているという自覚はあるらしい。
「ほら、あの、天子様の前で踊る訳じゃない?
「うん」
声が大きくなりかけているのを、改めて注意したほうが良いのかどうか──迷う間に、燦珠の勝気さと愛らしさが同居する顔が、喜燕の目の前に迫っていた。
「でも、
長々と説明してくれたけれど、喜燕の感想は大筋では変わらなかった。
(やっぱりこの子はちょっとおかしい)
不遜で畏れ多い考えだとしか思えない。下手をすると、秘華園に
趙家の圧力に皇帝が屈することは、もしかしたらあり得るかもしれないけれど、天にも等しい御方の考え方や感じ方を、それも
この娘は、自分の演技にそこまでの力があるなんて──思っていないからこその練習なのかもしれないけれど、可能性を感じる時点で尋常の感性ではないだろう。
でも、喜燕がその思いを口に出すことはできなかった。別に相手に失礼だからではなく、首を傾げた燦珠が目をきらきらと輝かせて彼女の顔を覗き込んできたからだ。
「喜燕は、どうしたの? 私が出て来たのに気付いたんじゃないのね……?」
「それは」
ごくさりげない問いかけは、けれど喜燕の胸に深く鋭く突き刺さる。
喜燕が寝床を抜け出たのは、昼間目で見て盗んだ振付を、身体にも覚えさせるためだった。燦珠の代役を狙うのなら、踊れなくては意味がないから。
「私、は」
正直に明かすことなんて、できるはずもない。意味もなく練習場を見渡すと、灯りが照らさない部分の闇が深く、濃かった。立ち
「じゃあ、せっかくだからそこに立っててくれない!?」
「え?」
後ろめたい思いを抱える者の目に、一点の曇りもない笑顔がなんと眩しいことか。
そして相変わらず、訳の分からないことを言う娘だった。何がじゃあ、なのか。どうして答えがないのに問い質さないのか。立っていろとは、いったいどういう意味なのか。
(
そういえば、この娘は喜燕と仲良くしたがっているようだった。実に楽しそうに唄って踊る燦珠があまりに眩しくて羨ましくて、期待に応えたことはなかったけれど。今は──つい、驚きが勝って普通に受け答えてしまったから。だからもしかして、この娘は喜んでいる、のだろうか。
「私、人と踊ったことがなかったの。だいぶ慣れてきたとは思うんだけど、星晶がいないと、歩幅とかがね、自分の感覚になっちゃうから──」
そう思うと、薄明りの中に浮かび上がる燦珠の頬はほんのりと赤く染まっているようにも見えた。
密かな練習での高揚や、不意の人影に驚かされたからだけではなくて。まるで……一緒に練習する相手が現れて嬉しい、とでもいうかのような。後宮で、深夜にこそこそしていた者に見せる表情ではない。
「目印に、なれと?」
「立ってるだけで良いんだけど……!」
信じ難い思いで問うと、燦珠はぱっと顔を輝かせた。名前の通りなのかどうか、この娘はとても眩しい。目が潰れそうな明るい笑顔を直視できなくて、喜燕はそっと目を逸らした。
「……見よう見真似で良いなら、動いてみる、けど」
「
礼を言う必要なんてないのだ。下心があってのことなのだから。
馴れ馴れしく手を握らないで欲しい。その指は羽根や翼や雲や風を表すためにこそあるのだろうから。
(近くで見たほうがよく盗めるから。それだけだから)
どうして燦珠の舞の練習ではなく、星晶のほうの振付をなぞることになっているのか──自分への言い訳を胸中に呟きながら、喜燕はそれこそ飛ぶように軽やかに立ち位置につく燦珠を見て目を細めた。
練習場の暗さは相変わらずなのに、どうして彼女の手足や首筋だけが光を纏って浮かび上がるように見えるのだろう。肌の白さや服の色のせいではなくて、内から自ら輝くような──その眩しさは、いったいどこから来るのだろう。
「──じゃあ、最初からね? 一、二、三、四、
ふたりの動きを揃えるための、呪文のような節回しは、喜燕もとうに耳で覚えている。
唄うような言葉に合わせて、自然、彼女の手足も動いている。
久しぶりのことだから、ぜんぜん、まったく、思うようには動けていないけれど。それでも、胸が弾んだ。今まで彼女は生きていなかったかのように、手足の指の先にまで血が巡るのが、分かる。そうして、気付く。
瑛月の前で平伏していた時からずっと、喜燕は踊りたくて仕方なかったのだ。
一度動き出すと、怪しまれるかも、なんて考える余裕はなかった。燦珠の技を盗もうと目を光らせる気も起きない。
ただ、頭に焼き付いた秦星晶の動きをなぞるのに夢中になって。手足の長さも背丈も違う相手だから、思うようにいかなくてもどかしくてならないけれど。天高く舞う
必死に踊る喜燕の、弾けそうな心臓のことなど知らないのだろう、燦珠が笑った。
そうだ、この娘は、楽しそうに踊るのだった。同じ場所で、同じ舞を舞っていると、その笑顔が作ったものでないのも、分かる。たとえ薄闇の中でも。この娘は、動作のひとつ、呼吸のひとつにいたるまで、すべて心から楽しんでいる。
「喜燕の跳躍も綺麗ね! 試験の時から、どう舞うのか気になってたのよ!」
訳の分からない衝動が込み上げて、喜燕の目に映る燦珠の姿が歪んだ。
この娘は、もっと用心深くなるべきだ。どうして
そして、怪しい者を遠ざけるなり叱るなりすれば良いのだ。ぜったいに、決して、喜燕を褒めている場合ではないのに。
(私──この子を、本当に? でも、
姉妹同然の相手にもできたことだ。それなら何度だってできるはずだと──ついこの間までの喜燕ならば考えていただろう。
だって、考えを変えるなんて許されない。燦珠の舞がいかに見事でも、彼女と舞うのがどれほど楽しくても。
燦珠が高く飛翔するほど、自身はどこまでも墜ちるべきなのではないか、と。
楽しさと恐ろしさと、喜びと不安と罪悪感と。相反する感情に心を引き裂かれながらも、喜燕は舞い続ける。
また跳んで──回った拍子に、喜燕の目から雫が零れて宙に飛んだ。真珠の粒よりも小さなその雫の密やかな煌めきが、目に残ってしかたなかった。
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