第4話 鳳凰、翼を捥(も)がれて
胸元に隠した薬の包みが、冷たく重い。氷の刃が、一歩を踏み出すごとにじわじわと心臓に刺さっていくかのようだった。
(開演前だから……お腹に溜まり過ぎないもののほうが良いよね?
出番を控えた
命令に従うなら情は捨てなければならない。
情を取るなら一秒でも早く薬を処分しなければならない。
両方を選ぶことなどできるはずもないのに、未練たらしくどちらの道も残しているのだ。なんて愚かで卑怯で救いようのない──
と、自分を罵る言葉を頭に並べていた喜燕は、目の前の人影に気付くのが遅れた。
出番の早い
「危ないわね! ぼんやりしないでよ」
「……っ、も、申し訳ございません……」
盆を庇って廊下の端に避けた喜燕の謝罪を、たぶん相手は聞かなかっただろう。
(ああ、もう着いてたんだ……)
ただ、おかげで燦珠の楽屋を通り過ぎないで済んだ。決断を遅らせたいがあまり、どこまでも廊下を突き進もうとしていたらしい。
溜息を堪えて、喜燕は目的の扉を開いた。そして──眩い煌めきに目を射られて、瞬いた。自分のものではないような、ひどく掠れた喘ぎが唇から漏れる。
「うそ……」
部屋中に、色鮮やかな鳥の羽根が散らばっていた。金や銀や青や黄──まるで、
無論、そんなことはあり得ない。燦珠の衣装の装飾が
昨日、完全な状態を見ている喜燕には分かる。室内に舞い散る絢爛な羽根の一本一本が、どれだけ細やかに丁寧に衣装に縫い留められていたのか。
喜燕はふらふらと楽屋の中へと足を踏み入れた。彼女の動きによって、羽根がふわふわと宙に舞い踊る。虹色の雪が舞い散るようで、それ自体は美しい。でも、なんて無残で、なんて酷い。
抱えたままだった盆を化粧台の前に置いて──衣装一式を収めていた箱を恐る恐る、開けてみる。
羽根を
(いったい誰が……!?)
喜燕の脳裏に、
(趙貴妃様じゃない……別の御方だ……)
鳳凰の衣装を損なっては、代役として喜燕を舞わせることができなくなってしまう。いくら貴人が気まぐれなものだと言っても、昨日薬を渡しておいて気を変えるなど、さすがにあり得ないだろう。
と、思い当たることがあって喜燕はきつく唇を噛み締めた。
(さっきの……!)
彼女を突き飛ばした者の顔を、きちんと見なかったのが悔やまれた。あの
(私の、せいだ)
じわじわと、黒い絶望と後悔が、喜燕の胸を蝕んでいく。
悪事を企んでいるのは自分だけだと、思い込んでいた。だから、自分が動かなければ燦珠は無事なのだと、どこかで油断していたのだ。楽屋の平穏に気を配るのも、本来は
(だって……そっちのほうが早いもの。気付くべきだった)
沈昭儀の面目を潰すなら、演技そのものができなくなるように仕向ければ良いのだ。
燦珠に毒を盛ったり怪我をさせたりできるのは、喜燕くらいなものなのだから。ほかの妃嬪の手の者が狙うなら衣装のほうを、となるのは道理だった。
「喜燕、先に着いてたのね!」
呆然と立ち尽くす喜燕の耳に、今一番聞きたくない声が届いた。燦珠の声だ。いつでも明るくて、高く軽やかに響き渡る──でも、部屋の惨状はひと目で分かってしまうだろう。そうすれば、さすがの燦珠の声も表情も、暗く
「着替えと、
燦珠の声が戸惑うように揺れて、立ち消えた。彼女の驚きと衝撃を思って、喜燕はぎゅっと目を瞑る。どんなにか驚いているだろう。そして次の瞬間には嘆き、怒り、落胆していることだろう。眩しい太陽のような娘が、涙にくれるところなんて見たくない。
でも、燦珠のために胸を痛めながら、喜燕は心の奥底で安堵していた。
(ああ、でも、これで──)
これなら、少なくとも燦珠は無事なのだ。
試験の時とは訳が違うのだから。衣裳なしで皇帝や皇太后の御前に出るなどあり得ない。燦珠が演じることがないというなら、瑛月も満足してくれるかもしれない。
役を奪えなかった、薬を使えなかった喜燕は罰を受けるかもしれないけれど──でも、この娘を裏切らなくて、済む。
深呼吸して、勇気をかき集めて。そうして、喜燕はぎくしゃくとした動きで振り返った。扉を開けたところで凍りついているであろう燦珠と、向き合うべく。
どんなに白々しくても、慰めの言葉をかけなくては。
「ご、ごめん。私も今来たところで……そうしたら、こうなっていて」
震える声を紡ぎながら、喜燕はあれ、と思っていた。
彼女は燦珠を、慰めるつもりだった。肩を抱こうと、手を差し伸べてさえいた。けれど、燦珠は支えるまでもなく自分の足でしっかりと立っている。ふらついたり倒れたりする気配はない。
頬も、青褪めるどころか紅潮している。いつもは朗らかに笑みを湛える目が、今は吊り上がって激しい感情に燃えている。
燦珠に拳を握らせ、唇を震わせる感情の名は──
「あの。これは……あの、私じゃ、なくて!」
燦珠は怒り狂っている、と気付いた瞬間、喜燕の口は勝手に動いていた。
問い詰められた訳でもないのに余計なことを、と心臓が跳ねたのは言ってしまった後のこと。おろおろと震える喜燕の耳に、ぎり、と燦珠が奥歯を噛み締める音が届いた。
「……ふ」
「燦珠!?」
燦珠の唇が綻び、微かに吐息が漏れた。服の上からでも腹が動いたのが見てとれた。喜燕も役者の訓練を受けているからその意味するところを知っている。腹筋を支えにして、声を大きく響かせるための前兆だ。それは、分かるのだけど──
「っざけんじゃないわよおおおぉおっ!」
脳天に突き刺さる高い声も、それが叫んだ内容も、喜燕の理解の及ぶところではなかった。
間近に浴びた絶叫めいた罵声に、目の前に火花が散る思いでいると、慌ただしい足音がもうひとつ、楽屋に駆け込んでくる。
「燦珠!? どうしたんだ!? ──これは……!」
燦珠の雄たけびを聞きつけたのだろう、鳳凰の衣装を纏った
すでに顔を彩る
「見ての通りよ、星晶。ほんっと、くだらないことしてくれるんだから。早く、どうするか考えましょ!」
燦珠の目に、強い光が宿っていた。普段のように、演じることへの喜びによってではなかったけれど。怒りと──それに恐らく、激しい闘志によって。
こんな時でも彼女は眩い輝きを失ってはいなかった。
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