第8話 皇帝、安らかな夜

 栄和えいわ国の皇宮、皇帝の寝殿である渾天宮こんてんぐうは、今宵も遅くまで灯りが灯っている。とはいえそれは皇帝が政務に励んでいるからではなく、寵妃を召しているからだった。


 しん昭儀しょうぎ香雪こうせつの美しい微笑を見ると、翔雲はいつも疲れが溶ける思いを味わう。

 美酒美食や歌舞音曲よりも、愛する女の控えめな気遣いこそが、若くして、かつ期せずして玉座に登った彼を癒してくれるのだ。


「今日は、しゃ貴妃きひ様に永陽えいよう殿にお招きいただきましたの」

「そうか。楽しかったか?」


 金泥きんでいで大きく描いた双喜そうきの文字に、福に通じる音を持つ蝙蝠コウモリ、多産を表す葡萄ブドウ──種々の吉祥の意匠に彩られた寝室に酒肴を運ばせて、翔雲は香雪と寛いだ時間を楽しんでいた。


 新参の寵妃が貴妃の殿舎に呼ばれたなどと聞けば不安もあったが、楚々とした美貌にかげりは見えず、香雪の声も明るいものだったから、翔雲も笑顔で聞いていられる。


「お庭がとても素敵でした。夏が一番美しいそうですので是非また、と仰っていただけました。あの……翔雲様も、いずれお運びくださいますように」

「考えておこう」


 香雪が一瞬だけ言い淀んだのは、永陽殿に皇帝が足を運べば、自然とその女主人のもとで休むのだろうと考えたからだろう。あるいは、謝貴妃華麟かりんがそう言うように命じたのか。


 ささやかな嫉妬を覚えているのかと思えばいじらしく思うし、それでも彼のために美しい景観を勧めてくれる心は嬉しい。ほぼあり得ないと自身で分かっていながら、謝貴妃を立てて翔雲は含みのある相槌を打つにとどめた。


(謝貴妃は華劇ファジュを好むのだったな……)


 例の選抜試験での華麟の言動を思い出して、翔雲は心中で眉を寄せた。

 香雪は秘華園ひかえんから遠ざけていたかったというのに、彼の意向に反して結局新しい戯子やくしゃを後宮に受け入れることになってしまっていた。


「……戯子やくしゃも、一緒だったのか」

「はい。燦珠さんじゅ星晶せいしょうはすっかり仲が良くなったようでございます。舞も、見るたびに息が合っていて──見ていただくのが、とても楽しみですわ」


 彼のわだかまりなど知らぬ香雪は、例の娘の舞を思い描いてか目を輝かせている。彼女ほどに楽しみだと思えない翔雲は、仕方なく酔いの力を借りることにして盃を干した。


「そうか」


 翔雲の本意ではないことだが、短すぎる相槌に、香雪は不安を覚えたらしい。柳眉が寄せられ、空いた盃を満たす間、室内には沈黙が降りる。香雪がおずおずと口を開いたのは、翔雲がもう一度酒を空にしてからだった。


「あの、謝貴妃様から伺いました。秘華園で……感心できぬ倣いがあるのだと。翔雲様は、華劇ファジュというよりも、その倣いがお気に召さぬのだと推察いたしました」

「ああ……」


 香雪の言は、半ば当たって半ば外れている。


 翔雲は、元来夢物語が性に合わない。秘華園の悪習がなかったとしても、華麟のようにうたや舞を楽しんだかどうかは微妙なところだ。


 ただ──皇帝として問題にすべきは確かに華劇ファジュそのものではない。秘華園の腐敗は後宮のそれに繋がり、さらには外朝がいちょうへ、地方の政へと広がっていくのだろうから。


(道理でたかが芝居に拘泥こうでいする者が多いと思った……!)


 調べさせてようやく把握した事実に、翔雲は心底呆れたし慨嘆がいたんしたものだ。


 戯子やくしゃへの祝儀を隠れ蓑にして、皇族や名家や顕官けんかんの間で贈収賄が横行している、などと。

 先帝が気付いていなかったなどということはあるまい。気付いた上で、華劇ファジュの振興に繋がるならそれで良しと放置したのではないかと思えてならない。


「そなたは、どう思った。過ぎた祝儀を贈られたらどうするつもりだ」


 自身の快楽のために不正を見過ごすなどと皇帝にはあってはならないこと。彼自身が二の轍を踏まぬのはもちろんのこと、愛する女も腐敗に染まって欲しくない。

 香雪はそんな女ではないと信じている──信じたいが。何を思って切り出したのか見極めようと、翔雲は鋭く寵妃の一挙一動に目を凝らした。


 皇帝の視線を受けて、香雪は背筋を正した。


「燦珠とはすでに話しました。演技に相応しい代価と彼女が考えた分だけをいただいて、あとはお返ししようと思います。──そのようにしても、よろしいでしょうか」


 真っ直ぐに彼を見上げることで、目に宿る真摯さを示そうとするかのような香雪の姿勢は好ましい。まいないを受け取るつもりはないと断言したのも頼もしい。だが、かといって容易く頷くこともできなかった。


を贈った者はそなたに不快を抱くかもしれない。文字通りのことではないとは、分かっているのだろうな?」

「はい。ですが、舞うのは燦珠でございますから。あれほどの舞にご祝儀が何もないという訳には参りません。わたくしや実家のためには一銭たりとも必要ございませんが、燦珠の研鑽に対しては、どうか……!」

「そなたに私欲があるなどとは疑っていない」


 ならば舞の対価などとは言い出さず、彼には黙ってを収めれば良いのだ。賂のつもりがアテが外れた者が敵対する可能性も承知であえて、というなら、香雪は本心で戯子やくしゃのために言っているはず。だが──


「あの娘が過分の代価を望まぬと信じられるか? そなたを飛び越えて、便宜を図ると請け負ったりはしないか?」


 翔雲は、当然の懸念を述べたつもりだった。燦珠なる娘が信用できるのか、と。


「あり得ませんわ」


 なのに、香雪はにこやかに断言した。安堵した風情からは、なんだそんなことか、とさえ思っていそうなのが感じられる。彼女にとっては、翔雲の懸念は杞憂なのだ。


「本当に、華劇ファジュのことだけで頭がいっぱいの娘なのです。会っていただければ分かりますわ。今は、練習で忙しいということなのですが」

「会ったばかりだろうに親しくなったものだな。若い娘同士だからか……?」


 ほんの少しだけ、面白くなかった。翔雲にはその娘の人柄が信じられぬというだけでなく、彼の意に反して後宮に乗り込んできた女の役者に、香雪が信頼を寄せているようなのが。

 寵妃に頼られるのは彼でありたい、と──器の小さいこととは知りながら、考えてしまうのだ。


「元気の良い妹ができた気分でございます。いつもは勝気で明るい娘なのに、舞となると可憐にも凛々しくも神々しくも、佇まいが変わるのです。役者とはすごいものなのだと……夢中になる方々の気持ちが、少し分かりました」


 娘の舞を思い浮かべてか、うっとりとした眼差しで呟いてから、香雪はまた表情を真摯なものに改めた。


「畏れ多いことを申し上げます。お望みならばどうぞ罰してくださいますように。──文宗ぶんそう様の御代の時の秘華園は、良い在り方ではなかったと……わたくしは、思います」

「罰したりなどしない。続けよ」


 彼は、今まさに秘華園を改めようとしているのだから。彼の心に叶うことを申し述べる者を、どうして咎めたりするだろう。翔雲が促すと、香雪は細い顎を小さく頷かせた。


「ですが、至尊の地位にいらっしゃる御方の御心を慰めることは、必要かと存じます。秘華園を設けた仁宗じんそう様以来、格別に華劇ファジュを好まれぬ御方もいらっしゃいました。それでも秘華園が今日まであるのは、やはり人の心を癒し、一時でも重責を忘れさせるからではないかと思うのです」


 仁宗の次の皇帝、成宗せいそうは翔雲の祖父だ。

 娯楽は何ごともたしなむていどで、善政を敷くことに注力し名君と讃えられた祖父がなぜ秘華園を廃さなかったのかは、確かに彼も疑問には思っていた。その答えに、香雪はもう辿り着いたというのだろうか。


「かつての秘華園にも、素晴らしい花旦むすめやくがいたのだとか。燦珠は、きっとその者に続くだろうとわたくしは信じております。きっと、翔雲様の御心を安らげることができるだろうと──いえ、そうなるように努めます。わたくしは、あの娘の主になったのですから」

「香雪……」


 翔雲が名を呼ぶと香雪は恥じらうように顔を伏せた。

 けれどその表情こそ彼が求めるものだから、そっと立ち上がると彼女を椅子の背ごと後ろから抱き締める。腕に込めた力で続けるように促すと、頷いた仕草によって髪や衣装にいた香が芳香を立ち上らせた。


「わたくしは、舞もうたも才がございません。ですから、燦珠を通してお仕えできれば良いかもしれないと、思いました。燦珠の技を、政や後宮の争いに使うのは忍びないですし……。わたくしには、心正しくあること、後宮でもそのようにあれるのだと、示すことくらいしか──」

「しか、などとは言うな。そなたの心は何より尊い。」


 頼られたい、などとは翔雲の傲慢だった。香雪は、彼をいかに支えるかを考えていてくれたのだ。

 非才などとはとんでもない、心の清さと正しさだけを頼みに後宮で生きようなどと、簡単に言えるものではないのだ。


 掌の動きで立つように命じ、翔雲は香雪と間近に見つめ合った。唇を重ねれば、互いの熱で温まった酒がいっそう酔いを深め、体温を高める。寝台を目で示して首を傾げれば、香雪は耳まで真っ赤に染めながら頷いてくれる。


 軽く細い身体を抱き上げて、しとねに沈めると、香雪は翔雲の背に腕を回しながら呟いた。


よう奉御ほうぎょにはいくら感謝してもし足りませんわ。わたくしに、素晴らしい戯子やくしゃを引き合わせてくださいました」


 戯子やくしゃの話の続きだ。あの娘に出会えて良かったということなのだろうが──香雪が挙げた役職は、翔雲にとって聞き過ごせないものだった。


「奉御? 宦官か? あの娘は宦官が手引きしていたのか?」


 香雪の侍女に役者の才があったなどと、もともと信じてはいなかったが。謝貴妃はどうやら違うようだとは察したものの、燦珠さんじゅなる娘がいったいどこからどうして現われたのかは気懸りだった。


(宦官どもも秘華園からは蜜を吸っているはず……)


 かい太監たいかんが秘華園での息抜きを執拗に勧めてきたのもそれゆえか、あるいはいずれかの貴妃の意向を受けてのことだろう。その宦官は、さらに太監に命じられていたのかもしれない。


「は、はい。あの……娘ながらに華劇ファジュを志す者に、心当たりがあると仰ってくれて……。それで、燦珠も乗り気で来てくれたので、つい」


 翔雲の表情が強張ったのを感じてか、香雪は不安げに彼を見上げてくる。皇帝の怒りを買うようなことを口にしてしまったのかと、恐れているのだろう。


「翔雲様……?」

「何でもない。……悲しい顔をするな。そなたには関わりのないことだ」


 だが、宦官が何を企んでいたとしても、香雪は知らぬことだろう。

 彼女を信じると、翔雲はもう決めている。後宮にあっては、無条件に信じる者がいなくては息をすることさえ儘ならぬだろう。だから、あとはいかに彼女を守るか、だけだ。


 そしてそれも明日になってからのこと、楊奉御とかいう宦官のことも、調べなければならないだろうが──


「そなたは何よりも誰よりも俺を安らがせてくれる。──安らがせて、くれ。何も言わずに……」

「──はい。翔雲様……」


 今はただ、愛する者の温もりを感じて眠りたい。そう囁くと、香雪は微笑んで翔雲を抱き締めてくれた。

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