第3話 喜燕、望まぬ役どころ
「──役立たず」
瑛月は
ただ、零れた酒が頭から
瑛月の鋭く尖った声が、容赦なく喜燕に突き刺さる。
「あの娘は、卑しい市井の役者の娘だということじゃない。
「申し訳ございませんでした。あのような舞は、陛下の御前で演じるのに相応しくないと思ったので──」
喜燕の弁明は、嘘だった。
あの試験の時、彼女は戸惑うばかりで何を演じるか思い当ってもいなかった。馴れ馴れしく話しかけてきた
(負けた。あの子に、完全に負けた……!)
瑛月の怒りも叱責も侮蔑も道理だ。
「そうね? あの娘が度を越えた恥知らずだったとも言えるでしょう。けれど、役者とはなべて恥を知らないものなのではないかしら。人前で大声で唄ったり、脚を上げたり広げたり──そなたの恥など大したものではなかったのではなくて?」
「仰るとおりでございます。私の不明でございました」
瑛月が言う理屈は、本当は支離滅裂だ。燦珠の舞が後宮に相応しくなかったのを認めるのなら、喜燕が同じことをしていたら趙家の面目にも関わることになっていただろう。
とはいえ指摘するような勇気は喜燕にはない。何より、彼女の失態は弁明しようのないことだと、自分自身が誰よりもよく分かっていた。
(卑しい舞なんかじゃなかった。……すごかった)
確かに、正式には名前もない、基本の動きを組み合わせた即興の演技ではあった。
描き出すのも、庶民の女の日常の暮らしでしかなかった。衣装も、ほかの候補者と変わらない簡単な
それでも、燦珠という娘の舞は見る者を魅了しただろう。
活き活きとして愛らしくて、愛嬌があって。朝の情景が、ありありと浮かんだはずなのだ。太陽の光が感じられて、鶏の鳴き声が聞こえたはずだ。
たとえ尊い方々には分からなかったとしても、触れるものすべてを愛おしんで、仕事のひとつひとつを楽しむ娘の姿は好ましく見えただろう。皇帝が合格を出したのは、そこを認めたからではないのだろうか。
(……そうだ、楽しそうだった)
もう何度目だろう、目蓋に焼き付けた燦珠の舞と笑顔を思い起こして、喜燕はひっそりと得心した。
あんな無理難題を課せられて、皇帝の御前で。それでもあの娘はとても楽しそうだった。喜燕は、あれほどの笑顔で演技に臨んだことがあっただろうか。悲劇でも笑うべきだということではなくて、役者として何かもっと──
「本当に分かっているのかしら。役者は、口が上手いものなのでしょうね?」
針を突き立ててから
「正直に答えなさい。陛下の出題が悪かっただけ、よね? まともなお題でまともに踊れば、そなたはあんな娘に劣ったりしない。そうよね?」
「はい。もちろんでございます」
燦珠という娘と張り合って勝つ自信など、欠片もなかった。彼女にはあんな勇気も度胸もない。
それを承知していながら、けれど喜燕は嘘を重ねた。それ以外の答えなど、求められていないからだ。
「では、もう一度だけ、そなたに機会をあげましょう」
瑛月は、例によって喜燕に実際舞ってみせろとは言わない。だから、彼女の受け答えの重みは喜燕の肩にだけ、ずしりと
(でも、これでまた舞える……?)
不安と恐怖に目の前が暗くなる中、それは一筋の希望であり光だった。喜燕は、まだ踊りたかった。
良い
瑛月の機嫌を損ねることを思えば、指一本たりとも動かすべきではないけれど、喜燕の体温は高まり、鼓動も速まって全身の筋肉が動きたいと訴えている。
でも──無言で控えていた教師役の老女が、ここにきて口を開く。演技についてと同様に、喜燕に教えを授けようというかのように。
「梨燦珠には秘華園で
「後宮の
言葉では慈悲を垂れながら、瑛月ははっきりと燦珠を嘲っていた。
確かにあの娘は後宮のことも秘華園のことも何も知らないのだろう。競争相手の喜燕に、満面の笑みで話しかけたくらいなのだから。彼女の名前を褒めたりして──あの娘のほうこそ、誰よりも喜びを溢れさせて軽やかに舞ったのに。
「私は、
それに引き換え、喜燕はまたも舞う機会さえ得られない。
役は与えられても、舞台に上がるのではなく人を陥れるためだ。
秘華園で、
「
「振り付けは、
「はい……」
謝貴妃に愛され、すらりとして麗しいと評判の秦星晶。かつて後宮で名声を欲しいままにしたという宋隼瓊。
きらきらしい名前を立て続けに聞かされて、喜燕の目の前で火花が散った気がした。
皇太后は、亡くなった先帝に劣らぬ
瑛月が《
(趙貴妃様が警戒なさるのも、当然……?)
秦星晶の演技を見たことはないけれど、燦珠はきっと見る者を魅了するだろう。ただ──どうして皇帝ではなく皇太后なのだろう、とは引っかかる。
喜燕が覚えた疑問を、瑛月たちはまったく抱いていないようだった。
「そなた、梨燦珠の舞を盗みなさい。そうして、あの娘をどうにかするのよ。代役で上手く踊れば、皇太后様のお褒めの言葉はわたくしのもの……!」
「皇太后様の御言葉があれば、
ふたつの声に命じられて、否を言わせぬ圧に頭を抑えられて。喜燕が問いを返すことなどできるはずもない。
(皇太后様は老齢なのでは……?)
先帝は、四十年に渡る長い治世を敷いた──それだけの年月、芝居をたっぷりと楽しんだ末に崩御した。
その皇后であった御方は、すでに齢七十を越えているはず。皇帝の
(貴妃様たちが考えていないはずもない、けど)
喜燕の出過ぎた考えは、けれど老女の低い声によって遮られた。唄えば鳥の囀りのような高音も巧みに操る癖に、こういう時の声は醜く
「教えたことは、忘れてはおらぬな?」
「……はい」
あるいは、その声によって思い出させられたことこそが、喜燕の胸を引っ掻くのかもしれないけれど。老女の教えは、忘れもしない。
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