三章 秘華、輝きに翳の落つ
第1話 翠牡丹、玲瓏たり
選抜試験から一夜明けて、
「──そなたはこれからは
「はい」
「気になることは?」
「今のところ、ありません」
燦珠の
いずれにしても、居心地は悪くないようだから安心した。何より、芝居に専念できる環境だというならこれ以上は望まない。
「では、これを」
燦珠の手に授けられたのは、
(すごい……硬い翡翠をこんなに綺麗に彫るなんて)
宝玉そのものの価値に加えて、この精緻な細工。それだけでも小娘の手に収めておくのはもったいない逸品なのに、この牡丹にはさらに重要な権威を帯びているのだという。
案内役を務めていた女は、目を丸くする彼女を見て満足そうに微笑した。
「
「はあい。すごいんですね?」
言われてよく見れば、牡丹の裏側には
紐を通して
燦珠が対峙する女も、
小娘ではないのは確かだけれど、髪は黒く、化粧っ気も薄いのに肌には張りがあって、年老いているとも思えない。何より、官吏のように身体の線を隠す
(
見る者に男女の別を迷わせる妖しく不思議な美しさは、
けれど、
霜烈の声が滑らかな
「妃嬪様がたの
「分かりました」
隼瓊が語る内容も、
「あの……
「
「──
燦珠がめげずに問い直すと、隼瓊は口元を少しほころばせた。
「そう。若いころは
「そんな。とてもお綺麗なのに」
隼瓊の長い指が触れるその頬に、皺なんて見えない。それは、もっと若いころはものすごく綺麗だったのだろう、とは思うけれど。
演技でもお世辞でもなく目を瞠った燦珠に、その不思議な美しさを持つ人はさらりと頷いた。
「ありがとう」
短く端的な礼は、燦珠の言葉を謙遜なく受け止めているからだと聞こえた。隼瓊は、たぶん年齢による変化を嘆くことなく、自身の今の美に自信を持っているのだ。実に格好良い。
(
隼瓊は、父の
女の役者なんて、とか
「──昨日、女の子がたくさんいるって感動したんです。でも、あの子たちの中にも男を
なぜか得意な気分になりながら、燦珠の口は止まらない。出された茶菓に手を付ける暇もなかった。寝食のことはさておいても、秘華園とその
「練習は、どのようにするんでしょうか。
「落ち着きなさい」
「はい! でも、
「落ち着きなさい」
燦珠が本当に落ち着いたのは、二度
隼瓊は苦笑してはいるけれど、頭ごなしに叱ったり小娘のはしゃぎようを嗤う気配はない。順々に答えを与えてくれると直感したからこそ、この麗人が首を傾けて言葉を選ぶ風なのを待つ気になれた。
燦珠の熱い眼差しを浴びながら、隼瓊はゆっくりと唇を開く。
「貴妃様がたはそれぞれ
「なるほど……」
燦珠の相槌に、隼瓊は試すような微笑で応じた。
「
「いいえ! いつも父や
「ああ、そなたは役者の家の出だったな。
「はい。なので身内優先なのは分かりますし仕方ないですし」
金や
「要するにできるって思ってもらえれば良いんですよね? 天子様にも認めていただいたんだから、貴妃様だって……!」
燦珠が続けた言葉は秘華園のほかの
生意気な大言壮語はさすがに怒られるかもしれない。
手の中に抱えたまま、体温ですっかり温まった翡翠の牡丹を握りしめながら挑むように隼瓊を見つめると──けれど、思いのほかに柔らかく優しい眼差しが返ってくる。
「確かにあれは見事であった。陛下は全員落とすつもりでいらっしゃったのだろうに。……造らせた
「……やっぱり天子様は
役者の大先輩からの称賛も、手放しで喜ぶことはできなかった。秘華園からも、皇帝のあの出題は無理難題のつもりだと解釈されているらしい。応えることが可能かどうかではなく、あの御方の意思としては、ということだ。
前途多難を思って溜息を吐く燦珠に、隼瓊は励ますように明るい声を上げた。
「私が言いたいのは、そなたはとても目立った、ということだ。端役と言わず、すぐにでも指名がかかるやも──」
「隼瓊
と、隼瓊の艶のある声を遮って、扉を開く音が響いた。同時に、これもまた張りのあるのびやかな声が。
「新しく入った子のことでお話が──ああ、ちょうど良かった」
扉のほうを見やれば、長身の人影が佇んでいる。
隼瓊と同じく、細くしなやかな身体を袍衣に包み、髪を男の髷に結った、男装の麗人が。帯に提げた
彼女は燦珠の姿を認めてかふわりと微笑む。この短い間によく見るようになったけれどまだ慣れない、美しく妖しく、胸が騒ぐ綺麗な笑みだ。
(なんか、また出てきた!)
燦珠の心中の叫びは聞こえていないのだろう、新たに現われた綺麗な人は、軽やかに長い脚を操ると、ごく滑らかな所作で座る彼女の傍らに跪いた。
間近に見下ろすと、整った白皙の顔立ちは意外と若く、燦珠よりほんの少し年上なだけではないか、と見える。とにかくも、朝日を浴びて伸びる
その美人が、燦珠を見つめて囁きかける。
「君と、踊りたいと思ったんだ」
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