二章 花旦、乱麻を断つ
第1話 喜燕、平伏する
後宮の一角、
「この娘で、本当に大丈夫なの? 陛下はあの調子でしょう? 合格者の数は絞ると思うのだけど?」
やや高い位置から聞こえる涼やかな声は、
顔を上げることを許されない喜燕には、瑛月の仕草や表情など見えないけれど、声の調子だけでも優美さを極めた貴婦人がしどけなく寛ぐ様が容易に浮かぶ。
「ご心配には及びませぬ。趙家が見つけ出し磨き上げてきた中でも、この娘は出色の
対して、低いところから聞こえるやや掠れた声は、喜燕の隣に同じく平伏した老女が発するものだった。
今でこそだいぶ萎びているけれど、この女もかつては秘華園で皇帝や皇后から称賛を賜ったこともあるのだとか。長年にわたって女の
そうして趙家の貴妃は常に喜雨殿に君臨する。
「なら、良いわ。そなたが言うならそうなのでしょう」
「まだ十七と若輩ですが……
老女が言うのは、瑛月が皇太后に献じたという《
(……
平伏した体勢のまま、発言はおろか身じろぎすることさえ許されていないまま、喜燕はそれでも手足の指や背や腹の筋肉をぴくりと波立たせた。
「あら、そんな大役はあげられないわ。その娘は
「ああ、さようでございましたね」
ほんのりと上がりかけた喜燕の熱は、瑛月の軽やかな笑い声によって冷水を浴びせられた。
室内に甘い香りが漂ったのは、身体を温める効果のある
「沈昭儀は後宮のことを何もご存知ないとのことですから。貴妃様のご厚意にはさぞ感謝なさるでしょう」
「ええ、本当に。色々と、教えて差し上げなければね?」
つまりは、後宮における力関係と上下関係を、ということだろう。
季節の折々に、何らかの慶事や式典や戦勝にかこつけて。後宮では種々の舞台が催される。
目の肥えた皇帝を楽しませるために、常に新しい演目を完璧な練度で献じなければならない。それは、後宮の妃嬪が一丸となって遂行すべき義務であり、携わることができるのは名誉でもある。
豪奢な衣装や一流の
皇帝の意図はこの際あまり関係ない。即位したばかりの、皇宮育ちでない若造に何ができる、という訳だ。事実、瑛月の声にも、皇帝に対する敬意や
「陛下にも、だけれど。お傍に召しておきながら
言葉では沈昭儀を哀れみながら、瑛月が内心ではほくそ笑んでいるのが喜燕にもよく伝わってきた。皇帝が、新しい寵姫に
(私は沈昭儀の枷になり、同時に
喜燕の顔見せの席のはずが、瑛月が彼女に声をかける気配はない。けれど、あからさまに命じられずとも、彼女には貴妃の、ひいては趙家の意図がよく分かった。
後宮でのもろもろの行事には抱えの
だから、裕福かつ伝統ある名家は後宮に入った女に慈悲深くも
趙家が育てた役者は、趙家の命令しか聞かない。本当の主が禁じれば、仮の主のために演じることはない。
すなわち
(信頼されて、選ばれた。だから名誉なことだ……)
たとえ演じることを期待されていないとしても。ううん、最低限、選抜を通る実力がなければこの役を任せられることはないのだから、実力も評価されてのことのはずだ。
何より、趙家の屋敷奥でひたすら怒鳴られ打たれるか、あるいは見切りをつけられて放逐されるかするよりは、とにかくも後宮に居場所が与えられるのは喜ぶべきことだ。
精緻な敷物の織り目を数えながら、喜燕が自分に言い聞かせるうち、瑛月は何かしらに満足したようだった。さやさやという滑らかな衣擦れの音が、貴妃が立ち上がったことを教える。
「まあ、試験のことは任せましょう。期待に応えてちょうだいね」
「は。必ずや……!」
瑛月は最後まで喜燕に話しかけなかった。答えたのも、教師役の老女だった。舞えとか歌えとか、命じられさえしなかったのは──それは、信頼の証だったのだろうか。
* * *
貴妃の部屋を辞した喜燕は、殿舎の一角で
「試験では、陛下より題が出される。
「恐れ入ります」
「たとえ
「はい」
教師役の老女の言葉は単純な事実だと思ったから、喜燕はやはり単純に頷いた。教え子の反応を満足げに見てから、老女は珍しく口の端に微笑みらしきものを浮かべた。
「最後に、そなたに教えることがある」
「はい……?」
さすがにひとり部屋がもらえたが、
「
何のことはない、
(言われるまでもない)
仰々しい前置きの割に、くだらないことを言い聞かされた。拍子抜けして失笑に似た微笑みを浮かべながら、喜燕は頷いた。
「はい。心得ております」
「だろうとも。だからそなたを推したのだ。
けれど、姉妹同然に育った少女の名を出されて、喜燕の笑みは凍り付いた。
玲雀は──喜燕と同じく舞が得意だった。そして、いつも喜燕よりも少し高く跳んで、少し速く回って、それから、彼女に比べてどうしようもなく目の演技と指先のしなやかさが優れていた。
ある日の鍛錬で、跳躍から着地しようとした瞬間に均衡を崩し、足の腱を断つ怪我をするまでは。
「あの子は……運が悪かったですね……」
「そなたは運に恵まれているな」
かつてなくにこやかに微笑んだ老女に、喜燕は無言で拱手の挨拶をした。さっさと休ませて欲しい、という意味だ。彼女がしたことを承知していると仄めかした相手と、一秒たりとも同じ部屋にいたくなかった。
喜燕は、彼女が秘華園の選抜試験に推された本当の理由をようやく悟った。
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