二章 花旦、乱麻を断つ

第1話 喜燕、平伏する

 後宮の一角、喜雨きう殿の一室にて──平伏するさい喜燕きえんの頭の上を、ふたつの女の声が行き来している。


「この娘で、本当に大丈夫なの? 陛下は調子でしょう? 合格者の数は絞ると思うのだけど?」


 やや高い位置から聞こえる涼やかな声は、長榻ながいすに身体を横たえた喜雨殿の女主人、ちょう貴妃きひ瑛月えいげつのもの。

 顔を上げることを許されない喜燕には、瑛月の仕草や表情など見えないけれど、声の調子だけでも優美さを極めた貴婦人がしどけなく寛ぐ様が容易に浮かぶ。


「ご心配には及びませぬ。趙家が見つけ出し磨き上げてきた中でも、この娘は出色のぎょくでございますから。花旦むすめやくとして秘華園ひかえんに花を添えることと──陛下とて認めぬ訳には参りませんでしょう」


 対して、低いところから聞こえるやや掠れた声は、喜燕の隣に同じく平伏した老女が発するものだった。


 不打ブーダー不成材ブーチョンツァイ──叩かなければものにならない、の標語のもとに、鞭や棒で打ったり食事を抜いたり、冷水をかけたり罵ったりするを「磨き上げる」というのかは知らないけれど、確かに喜燕は鍛え抜かれては、いた。


 今でこそだいぶ萎びているけれど、この女もかつては秘華園で皇帝や皇后から称賛を賜ったこともあるのだとか。長年にわたって女の戯子やくしゃを抱えてきたちょう家は、今や教師役にもこと欠かない。舞台を退いた女たちは後進の指導にあたり、また新たな戯子やくしゃを後宮に、秘華園に送り込むのだ。


 そうして趙家の貴妃は常に喜雨殿に君臨する。戯子やくしゃたちに捧げられる褒美や称賛や喝采を、吸い上げるようにして。


「なら、良いわ。そなたが言うならそうなのでしょう」

「まだ十七と若輩ですが……仙狐せんこ役を舞わせるのもまた新鮮味があるかと存じます」


 老女が言うのは、瑛月が皇太后に献じたという《掲露狐精ジエルーフージン》のことだろう。《酔芙蓉ズイフーロン》を参考にした、酔った仙狐の振り付けは難しい役どころと聞いている。


(……ってみたいな……)


 平伏した体勢のまま、発言はおろか身じろぎすることさえ許されていないまま、喜燕はそれでも手足の指や背や腹の筋肉をぴくりと波立たせた。


 うた

 セリフ

 しぐさ

 たちまわり


 華劇ファジュの基本である四功スーゴンの中でも、喜燕はたちまわりに含まれる舞踏が得意だった。

 ツバメの字を名に抱いているからか、彼女のほっそりとした身体は軽くしなやかで、手足もすらりと長くて、同輩の少女たちによく妬まれた。秘華園で既に名を上げた戯子やくしゃにも引けを取らないと自負しているけれど──


「あら、そんな大役はあげられないわ。その娘はしん昭儀しょうぎに貸して差し上げようと思っているもの」

「ああ、さようでございましたね」


 ほんのりと上がりかけた喜燕の熱は、瑛月の軽やかな笑い声によって冷水を浴びせられた。


 室内に甘い香りが漂ったのは、身体を温める効果のある竜眼ロンガンを使った薬茶だろう。珍奇な果物は、干乾びさせられて煮出された後は捨てられるのだ。瑛月にとっての戯子やくしゃなど、きっと竜眼ロンガンの搾りかすと同じていどのもの──とは考え過ぎだろうか。


「沈昭儀は後宮のことを何もご存知ないとのことですから。貴妃様のご厚意にはさぞ感謝なさるでしょう」

「ええ、本当に。、教えて差し上げなければね?」


 つまりは、後宮における力関係と上下関係を、ということだろう。

 栄和えいわ国の後宮では、美貌や教養や皇帝からの寵愛よりも、抱える戯子やくしゃの質と数が妃嬪ひひんの力になる。秘華園ができてからの百年弱──ことに、芝居狂いと名高い先代の文宗ぶんそう帝の御代の間にそうなった。


 季節の折々に、何らかの慶事や式典や戦勝にかこつけて。後宮では種々の舞台が催される。

 目の肥えた皇帝を楽しませるために、常に新しい演目を完璧な練度で献じなければならない。それは、後宮の妃嬪が一丸となって遂行すべき義務であり、携わることができるのは名誉でもある。


 豪奢な衣装や一流の伶人楽師を用意するのは実家の後ろ盾に恵まれた貴妃でなくてはできないにしても、戯子やくしゃのひとりも出せない癖に妃嬪に名を連ねようとは図々しいにもほどがある。──と、後宮の倣いを知る者は当然のようにそう考えているのだ。


 皇帝の意図はこの際あまり関係ない。即位したばかりの、皇宮育ちでない若造に何ができる、という訳だ。事実、瑛月の声にも、皇帝に対する敬意やおそれは聞き取れない。


「陛下にも、だけれど。お傍に召しておきながら戯子やくしゃはやらぬ、だなんて──沈昭儀もお気の毒に」


 言葉では沈昭儀を哀れみながら、瑛月が内心ではほくそ笑んでいるのが喜燕にもよく伝わってきた。皇帝が、新しい寵姫に戯子やくしゃを下賜する気遣いを見せていたなら、きっとそのほうが貴妃にとっては面倒な事態になっていたに違いないから。


(私は沈昭儀の枷になり、同時に間諜スパイも務めることになる……)


 喜燕の顔見せの席のはずが、瑛月が彼女に声をかける気配はない。けれど、あからさまに命じられずとも、彼女には貴妃の、ひいては趙家の意図がよく分かった。


 後宮でのもろもろの行事には抱えの戯子やくしゃが不可欠とはいえ、すべての妃嬪にその伝手や財力がある訳ではない。

 だから、裕福かつ伝統ある名家は後宮に入った女に戯子やくしゃを貸し出すことがある。むろん、額面通りの厚意と受け取る愚か者が後宮で生き延びられるはずもないだろうが。


 趙家が育てた役者は、趙家の命令しか聞かない。主が禁じれば、仮の主のために演じることはない。

 すなわち戯子やくしゃを借りた妃嬪が後宮でつつがなく過ごすには、趙家の顔色を窺わなければならなず、貴妃を差し置いて寵愛を独占するなどもってのほか、ということになる。当然のように戯子やくしゃは貸し出された先での出来事は漏らさず報告する役目も帯びる。


(信頼されて、選ばれた。だから名誉なことだ……)


 たとえ演じることを期待されていないとしても。ううん、最低限、選抜を通る実力がなければこの役を任せられることはないのだから、実力も評価されてのことのはずだ。


 何より、趙家の屋敷奥でひたすら怒鳴られ打たれるか、あるいは見切りをつけられて放逐されるかするよりは、とにかくも後宮に居場所が与えられるのは喜ぶべきことだ。


 精緻な敷物の織り目を数えながら、喜燕が自分に言い聞かせるうち、瑛月は何かしらに満足したようだった。さやさやという滑らかな衣擦れの音が、貴妃が立ち上がったことを教える。


「まあ、試験のことは任せましょう。期待に応えてちょうだいね」

「は。必ずや……!」


 瑛月は最後まで喜燕に話しかけなかった。答えたのも、教師役の老女だった。舞えとか歌えとか、命じられさえしなかったのは──それは、信頼の証だったのだろうか。


      * * *


 貴妃の部屋を辞した喜燕は、殿舎の一角でげじょに混ざって休むように言われた。


「試験では、陛下より題が出される。うたの時もあれば舞の時もあるが、そなたのために、貴妃様は舞をねだってくださるという」

「恐れ入ります」

「たとえうたでも、そなたならば問題なかろうが」

「はい」


 教師役の老女の言葉は単純な事実だと思ったから、喜燕はやはり単純に頷いた。教え子の反応を満足げに見てから、老女は珍しく口の端に微笑みらしきものを浮かべた。


「最後に、そなたに教えることがある」

「はい……?」


 さすがにひとり部屋がもらえたが、げじょの寝起きする一角は手狭だった。

 うたセリフの手ほどきにしても、大声を出してはさぞ迷惑だろうに。眉を寄せかけた喜燕の耳に、老女は色褪せた唇を寄せてそっと囁いた。


同行トンハンシィ冤家ユアンジャー──役者同士はかたき同士と思え。天女のごとき舞手まいても愛らしい花旦むすめやくも、気品ある青衣ひめぎみやくも、秘華園では敵なのだ」


 何のことはない、華劇ファジュの技ではなく心構えの話だったらしい。


(言われるまでもない)


 仰々しい前置きの割に、くだらないことを言い聞かされた。拍子抜けして失笑に似た微笑みを浮かべながら、喜燕は頷いた。


「はい。心得ております」

「だろうとも。だからそなたを推したのだ。玲雀れいじゃくの足が無事だったなら、また話は別だったが」


 けれど、姉妹同然に育った少女の名を出されて、喜燕の笑みは凍り付いた。


 玲雀は──喜燕と同じく舞が得意だった。そして、いつも喜燕よりも少し高く跳んで、少し速く回って、それから、彼女に比べてどうしようもなく目の演技と指先のしなやかさが優れていた。

 ある日の鍛錬で、跳躍から着地しようとした瞬間に均衡を崩し、足の腱を断つ怪我をするまでは。


「あの子は……運が悪かったですね……」


 セリフそらんじるつもりで、喜燕は他人の役を演じるかのように呟いた。床の滑り止めのロウも、塗り過ぎればかえって危ないもの。玲雀が好んで踊った場所に限って、が掃除の加減を間違えたのだ。それに、玲雀の靴がすり減っていたところだったのも災いした。そう、運が悪かったのだ。


「そなたは運に恵まれているな」


 かつてなくにこやかに微笑んだ老女に、喜燕は無言で拱手の挨拶をした。さっさと休ませて欲しい、という意味だ。彼女がしたことを承知していると仄めかした相手と、一秒たりとも同じ部屋にいたくなかった。


 喜燕は、彼女が秘華園の選抜試験に推された本当の理由をようやく悟った。


 同行トンハンシィ冤家ユアンジャー──役者同士は仇同士。言われるまでもなくその真理を悟り、しかも実践できているから、だったのだろう。

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