第6話 燦珠、初めて酔う

 父、詩牙しがが注いだ酒を、燦珠さんじゅは盃を両手で捧げ持つようにしてじっくりと味わった。


 金木犀キンモクセイの花を漬けて寝かせた桂花陳酒けいかちんしゅ。酒自体も甘口なところに、華やかな花の香りが口から鼻に抜ける。


 美味しい。

 でも、果汁や蜜を加えた茶と違って、甘いだけではない。


 舞踏に慣れていないころに、くるくると回ってみた時のように、視界がくらりと揺れる。落ち着いて腰を下ろしているはずなのに、ひと芝居演じ切った後のように頬は熱く、胸もどきどきとして──なるほど、これが酔うということか。


(《酔芙蓉ズイフーロン》を舞う時の参考にしよっと)


 考えながら、燦珠は開いた盃を卓に置いた。


 時が経つほどに色を変える花の姿を、酩酊した美姫の色香に喩えた演目だ。

 幾重にも重ねた衣を脱ぎ捨てながら、あえて身体の軸を揺らがせて舞うのだ。倒れる寸前の独楽コマのような回転は、見る分には危うく揺らいで楽しく、演じる側としては倒れないようにするのが難しい。


 酔芙蓉の練習で無様に転ぶと、酔い潰れたと言われて笑われるのだ。

 そういう意味なら、燦珠はもう数えきれないほど酔い潰れている。でも、酔いを感じるのは初めてだった。


 役者たるもの、自ら喉を痛める真似をしてはならないという父の教えに従ってのことだ。

 役者が思いのままに演じることができる時間は、花の盛りのごとくに短いもの。老いや衰えへの恐怖ゆえに酒や女や阿片に縋る者も少なくないけれど、それはかえって役者としての寿命を縮める愚行だと、父は断じていた。


(……だから爸爸パパの酔ったところを見るのは初めてだわ、そういえば)


 燦珠は、酔いを自覚して最後まで盃に両手を添えていた。


 一方の父はというと、手から滑り落ちた盃は無残に倒れて卓上に小さな水たまりを作っている。金木犀の香りがふわりと漂って、燦珠の酔いをいっそう深める。彼女はそれでも心地良いくらいのほろ酔い加減だけれど、父は──


「良いかあ、燦珠……偉い奴らはクソだ。あいつら、役者を人間と思ってない! りゅう爺さんが何をされたか──」


「あ、うん。知事の禿ハゲをネタにしたら鞭打ちの刑になった劉さんね? あと、風邪をひいてたのに踊らされて、肺炎になっちゃった青蘭せいらん小父さんも、刑部尚書しほうだいじんの夫人に誘われたのを断ったら襲ったことにされた詩瑛しえい兄さんも──三回くらいずつ聞いた、かな?」


 燦珠は明朝、家を出て後宮に入る。血の繋がった家族は父だけでも、兄弟弟子は大勢いるし、常に家を出入りする役者仲間や裏方、茶館げきじょうの関係者も多い。そんな家族同然の面々が、別れの宴を開いてくれたのだ。


「ね、爸爸パパ。それくらいにしといたら? 宿酔ふつかよいって、辛いんでしょ?」


 呑んで食べて、歌って踊っての宴は果てて、父も珍しく盃を重ねていた。

 酒を吞まなければやっていられない、ということだったのかもしれない。深夜を回って大庁ひろまにはすでに彼女たちのほかに人影はなく、管を巻く父の相手は燦珠の手には少々余る。


(酔っ払いって嫌われるはずだわ……)


 同じ話に何度も相槌を打つのが面倒な一方で、日ごろ観客の悲鳴と歓声を浴びて凛々しい父の、珍しくだらしない姿はしっかりと見ておきたいとも思ってしまうから、燦珠はまだまだ休めそうにない。


「役人や金持ちていどで、それだ! 皇帝やその女房や取り巻きなど、もっとタチが悪いに決まっている……!」

「そうねえ。そうかもねえ」


 それにこれは、父が娘を秘華園ひかえんに行かせたくなかった本当の理由だ。

 頑迷なだけではなく、屁理屈だけではなく、娘を案じる想いもちゃんとあったらしいと分かったから、大虎よっぱらいタチの悪さにも関わらず燦珠の機嫌は悪くなかった。


「でも、爸爸パパ。それって私には贅沢な悩みだわ。そんな怒りも悔しさも、痛みも苦しみも──舞台に立てればこそ、じゃない。こう思うのは、私が世間知らずだからかしら?」


 きっと答えは是、のはずだ。


 燦珠にとって、父たちの演じる姿は誇らしく憧れの眼差しで見るものであって、いやしい稼業と蔑み侮る者がいるのは、知識としては知っていても納得はしていない。

 梨詩牙の娘にそんなことを面と向かって言うほどの無礼者に、御目にかかったことはない。それは、甘やかされてはいるのだろう。


(でも、私が聞くと思ってたら最初から言っているはずだしね?)


 役者は苦労するだけだなんて、説得力がないにもほどがある。父にも分かっていたのだろう。


 ひどい話は売るほど見聞きして──もしかしたら父自身も味わっているかもしれないのに、それでも演じ続けるのだから。言ったところで燦珠を止める役には立たないと思っていたからこそ、父はこれまでこの手のことを胸にしまっておいたのだろう。


 どうだ、と。卓にと溶けたような有り様の父に胸を張る──と、酒精にとろりとしていたその双眸が、ふいに冴えた。


千練チエンリエン不如ブールー一串イーチュアン──千回の鍛錬も一度の実演には及ばない」


 泥酔していたはずなのに、舞台の上でうたうような、厳かな声で明瞭な発音だった。燦珠が思わず背筋を正すほどの。


 聞くは見るにかず、見るは鍛錬にかず、そしていかに鍛錬しても実際に舞台に立たなければ分からないこともある。


 だから燦珠はまだ、舞台の何たるかを本当には分かっていない。道端や街角で耳目を集めるていどでは、まだ何も。でも、裏を返せば──


「……お前の鍛錬は千では聞かないのだから、一度舞台に立てばだろう」

爸爸パパ……!」


「教えた技を存分に使え。……梨一門に女の役者はいないのだから。それは、お前だけの技だ」

「……ありがとう。うん……でも、私は梨詩牙の娘だもの。爸爸パパの名前を後宮にも轟かせてやるわ!」


 当代一の名優から、思いもかけない賛辞と激励と餞別せんべつを贈られた。その高揚に駆られて、燦珠は椅子を蹴倒して立ち上がった。頭と足もとがふらつくのを堪えて、拳を握り腹筋に力を入れる。


「ええ。私、やってみせるわ。天子様に私の芸を認めさせてやるんだから!」


 酔った勢いも手伝って、燦珠の大声は大庁ひろまに高く響いて屋敷を揺らした。父の頭も揺らしたようで、苦しげなうめき声が聞こえたけれど──明日からの日々で頭がいっぱいの燦珠はそれほど気にしなかった。


      * * *


 皇宮の城壁は、高いだけでなくとてつもなく分厚いのだと、そこを通り抜ける時になって燦珠は初めて知った。


(まるで隧道トンネルね……!)


 頭上を塞ぐ石材の圧迫感からか、前方に丸くり抜かれたような出口の灯りは、遥か遠くに見える。彼女の一歩先を歩くよう霜烈そうれつの黒衣も闇に紛れてしまいそうだ。


 楊霜烈は、朝早くに梨家の屋敷に燦珠を迎えに現われた。

 あの市場での出会いから数日が経っているけれど、彼のほうでも、新たに後宮に役者候補を入れるにあたって根回しや手続きがあったらしい。


の者を戯班げきだんに入れるのは少々面倒なのだ。だが、そなたならば問題なかろう』


 詳しくは後宮に入ってから、と聞いているけれど、霜烈の口振りからは実技試験でもあるのではないかという気配がした。


(それなら確かに問題ないわね!)


 燦珠は自分の技量に絶対の自信を持っているし、何であれ演じる機会があるなら望むところだ。よって彼女のほうからも詳細を尋ねる必要は感じていない。いつでもどこでも何の役でも、彼女は演じる準備ができているのだから。


「──そろそろだ」


 と、低い、天鵞絨ビロードの響きをした声が燦珠の耳をくすぐった。


 暗闇の中にちらりと煌めいたのは、こちらを振り向いた楊霜烈の流し目だ。陰に沈んでいても分かる整った顔立ちに──それに、新しい世界に足を踏み入れる予感に燦珠の鼓動が早まっていく。


「え、ええ」


 強がって頷いた瞬間に、眩い光が燦珠の目を射る。隧道めいた暗い通路を抜けて陽光の下に出たから、だけではない。


「わ──」


 遠目にもその至尊の色を空に映していた黄色の瑠璃瓦るりがわらは、間近に見るとなお明るく眩しく誇らしく輝いている。壮麗な建物の数々がいただいた、宝冠ででもあるかのように。


 白い石畳、朱塗りの柱、壁を彩る精緻な彫刻。いずれも染みひとつなく美しく輝かしく、奉天ほうてん承運しょううんの皇帝の御座所の権威を、もの知らずの小娘にも余すことなく伝えていた。


 目を瞠り、口を開けて立ち竦む燦珠に少し微笑むと、霜烈はうやうやしい眼差しで、石畳の広場の奥に鎮座する宮殿を示した。


「あれが、外朝がいちょうの中心たる泰皇殿たいこうでんだ。もろもろの式典の際はそこの広場に官吏が参じて一斉に拝跪はいきするのだ」

「科挙の発表とか、将軍の拝命とかも!?」


「そう。《探秘花タンミーファ》と《李潤掛師リールングアシー》だな。ここが舞台になったという訳だ」


 燦珠が突然目を輝かせた理由を正しく察して、霜烈は彼女が思い浮かべた華劇ファジュの演目を挙げてくれた。


「そっかあ、ここが……!」


 今の広場は、建物の巨大さに比すればアリのような小ささに見える官吏だか宦官だかがぽつぽつと行き交うばかり。それでも、数々の逸話や物語の舞台になった場所だと思うと燦珠の唇からは感嘆の息が漏れた。


「皇宮に足を踏み入れたらここを見ておくべきだろうと思ったのだ。後宮に入れば気軽に出られなくなるからな」

「そう……ありがとう! とても嬉しいわ……えっと、何てお呼びすれば良いの?」


 心からの礼を述べながら、燦珠は今さらな疑問を口にした。


 楊霜烈の名前は知ってはいても、年上の男の名をそうそう気安く呼べはしない。老公だんなさま、もたぶん後宮では適切ではないのだろうし。首を傾げる燦珠に、霜烈は軽く長身を屈めた。彼女の耳に唇を寄せるようにして、教えてくれる。


「楊奉御ほうぎょ、と」

「ほうぎょ?」

宦官かんがんの最下級の役職だ。同姓の者もいるが、まあ背格好や年ごろで分かるだろう」


 言われて、燦珠は改めて霜烈の姿を改めてしげしげと眺めた。整った容貌に、凛とした佇まい──確かに、こんな人はそうはいない。


(でも、最下級ですって……?)


 どう見てもだけど、まあ後宮には色々と事情があるのかもしれない。


(私は芝居ができればそれで良いし……!)


 楊霜烈はその伝手がある人間で、しかも華劇ファジュ好きの戯迷芝居オタクだ。ならばこれ以上深く考える必要はないだろう。


「では、こちらへ──」

「はあい」


 という訳で、燦珠は足取りも軽く、楊霜烈の背を追って使用人のためと思しき、装飾の控えめな通路を進んだ。

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