第2話 燦珠、本物に逢う
貴妃以下の妃嬪たちが住まう各宮殿はさらに小さく、似たような造りの建物が軒を連ねる様は
もちろん、庶民の家々とは比べるべくもなく、どの建物も美しく贅を凝らした佇まいをしているのだけれど。
(それにしても静かね)
後宮に足を踏み入れてからこのかた、
足音や衣擦れの音でさえも密やかに、どういう技によってか最小限に留めているのではないかと思うほどの静かさだ。まるで、行き交うのは人ではなく影でしかないかのような。
風のそよぐ音や小鳥の
(声を出せないって辛いわあ……!)
今通り過ぎたのは何という建物なのか。あとどれくらい歩くのか。
霜烈に聞きたいことはたくさんあるけれど、燦珠は小声で話すことに慣れていない。唄ったり
(ああ、落ち着かない……!)
暇さえあれば
背筋は伸ばしたいし胸は張りたい。遠慮なく眼差しを向けて首を巡らせて、後宮の何もかもを目に収めておきたいのに。たぶん、それはこの場所では禁忌になってしまうのだろう。
「──呼吸をしているか? 初めてだと息詰まるだろう」
と、霜烈が急に足を止めて振り返ったので、燦珠は彼の胸にぶつかるところだった。
鍛えた身体のお陰でどうにかぴたりと止まった燦珠は、霜烈の身体の向こうに扉が
「
例によって霜烈が綺麗な笑みを見せたのと同時に、精緻な細工の扉が音もなく開いた。、彫刻の鳥が左右に分かれる様は、翼を広げて来客を招くかのようだった。
(……私たちの足音が聞こえてたのかしら? それくらい、待ち構えていたってこと……? そのための静かさなの……?)
幾つもの疑問を抱えながら、
* * *
建物の内部は、
広さと豪華さと美しさについては、よくあるものではまったくないのは、一々言うまでもない。
(貴妃様の下の昭儀様でもこれ、かあ)
それでも、高い壁の内側に入るとここは「誰かのお家」だった。目を瞠る豪奢な調度ではあっても、人の息遣いが感じられる。
だから燦珠にも辺りを見渡す余裕ができた。
「
と、敷地の北側に位置する
霜烈と同じ黒い衣を纏ったその人の背丈は、霜烈の胸の辺りまでしかない。燦珠と比べても少し低いくらいだろうか。背を屈めて歩くのに慣れ切った風がする。深い皺が幾筋も刻まれた顔の中、きょときょとと辺りを窺う目が目立つ。それに、男とも女ともつかない奇妙な高さの声!
(本物の、宦官だ……!)
失礼だとは思いながら、燦珠は目を輝かせてしまう。
別に、霜烈が宦官ではないと思っていた訳ではないけれど。
幸いに、というか、黒衣のふたりは急に熱を帯びたであろう燦珠の目つきには気付いていないようだ。ちょこまかとした足取りで駆け寄ってくる中年の宦官に、霜烈は長身を曲げて目線を合わせて涼やかな微笑を向けている。
「気を揉ませたな、
「そちらが、か──はてさて、救い主になってくださると良いが」
段というらしい宦官の眼差しを受けて、慌てて目礼を返しながら、燦珠は心中で首を傾げた。
(
化粧も衣装もなくても舞台に立てそうな霜烈と、皺だらけな段
いや、段
(……後宮のしきたり、っていうか? 色々あるのかしら)
同門の役者が兄弟の絆で結ばれる、みたいなことが宦官にもあるのかもしれない。
「すぐにも昭儀に会ってもらえるのか? 一服したほうが良いか?」
「要らぬ」
「えっ」
燦珠に尋ねた段
「ここで一服と言ってもかえって休まるまい。それよりも、早く芝居の話をしたいだろう?」
「芝居の話になるの!? もう!? じゃあ行くわ!」
見透かされた悔しさよりも、芝居、の一語の魅力が買った。段
「……まあ、ありがたいことだ。それでは
はっきりと咎められることがなかったのは、新入りゆえに大目に見てくれたのか、霜烈への配慮か──それとも、女の役者は、ここではそれほど大事なのか。
「まったく、当代様の御代になってからというもの──」
「先代様もそれほど良かったかな?」
「……うむ、まあそれはそうなのだが……」
その理由は、黒衣の宦官ふたりが低く囁き交わす中にあるような気がする。どうやら天子様への畏れ多い物言いに、あえて立ち入ることはできなかったけれど。
(そういえば、今の天子様ってお若い方なんだっけ)
興行がなければ鍛錬に励み、
(そっかあ、すべては
今さらながらに気付いても、燦珠は怖気づいたりはしない。むしろ、荘重かつ美麗な黒檀の扉を潜る時も、胸を占めるのは期待と喜びだけだった。
(国のすべてを動かす御方の前で演じる。認められる。やっぱりすごいことじゃない……!?)
* * *
(本物の、
いや、この御方は役者ではなく、天子様のお妃のひとりで、正真正銘のお姫様、なのだけれど。
それでも、香雪の美しく優しく儚げな容姿は燦珠が思い描く
(ああ、勉強になる……)
結い上げた髪の豊かさと艶やかさ。細い
どういう訳か憂いを帯びた眼差しに、わずかに寄せられた柳眉に宿る切なげな色。頬と唇をほのかに染める品の良い紅は、寒中に凛と咲く梅の花のよう。
肌の白さは、名前に恥じず、まさしく香り高い雪に喩えるのが相応しい。華奢な肩にかかる
美しさと気高さを兼ね備える佇まいとはいかなるものか──霜烈が父に語っていた通り、確かにこれは役者として負けてはいられない。
「あの……燦珠? どうかなさって……?」
「あっ、すみません……! あの、つい夢中で、というか癖で!」
おずおずと呼びかけられて──美姫は声も麗しかった──燦珠はようやく
(っていうか、無礼だった……?)
背中に冷や汗をかきながら、霜烈や段
「そう、なの……?」
香雪は、寛大にもふわりと微笑んでくれた。雪を緩ませる陽だまりのような優しい笑みは、けれど一瞬で曇ってしまう。
「……楊
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