第4話 策士、策に溺れる

 父に顔を向けたまま、燦珠さんじゅは見開いた目の端でよう霜烈そうれつの表情を窺った。

 秘華園ひかえんとやらの内情を知るであろう宦官から反論して欲しいと思ったのだけれど──彼は、舞台を観ていた時の穏やかな微笑のまま、口を開こうとはしない。まずは父の言い分を聞こうというのか、それとも──


詩牙しがに会えて感動してるとかじゃないでしょうね……)


 たぶん、この男も相当な戯迷芝居オタクだから。夜の淵のように黒々としっとりとした目に、どうも高揚の熱が宿っているような気がしてならないから。


 名優を前にして燦珠の引き抜きが二の次三の次になっているとしたら、非常に困る。彼女は父の説得に成功したことがないのだから、援護して欲しいものなのに。


 娘の思いに耳を傾けたことがない父は、霜烈を睨みつつ、まだ舌鋒を収めない。


「娘の腕は確かになかなかのものだ。それは認めよう。父として誇らしくもある。男でなかったのが残念でならないし、色目を使う莫迦バカ者さえいなければ舞台に上げたかった」

爸爸パパ……! 初耳なんだけど!?」


 しかも、思いがけない誉め言葉を聞いたものだから、燦珠は大声を上げてしまった。

 役者として唄う時のように、腹筋に支えられた声が楽屋に響き渡る。父が顔を顰めたのは、鼓膜が痛かったのか、それとも娘の口答えが気に入らなかったからか。


「あり得ないことを言って何になる。お前の芸がどうあれ、女というだけで芸妓扱いされるのだ、実際は! 娘が泣くのを見たい親がどこにいる!」

「でも、秘華園は後宮にあるんでしょ? 女だけの戯班げきだんだって──じゃあ、何も心配いらないんじゃない?」


 父と霜烈の間で、燦珠は忙しく首を振った。父の懸念を払拭ふっしょくしたいのと、霜烈からの同意を求めて。

 でも、父の渋面は深まるばかりだし、麗しい宦官は悠然と掛けて高みの見物を決め込んでいる。


「女の遊戯に、お前の技は惜しいと言っているのだ!」

「私も女だけど!?」

「女が女を演じるのと、女が男を演じるのは話が違う!」

「訳分かんないわね!?」


 止める者がいないから、父と娘の言い争いは加熱する一方だ。


 舞台役者として鍛錬を積んだふたりのこと、相手の声に被せるように張り上げた声が楽屋を揺らし、茶の水面を波立たせる。

 忘れものか何かを取りに入った兄弟子が、父娘の剣幕を見て慌てて引っ込んだような気もしたけれど、何しろよそ見をする余裕がないからよく分からない。


 父の拳が、激しく卓を叩いて茶器や化粧道具を飛び跳ねさせる。


「考えてもみろ! なよなよした女のたちまわりに何の見栄えがするものか。非力な女がどれほど鍛錬を積んでも翻転とんぼがえりのキレも跳躍の高さも男には及ばない。細腕でほこを振り回したとて、覇気が伝わるものか」

刀馬旦おんなしょうぐん役だってあるじゃない! っていうか、私は花旦むすめやくなんだから関係なくない!?」

「とにかく! 女でも舞台に上がれずとも、お前は梨一門の一員なのだ。半端な場に混ざっては、一門の名に傷がつく!」

「一門なら舞台に上げてよ! その世話もしないで名前も何もあったもんじゃないわ!」


 父のズルい言い分に、頭に血が上る。目の前までも紅く染まるよう。

 男だ女だという理屈が分からないだけでなく、父は燦珠の矜持をくすぐって丸めこもうとしている、と思う。


(何よ、いきなり持ち上げ出して……!)


 燦珠は早くに母を亡くしている。興行に追われ、かつ、幼い娘の扱いに困った父が、茶園げきじょうや稽古場にも彼女を伴ったのが最初だった。


 頭より高く跳ね上がる爪先、目にも留まらぬ速さの回転、宙を舞う剣に戟、扇に水袖シュイシウ。高く低く、時にか細く、時に勇ましく──楽器よりもなお自在に感情を表すうたの声。それらのすべてが楽しくて、幼い燦珠は見よう見真似で手足を動かし始めたのだ。


 父が面白がって優しく教えてくれたのはごく初めのころだけ、燦珠が華劇ファジュにのめり込むにつれて、教え方は厳しさを増していった。兄弟弟子ならこれくらい簡単だ、なんて言われるのが悔しすぎて食らいついて、お陰で今の燦珠があるのは確かだけれど、誉め言葉なんて父の口からついぞ出たことはなかったのに。


 今になってこんなことを言うのは──娘の調子を狂わせてうやむやにしようとしているに違いない。


 今一度、腹に力を込めて、ここ一番の大声を張り上げようとした時──涼やかな声が父と娘の諍いの隙に割って入った。


「梨詩牙は」


 開けた窓から花の香を運ぶ涼風のようにふわりとさりげなく、それでいてはっきりと、聞き落としようもなく。まったく見事な間の取り方で、楊霜烈は呟いた。


「怖いのかな」

「何だと……!?」


 そうして父の顔色を変えさせて、身を乗り出させておいて、霜烈は燦珠のほうを向いてにこり、と微笑んだ。


「女が演じるにまいめごうけつ見せるには何が必要か──分かるか?」


 声の調子も姿勢もまったく変わっていないのに、霜烈は一瞬にして話の流れを掌握してしまった。


(やっぱりこの人、ただ者じゃないんじゃない……?)


 驚き呆れながら、燦珠は首を傾けた。


「声を低く作ったり、衣装の下に詰め物をしたりとか……?」


 男の役者でも、背丈や体格を補うために靴の底に厚みをつけたり胴に布を巻くことはある。でも、燦珠の答えに霜烈はあっさりと首を振った。


男旦おんながたよりも──実際の女よりも、より美しくしとやかでたおやかな花旦むすめやく青衣ひめぎみやくを横に置けば良い」

「あ──」


 燦珠が息を呑むと同時に、父が音高く舌打ちした。娘の声に、喜色が混じったのを聞き取ったのだろう。


 父から顔を背けて、食い入るように霜烈の麗貌を見つめる燦珠の目も、今はきらきらと輝いているはずだ。官座さじきせきでの時と同じ──この宦官が語る声もその内容も、燦珠の心を絶妙にくすぐるのだ。


「秘華園においてもっとも重要なのは、実は女を演じる役者だ。眼差しひとつ、指先ひとつにいたるまで、優美と典雅を究めるべく研鑽を積んでいる。無論、近くには高貴な妃嬪がいるのだから、所作を学ぶ機会にも不自由しないが、同時に比べられもする。──市井の役者では太刀打ちするのは難しかろうな」

「は? そんな訳ないでしょ。ね。爸爸パパ?」


 女の中の女、後宮の美姫と並んでも遜色ない──あるいはそれ以上の優雅さ。それを体得するのは花旦むすめやくの夢と言って良い。


 その発想に魅了された燦珠には、挑発めいた霜烈の言葉も、発奮を促すものでしかない。浮き立つ思いのまま、燦珠は立ち上がると父に駆け寄るとその耳元に囁いた。さっきは失敗したを再び、である。


爸爸パパ。そういうことなら、やっぱり良い機会じゃない? 市井の役者が後宮の方々の──ひいては天子様の御目に留まるなんて名誉だわ。さっき聞いたんだけど、三階建ての舞台があるんですってよ? その頂点で演じたらそりゃあ気持ち良いと思うの。高さから言っても、天子様に認められたってとこからも、そうなったら国一番で間違いないわよね? 地道に茶園げきじょうや宴席で演じるよりも、分かりやすくて手っ取り早いでしょ?」

「天子様だと!? 莫迦な……!」

「えっ、でも天子様もご覧になるんでしょ? 観ていただくためには競争もあるんでしょ? そこで勝ち抜いたら──すごい、のよね?」


 燦珠が問うたのは、霜烈に対してだ。さっきの話は間違いないんだろうな、と。言葉と視線でのをやはり気に懸けぬ風で、霜烈はあっさりと頷く。


「そうだ。無論、簡単なことではないが、そなたなら不可能ではないだろう。梨詩牙の娘で、あれほどの才を持つ役者ならば。──梨詩牙よ、理屈に溺れたな」

「ぐ……っ」


 霜烈が涼やかに笑った理由──ひいては、父が顔を赤黒く染めて絶句した理由は、燦珠にもよく分かった。


 娘を本当に止めたいなら、女の芸が云々と言い出すべきではなかったのだ。秘華園の女には敵わないだろう、だなんて言い方をされては、当代一の役者としては否定しない訳にはいかない。父は自ら退路を断ったことになる。舞台の上の、らい将軍さながらに。


 今のうちに、と。燦珠はぱん、と手を叩くと高らかに宣言した。


「じゃあ、決まりね? 私、後宮に行くわ。それで、天子様に私の芸を認めさせてやるんだから!」

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