第3話 雷将軍、奮戦する
舞台では話が進み、幼君──を模した人形──を抱えた乳母が切々と落城の悲哀を唄っている。
演じる
(本当に……夢じゃないでしょうね?)
ふと心配になって、燦珠は自分の頬を強く
彼女の唄や踊りを誰かが見出してくれるのを、ずっと夢見ていた。
でも、決して叶わないのも知っていた。父が言っていた通り、女の芸は余興でしかない。父の弟子たちも、彼女の演技を認めはしても同じ舞台に上ることは考えもしないだろう。
「──まるで私のことをよく知っているみたいな言い方ね?」
頬の痛みを確認してから、
そう、この宦官はまるで燦珠の性格を把握しているようなもの言いをしたから、だからこそ都合が良すぎると思ったのかもしれない。
「
そして彼は、蕩けるような声でさらに夢のようなことを言ってくれた。抓るためではなく、今度は紅くなったのを隠すために、燦珠は頬を掌で包んだ。
「そう……探してくれたのね」
霜烈の言う通り──燦珠が街角で舞い唄ったのは今日が初めてのことではない。
頑固な父の心を動かすか、奇特な人の目に留まるか。一縷の望みを託して、彼女は人の耳目を集めようと、噂の的になろうと努めてきた。父には怒鳴られ、時には野次馬に笑われながら。
(無駄ではなかった……!)
感激に浸ったのも一瞬のこと、燦珠はあることに気付いて首を傾げた。
「ねえ、どうして
紅梅の花のもとでの一幕を振り返ると、父の
「天子様にお仕えするならちゃんとした──っていうか、名誉なお勤めでしょ?
霜烈を蹴り飛ばす算段をしたくらいには、燦珠への妾の誘いはありふれていた。屋敷の奥で踊らせてやるから、ということだ。
燦珠は芸を見せたいのであって、色を売りたいわけではない。父に言われるまでもなく、その手の下心を見せた連中にはことごとく痛い目を見させて諦めさせてきた。──それもまた、余計な手間だったような。
「梨詩牙が考えそうなことには心当たりがある。が、本人に聞いたほうが良いだろう。どうせ、そなたの後宮入りについては父親を説得せねばなるまい」
「そうかもしれないけど……」
父には、育ててもらった、技を仕込んでもらった恩がある。
何を言われようと燦珠が変心することはあり得ないけれど、どうせなら父の了承を得たい。これまでの経緯からして、きっと簡単なことではないだろうけど。
(女が役者って、そんなにいけないことなの……!?)
むう、と唇を尖らせる燦珠のことを、霜烈はもう見ていなかった。先ほどまで彼女に注がれていた熱を帯びた眼差しは、今は舞台に向けられている。……というか、燦珠と顔を合わせていた時よりもよほど、彼の目は熱く浮き立ち、頬も紅潮しているような。
「話は後で。ほら、
涼しげな声でさえ、どこかはしゃいでいるのを抑えているような響きがする。お世辞でも何でもなく、父の雷将軍を観るのが楽しみでならないらしい。
彼女自身も十分に
「ええ……良いけど……」
眼下では、軍勢を表す
天呼喊我名姓 天が我が名を叫ぶ
让大地裂開 大地よ裂けよ!
雷将軍上陣了 雷将軍の出陣だ!
銅鑼と
確かに、細かな所作のひとつひとつ、
(私も、客席から見るのは久しぶりだったわ)
それも、こんな特等席で。ならば後でできる話に意識を割くのは確かに野暮で、もったいないというものだ。燦珠も、椅子の向きを返ると正面から舞台を覗き込むことにした。
彼女が隣に並んでも、楊霜烈はちらりとも視線を上げることはなかった。名優の名演を前に、
* * *
終演後──
舞台の余韻冷めやらぬようで、語り合う声も大きく、時に身振りを交えてはぶつかり合ったりもしている。
「今日の梨詩牙はやけに熱演だったな」
「城を守り切れそうな勢いじゃなかったか?」
「
「ともあれ熱の入った
興奮した客たちを掻き分けるようにして、流れに逆らって楽屋へと向かう燦珠は、密かに苦笑した。確かに今日の父の演技はいつになく熱が入っていたけれど、彼女にはその理由に心当たりがあってしまうのだ。
(私のせい、なのかしらね……)
今日の演目、
守り切れるのでは、と思われるほどの熱演は、筋書きにある幼い君主と、後宮に攫われようとしている──父の目線では、たぶんそうなっている──娘を重ねてしまったからではなかろうか。
(でもまあ、皆喜んでるなら良い、のかな?)
沈着そうな男が意外にも大声を出したこと、しかも演技を邪魔しない、余韻を壊さない絶妙な間を捉えたことに、燦珠は結構驚いたのだ。
少しでも早く声を上げようとして悪目立ちする客もいる中で、通な真似をするものだ、と。ただの──本人の言を信じるなら──宦官でもこうなら、確かに後宮で
つまりは、燦珠はいよいよもって父の説得に成功しなければならないということだ。決意を固めながら、燦珠は勢いよく父の楽屋の扉を開いた。
「──すごかったわ、
捲し立てながら、
が、残念ながら父の目は娘ではなく、彼女が伴った黒衣の宦官をぎろりと睨みつけていた。手拭いの下から覗いたその目元は、
「……嫁入り前の娘をたぶらかしおって。玉無しだと知らなかったら殴り殺しているところだ……!」
「ちょっと、
物騒なだけでなく無礼極まりない、そして同時に怒りがありありと伝わる唸り声を間近に浴びて、燦珠は首を竦めた。でも、楊霜烈は罵倒を正面から受け止めて微笑み──優雅な所作で拱手した。
「
「…………」
丁重な口上を返されて、父は気まずそうにふいと横を向いた。敵意を剥き出しにされた上でのこの対応では、大人げない気分にさせられるのも無理はない。
(やっぱり『デキる』人なんじゃない……?)
父が黙ったところで、霜烈は手近な椅子を引っ張って勝手に掛けた。その機に乗じて、燦珠もふたりの間のところに席を占める。霜烈の隣に並ぶのでは、さすがに父が気の毒だと思ったのだ。
三者が位置についたのを見て取ってか、霜烈が口を開いた。美しく、そしてどこか妖しい笑みをうかべながら。
「そなたの娘は、後宮──
いきなりの本題に、燦珠は固唾を呑んで身を乗り出した。機先を制されたくらいで頷いてくれるような父でないのは、承知しているのだけれど。
「……女の
口元を歪めて吐き捨てた父の声も表情も、思った以上に険しいものだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます