第一部・上 燦珠、後宮に入る
一章 梅花、おのずから匂い立つ
第1話 梅花の精、舞う
貴族の庭園に下町の路地に。都の至るところに白や紅の花が咲き、馥郁たる香りを漂わせて春の訪れを告げている。
寒さを溶かす色と香は、市場の片隅にも
国の各地から訪れた人や馬や車を見守るように、見事な紅梅の木が枝一杯に花を咲かせている。荷の重さに俯くことなく、都の喧騒を見渡す元気がある者は、木の根元に華奢な人影がいることに気付いて目を
(うふふ、良い感じに集まってきたわね)
紅梅の精こと
彼女が纏うのは
「
「なんだ、何をやるんだ?」
「《
(正解!)
野次馬から聞こえた演目に、心の中で快哉を叫んでから。燦珠は両手をふわりと舞わせた。
さあ、独り舞台の開幕だ。
空と花の下、幕も伴奏も必要ない。彼女の細くしなやかな腕、眼差し、歌に仕草に足さばき──全身を使って、恋する梅の精の健気さを伝えるのだ。
(まずは、
紅を刷いた燦珠の唇が、高く震える声を紡ぎ出す。聞く者の心を揺さぶる切々とした語り掛けは、か細いようでいて市場の端にまで届くはず。そのように、彼女は鍛錬を積んでいる。
为什么他今年也不来 どうして彼は今年も来ないの?
我的花花空虚地分散 私の花が散ってしまうわ
目の高さに掲げた手から垂れる
梅の精の想いが募るまま、演じる燦珠の声も動きも高まっていく。
樹根阻碍我 根っ子は邪魔よ
脚を高く上げて、跳ぶ。地面に落ちた花弁を爪先で跳ね上げて、笑う。
甚至不需要樹枝 枝も要らない!
長い
背を反らし、首を巡らせ、腕を掲げて。自らが起こす旋風によって、花弁が舞い落ちるのを許さぬまま。梅の色と香りを纏って燦珠は歌い、そして舞う。
舞舞跳跳我飛向他 彼のもとへ飛ぶわ
他知道我的花香色 香りと色で私と分かる
あり得ぬはずの、羽ばたきによって花の香りを撒く紅い蝶。今や燦珠はその化身だった。
「
「
拍手と喝采が実に気持ち良くて、燦珠の回転はますます速く、歌声はますます高くなる。観客の熱狂が彼女を乗せていた。投げられる銭の澄んだ音が、
(そろそろね──)
舞い踊る紅い花弁の中で
人波に埋もれることなく、思い切り目立てる場所が良い。例えば──ちょうど良く積み上がった木箱、あれだ。距離と高さを目で測ってひと際強く、地を蹴った、のだけれど。
「この、
「──っとぉお!?」
花弁を枝から落とす、落雷もかくやの大声が響いて、燦珠は身体の均衡を崩した。
もちろん無様に転倒するなんてあり得ない。狙った木箱のやや手前にどうにか着地、腹筋に力を入れてぴんと立ち、亮相らしきものを決める。おー、という控えめな歓声と、ぱらぱらとまばらな拍手がどうにも間が抜けていて悔しい。
(今のさえ、なければ……!)
紅く染めた
彼女の熱演を台無しにしたその相手は、龍の刺繍を全面に施した衣を纏い、顔全体を赤と黒の
羽根で飾った被り物や、
「
「跳ねっかえりが大道芸の真似事をしていると聞いたのだ。これが座っていられるか!」
舞台用の
無粋極まりない横槍だけでなく、父の言葉も、彼女の逆鱗に触れた。先ほどまでは切々と恋情を歌い上げた高く澄んだ声が、今は怒りを帯びて響き渡り、驚いた鳥を飛び立たせる。
「大道芸? 大道芸ですって!? この人垣が見えないの!? 梨一門の
胡蝶の翅と舞っていた
「女の芸は余技に過ぎん。物珍しさで人目を集めて、嫁入り前の娘が恥ずかしいとは思わないのか」
「全っ然! 私と競ったら九割がたの
燦珠が思い切り舌を出すと、父の詩牙は戟を振り回して一喝する。当代きっての名優の
「お前は女だろうが!」
「女が女を演じて何が悪いのよ!?」
詩牙は、お転婆娘を回収しようと駆けつけたらしい。頭に血が上っているから、声量にも戟さばきにも遠慮がない。
舞台用のなまくらとはいえ、次々と繰り出される戟の切っ先を避けて、燦珠はまた
「嫁の貰い手がなくなるだろうが!!」
「行く気はないわ!!」
さっき目をつけた木箱の上に飛び乗って。さらに跳躍して梅の枝を掴み。勢いで回って、枝の上に仁王立ちして。燦珠は憤然と父を見下ろした。
「私は国一番の
「こうなると知っていたら教えておらん……!」
詩牙の声は怒りだけでなく後悔によっても震えているようだ。でも、後悔は先にできるものではない。血は争えないのか、
(今だって大受けだったじゃない……!)
舞台に上がれば喝采間違いなしと、証明したと思ったのに、頑固な父は目を覚まさないのだ。かくなる、上は。燦珠はす、と深く息を吸い──鍛えた喉と腹筋で、高らかに宣言した。
「──我が名は
「あ、こら、燦珠……!」
勝手に名前を出されて、父が狼狽えた声を上げた。許した覚えはないとか、そんなことを怒鳴ろうとしたのだろうし、燦珠も怒鳴り返す気満々だった。でも、それよりも早く──
「──乗った」
燦珠と詩牙、鍛錬を積んだ役者にも負けぬ、よく通る涼やかな声が響いた。
さほどの大声でもないのに、その場の人の耳目を吸い寄せるのは、名優のただひと声が舞台の空気を塗り替える様にも似ている。
「梨詩牙の娘、燦珠、か。私と共に来るが良い」
花を手折るように燦珠に白い手を伸べた──その声の主は、黒衣の男だった。
年ごろは、たぶん若い、としか言えない。背は高く姿勢正しく、老いた気配はまったく感じられない堂々とした佇まい。
一方で、あまりにも堂々としているから若輩とも断じ辛い。あるいは浮世離れしているというか。ただ、とてつもなく整った綺麗な顔をしているのは確かだった。
(
失礼かもしれない感想を抱きながら、燦珠はとん、と枝を蹴ると、宙で一回転してその男の前に降り立った。
同時に腕を──
「光栄ですわ、
妾の誘いだったら蹴り飛ばしてやろう、と思いながら燦珠は首を傾げた。この男はいかにも性欲のなさそうな顔をしているけれど、人は見かけによらないのは
燦珠の物騒な思惑を、知ってか知らずか。その綺麗な男は、ふわりと微笑むと長い指をある方角に向けた。
「あちらへ」
と、言われても、そちらに何がある訳でもない。劇場も、
(……うん?)
燦珠が逆の向きに首を傾けたのと、赤い影──舞台衣装を翻した父の詩牙が駆け寄ってきたのはほぼ同時だった。
「や、止めろ。娘はやらんぞ……!」
「さすがに梨詩牙は知っているのか。だが、私は娘に話しているのだ」
訳が分からなかった。綺麗な黒衣の男が何を仄めかしているのかも、父がこれほど慌てふためく理由も。ただ──何かが始まる予感に、胸が弾む。
「──
男の、形の良い唇が浮かべる笑みも、それが紡いだ知らない単語も。なぜか燦珠を惹き付ける。
「後宮にある、
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