残暑お見舞い

小此木センウ

残暑お見舞い(1話完結)

 振り向くとそこにはザンジバル諸島がいた。晩秋のとある日、とある大学の正門前である。

「やあ久しぶり。君も先生に?」

 残暑はうなずいた。

「そうなんだ。こんな時期に何の用だろうね」

 先生というのは国語学者の金田一氏のことで、二人は大学の氏の研究室に呼び出されたのである。

 ザンジバル諸島と肩を並べて研究棟へ向かう。金田一氏は著名な学者だが、それに比べて研究室の入る棟はボロく、残暑は嫌な予感を覚えた。


 ワイヤーが伸び切って段差のあるエレベーターで最上階に上り、「金田一」と書かれた安っぽいプレートの貼られたドアをくぐる。集まっていた他の客たちは、誰も仕事で一緒になる機会の多い顔見知りだったので、残暑はやや安心した。

「これで揃ったね」

 奥のデスクで金田一氏が立ち上がり、皆がそちらを向く。

「集まってもらってありがとう。今日の話は他でもない、次の辞書編纂についてなんだが」

「もうですか? 早いですね」

 斬奸が声を上げる。残暑も同意見だった。前回の版の売れ行きはかなり悪いと聞いていたからである。

「ああ。実はこの前の評判がどうもいまいちでね。こんな時代だから辞書なんてものはなかなか売れないんだ」

 金田一氏はシミのついた天井を見上げてため息をつく。

「それで版元とも話したんだが、今出ているのは早々に絶版にして、次は読者にわかりやすいように項目を絞ってページを減らすことになった」

 室内に動揺が走った。

「申し訳ないが、君たちには次の『ざん』の項からは降りてもらう」

「ちょっと待ってください!」

 声を張り上げたのは暫時である。

「固有名詞みたいなヤツらならまだわかるけど、私は一般名詞だ。ビジネスでも現役です」

「みたいなヤツらとはなんだ!」

 ザントマンが後ろから怒鳴った。

「それにあんたはほとんど死語だよ。今どき、暫時と漸次の区別がつかない人の方が多数派だしな」

「『漸次』も不採用が決まった」

 金田一氏が追い打ちをかける。

「なんてことだ」

 暫時は頭を抱えた。

「まあ、仕方ないよ。言葉は生き物だ。流行り廃りはあるさね」

 慚愧が暫時の背中を軽く叩く。

 残暑は比較的冷静に室内を見ていた。実は、自分は間違えて呼ばれたのではないかと思っていたのだ。他の項目と比べたら、自分はかなり頻繁に使われるし、昔と比べて機会が減ったとはいえ、ニュース等でも取り上げられないわけではない。

 金田一氏に問いただそうとその顔を見ると、氏は意図を察したのか残念そうに首を振った。

「悪いが、『残暑』も降板だ」

「そんな! どうしてですか」

「わかる気がする」

 残渣がつぶやいた。

「残暑って大体お盆からお彼岸くらいまででしょ。でも最近はお盆明けなんて夏真っ盛りだし、九月に真夏日が続くのも普通で、残暑って感じじゃないもんね」

「その通りだ。これも時代の流れだよ、わかってくれ」

 金田一氏が深々と頭を下げる。残暑も他の者も、それ以上何も言えなかった。


 がっくり肩を落として部屋を出ると、不安そうに待っていたジアスターゼと次亜塩素酸の二人組と目が合った。何か言いたそうに口を開きかけたのを、残暑は黙って首を振りながら通り過ぎた。


 自分はこのまま死語になっていくのだろうか。それを避けるために、来年こそは残暑といえる残暑が来るのを願うしかないが、正直期待薄だ。

 その日以来、残暑はふさぎ込んでしまった。

 そういうわけで、本人の精神面で、この冬の残暑は酷かった。

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