固有結界④/卯月渚杜②

 渚杜がかつて暮らしていた場所は現世と幽世の狭間。天狐が創り出した異界の中だった。入り口は四方。そこには小さな社が建てられており、柊乃たち四狐を模った石造が祀られていた。九尾狐の復活と共に百鬼夜行が開始され、妖怪たちは柊乃たちの社へ攻撃を仕掛けた。破られれば異界への扉が開き渚杜の居場所がバレてしまう。天狐の命により四人は自分の社周辺の妖怪討伐へと赴いた。


 『九尾狐が復活した……のですね』


 天狐はそう呟くと腕に抱いていた渚杜を地面に降ろした。四人が入り口を護っていても率いるのは九尾狐。四人が倒されるとは思えないが、九尾狐の目的が最初から渚杜であれば陽動の可能性が高い。であれば、九尾狐はやがてここの場所を突き止めてやってくる。


 『てんこ?』


 不安げに見上げる幼子の頭を優しく撫でた天狐は微笑みを向ける。


 『いいですか、渚杜。絶対にここから出てはなりませんよ。……例え、私が死んだと言われても。私は何があっても生きて貴方の元に戻ります。だから、約束……』


 『うん。やくそく……』


 そう言って二人は小指を絡めた。天狐の方が小指に力を少しだけ込めているのは渚杜の気のせいではないだろう。


 『渚杜、私の名前を呼んでください』


 『しらあい(白藍)』


 『ええ。それだけで私は無敵です。……行ってきます』


 背を向けた白藍に渚杜が『待って』と手を伸ばす。白藍の裾を掴み損ねて手が空を切る。白藍は異界の外で九尾狐を迎え撃とうと決めていた。異界の外に出た白藍を待っていたのは九尾狐ではなく、無数の妖怪たち。


 「……九尾狐はどこに?」


 疑問を口にした渚杜の隣で少女は「見ていれば分かる」と続きを見るように促した。


 一人残された幼子の元に声が届く。


 『こちらへ。私を助けてください。貴方の力が必要です……』


 白藍に似た声に渚杜の体が動きそうになる。けれど、渚杜は首を振り踏みとどまる。


 『ちがう。てんこはそんなこといわない』


 『チッ。ダメか。では……』


 渚杜の周囲に霧が発生し、周囲の景色が変わる。渚杜は不安そうに胸の前で手を組んだ。霧が晴れた頃、辺りは一面雪景色になっていた。


 「え……? 何だ、これ……?」


 見たことのない景色に渚杜が戸惑う横で少女は眉を寄せていた。


 『……あ、……!』


 幼子の視線の先、一人の女性が泣いている。動かない少年を抱き起した女性は言葉にならない声を上げながら泣き叫ぶ。



 ――もう、話を聞いてくれないのか? もう……触れてくれないのか……その声で名を呼んで、くれないの……か。約束……したではないか



 『なまえ……? やくそく……うっ、……』


 幼い渚杜は突然両手で頭を抑えるとその場に蹲った。駆け寄ろうとする渚杜の手を少女が掴んで引き止める。何故止めるんだ、と言いたげな顔で少女を見ると相手は静かに首を左右に振るだけだ。


 『きみのなまえ、は……う、ぁあ……っ』


 思い出そうとする幼子を阻むように頭痛が強くなる。それでも幼子は泣いている女性の元に向かおうとする。


 「ダメだ! 天狐に言われていただろ!? 九尾の罠だ!」


 幼い自分を止めようと渚杜が手を伸ばすが、これは過去を映した記録。掴めるはずもなく、すり抜ける。


 『なかない、で……』


 泣いている女性にあと少しで触れる寸前で、視界が歪んだ。泣いている女性が霧のように消え、白藍の作った異界から外に出てしまった。


 『あ……』


 邪気にまみれた空気、空には血のように赤い月、視界に映るすべてが赤く染まっていた。聞こえてくる声は百鬼夜行に恐怖する人の声。幼い渚杜はその場に崩れ落ちた。今まで異界の中で白藍たちに護られてきた渚杜にとって初めての外は刺激が強い。先ほどから続く頭痛と邪気にまみれた空気に幼子は息苦しささえ覚えた。助けてくれる人たちはここには居ない。渚杜は蹲り目をギュッと閉じた。それを見ていた九尾狐の口角が上がる。


 『ようやくだ。貴様さえ屠れば我の脅威はすべてなくなる』


 九尾狐が渚杜の前に降り立つ。おそらく天狐は渚杜が外に出たことに気付いてはいるが、妖怪たちの相手をしているためすぐには駆けつけられないだろう。そう仕向けたのだ、と九尾狐は嗤う。


 『可哀想に……。助けは来ぬぞ? 貴様は見捨てられたのだ』


 白藍に似た声に渚杜が顔を上げる。自分を見下ろすのは幻覚で見ていた女性と同じ顔。渚杜の思考が停止する。同じ顔なのに、纏う妖気は禍々しい。


 『だれ?』


 『誰、とはひどいな。貴様は儂を知っているはずだが? まあいい。やつが戻る前に済ませるか』


 九尾狐はそう零すと渚杜に手を伸ばした。理解出来ない幼子はその手をただ見ているだけ。何をされるのか予想出来ない子供の胸に九尾狐が指を当てた。妖力を解放した九尾狐の頭上には狐耳。背後には九つの尾が出現した。


 『っ……!』


 『ククク、カカカカカ! あはははは! やった、やったぞ!』


 呪詛を掛けられた瞬間、チリッとした痛みが走り幼子は顔を顰める。予定通り呪詛を掛けることに成功した九尾狐が高らかに嗤う。幼い渚杜は嗤う九尾狐を見つめていたが、突然心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚え、着物をきつく握った。次に息苦しさが襲い、幼子は体をふらつかせた。地面に倒れる寸前、九尾狐は渚杜の襟を掴む。


 『……天狐よ、遅かったなぁ』


 嗤い声を止めた九尾狐が振り返った先、白藍が息を切らしながら立っていた。着物や顔は返り血を浴びて汚れていたが、気にする余裕もない。珍しく顔には怒りが滲んでいた。


 『九尾……、貴様っ!』


 『お前の予想通りだよ。呪詛を掛けてやった。もう用済みだ』


 ほら、と九尾狐は渚杜を白藍の方へと放り投げた。宙に浮く小さな体を白藍は両手を伸ばしてキャッチする。渚杜から溢れるのは呪詛。白藍が渚杜の着物をずらして胸を見ると、九つの尾を模した痣が浮かんでいた。


 『っ……!』


 『ははは。千里眼を持つ貴様なら儂が童にこうすることも視ていたのではないか? それとも力が落ちたか? いずれにしても、貴様の油断のおかげで童に呪詛を掛けることが出来た。感謝するぞ』ククク、カカカカカッ! と九尾狐は嗤う。


 『この子を殺したいのであれば呪詛などと回りくどいやり方ではなく、直接殺せば良かったのでは? あの時のように』


 『ああ。あの時確かに儂はそやつを殺した。だが、こうして生まれ変わった。これでは意味がない。今回もただ殺すだけでは再び生まれ変わるだろう? だから、二度と生まれ変わらぬように呪詛を掛けてやったのだ。それが完成すれば童は魂ごと消滅し、生まれ変わることはない。ただ、欠点は完成に時間が掛かることだ』


 九尾狐がわざとらしく溜息を吐く。魂を消滅させるほどの呪詛の完成には条件があり、掛けるのは容易いが、呪詛はゆっくりと対象者の体に浸透し痣を染め上げる。それが染まりきれば呪詛が発動し、対象者は死を迎える。死を迎えるのと同時に魂は呪詛により喰いつくされ消滅する。


 『解呪方法はただ一つ。術者を殺すことだ。だが、貴様には出来まい。千年前、儂を殺すことが出来ず封じる以外出来なかったのだからな!』


 『ええ。その体はただの器。器を壊したところでお前は次を探すでしょう? それに気付いた私たちは器を壊すのではなく、封じることにした。お前の本体の名は加賀見 皇延(かがみ こうえん)。陰陽師であり人々を呪詛から護ってきた者の末路が怨霊とは……』


 『……儂の名を知りながら千年経っても本体を見つける事叶わぬ貴様たちには儂を倒すことは無理だ』


 『さて、それはどうでしょうか?』


 『なに?』


 白藍の返しに九尾狐の片眉が吊り上がる。動揺を見せない白藍にも腹立たしさを覚えていたが、さらに煽ってくる相手に九尾狐は警戒の色を強めた。


 『本体が見つからないと余裕を見せるのなら、何故この子を魂ごと消そうと思うのか。答えは簡単。この子はお前と器を切り離すことのできる唯一の存在だから』


 『……。だからどうした。童は記憶を継いでいない。呪詛の完成までに思い出さなければ儂の勝利は確実』


 『そうですね。まあ、あまり人を甘く見ない方がいいと忠告しておきますね』


 小さな独白は九尾狐には届いていない。勝利を確信し、酔っている相手に白藍も微かに口元を上げた。


 『しらいあ……?』


 渚杜が白藍を呼ぶ。白藍は『はい。渚杜。白藍はここにいますよ』と微笑めば幼子は安堵したように白藍に擦り寄った。抱き直した白藍も愛おしそうに渚杜の頭に頬を寄せる。


 『……覚悟は決まりました。九尾狐、お前は絶対に許さない。私の大事なものを奪っていくお前だけは』


 『許すも何も、貴様では儂は倒せぬ』


 鼻で笑う九尾狐を睨み付けた白藍の眼が妖しく光った途端、周囲に植えられていた木が動き出し、根が地面から出てきて九尾狐に巻きついた。体を捻って抜け出そうとするが、根はきつく締め上げてくる。幻術の類か、本物かと思考を巡らせようとして九尾狐はそれを放棄した。


 『単なる時間稼ぎか。なるほど、愛し子との最後の別れくらいは大人しくしてやろうぞ』


 『今の私でも九尾狐は倒せない。だから私たちはこの子に託した。あの子の願いもすべて未来に託した。もう少し成長を見守りたかったのですが……千里眼は時に厄介ですね』


 白藍はそう零すと渚杜を降ろした。幼いながらも何かを感じ取ったのか、渚杜が不安そうに相手の着物を掴んで見上げる。その瞳は潤み始めていた。白藍は一瞬、揺らぎそうになる決意に唇を強く噛む。


 『ああ。本当はもっと貴方と一緒に居たかった。あと少しだけ成長を見届けてから実行しようと思っていたのに……。その少しすら叶わない……』


 俯いた白藍の白い肌から一つ、また一つと涙が零れ、渚杜の頬に落ちた。


 『しらあい、ないてる?』


 白藍の涙を拭おうと手を伸ばす渚杜を白藍が抱きしめた。


 『しらあい、どうしたの? いたい? くるしい?』


 問うてくる幼子を抱きしめる腕に力を込めた白藍は『大丈夫です。もう、大丈夫』と自分に言い聞かせるように繰り返した。落ち着いた白藍は体を離すと、見上げてくる渚杜に顔を寄せた。前髪を掻き上げて露わになった額に己の唇を寄せる。軽く触れるだけの口付けをした白藍は『これは御守りです』と柔らかく微笑んで立ち上がる。


 渚杜がキョトンとしたまま白藍の触れた個所に手を持って行き、同じ個所に触れた。


 『おまもり?』


 『そうです。貴方を護るためのもの……』


 そう言って白藍は渚杜だけに結界を張った。


 『しらあい、しらあい!』結界の内側から白藍の名を呼ぶ渚杜に『行ってきます』と笑みを向け、九尾狐の方を見た。


 『茶番は終わりか?』


 『ふふ。お待たせしました。……それでは始めましょうか』


 根から解放された九尾狐は九つの尾を揺らしながら妖気をまき散らす。対して白藍は四本の尾を揺らし、神気を放った。両者同時に地面を蹴り距離を詰める。激しい戦闘が始まった途端、記憶が途切れた。

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