固有結界②/久坂綾音

 暗闇の中綾音は周囲を見渡した。渚杜も和貴の気配も感じない。闇の呑まれる前に見た少女と青年の仕業なのは間違いない。少女よりも綾音が気になるのは青年の方。あれは……


 「兄様……」


 彼は兄である明彦だ。十年前に行方不明になったきりの兄。家の者の目を避けながら兄を探していたが、見つけることが出来なかった。綾音が探していた理由は処刑のためではなく、何故九尾狐の封印を解いたのかを聞きたかったのだ。


 「え……? これって」


 考え事をしている間に闇が晴れた。綾音の視界に映るのは久坂家の屋敷。ここはファミレスの外だ。久坂家まで移動出来るはずがない。すぐに幻覚の類だと気付いたが、解き方が分からない。思考を巡らせている間にも場面が切り替わる。


 『綾音』


 『あにさま!』


 兄が名前を呼ぶ。それが嬉しくて少女が兄の元に駆け寄った。優しい兄。綾音は明彦のことが大好きだった。陰陽師の家系として厳格に育てられた綾音たちにほとんど自由はない。九尾狐を封じた久坂家はその功績から陰陽師の中でも高い地位にある。地位を守るために厳しい訓練を後継に課す。子供であろうと容赦はなく、外で遊ぶことは許されない綾音にとって兄は唯一遊んでくれる存在だった。


 (ああ。これは昔の記憶ね……。兄様がいた頃の)


 「懐かしいな……」


 どんな時も綾音の味方で傍に居てくれた兄。このまま兄と共に陰陽師になり九尾狐の封印を護るのだと思っていた。だからこそ、何故兄が封印を解いたのか分からない。



 ――こっちへおいで……



 『こえが……』


 幼い自分が呟いた声という単語に反応する。少女がきょろきょろと周囲を見渡し立ち上がった。家を出て向かったのは九尾狐が封印されている祠。祠に続く鳥居に足を踏み入れようとする自分を綾音は止めようと駆け寄った。

 記憶の再現なのであれば今の自分は介入が出来ないと理解しながらも止められずにはいられない。それよりも早く少女を止める手があった。鳥居に入ろうとする少女の手を掴んだのは明彦だ。


 『あにさま……』


 『綾音、帰ろう』


 促されて綾音は頷く。兄に手を引かれる少女はまだ声が聞こえているのか、後ろ髪惹かれるように何度も祠の方を見ていた。


 (……ああ。九尾狐に呼ばれたのは私だ。それを兄様が助けてくれたんだ……)


 さらに場面が切り替わる。それに綾音は双眸を見開いた。


 「え……?」


 薄暗い部屋の中で白装束を着た少女が泣いている。しゃっくりを上げながら溢れる涙を堪えられない。


 『しにたくない。しにたくないよぉ……!』


 死にたくないと繰り返す少女を綾音はジッと見つめる。


 (この記憶は知らない。なにこれ。どうして覚えていないの?)


 泣いている少女は久坂家の者に手を引かれて部屋から連れ出された。祖父の前に連れて行かれた少女は正座させられる。これから行われることに綾音は眉を寄せた。覚えていなくても嫌な予感はする。

 ここで目を逸らすことはしない。祖父が手をかざして咒文を唱えた瞬間、少女は一瞬だけ意識を失った。すぐに目を覚ました少女の瞳に光はなく、人形のようにその場に鎮座する。祖父の言葉に従うように立ち上がり大人たちに手を引かれた。向かう先は九尾狐の祠。



 ――さあ、こっちにおいで。喰ろうてやろうぞ。今度の餌は子供か。



 声が聞こえる。それが九尾狐の声なのだと分かるのは幼い頃に自分は家族に九尾狐の生贄として捧げられた頃の記憶を取り戻しつつあるからなのかとぼんやりと考える。


 (私は九尾狐の生贄として捧げられたのね……)


 疑問が生じた。何故、今生きているのだろうか。少女は人形のように祠に佇んだままだ。


 『眠れ』


 そう告げられた瞬間、少女を連れてきた大人たちが次々と倒れていく。少女は気にも留めず空を見つめている。大人たち全員が倒れた後、木々の間から青年が姿を現した。青年を見て綾音は「ウソ……」と呟く。現れたのは兄だった。明彦は綾音に駆け寄ると無事を確認して息を吐く。『良かった』と妹を抱きしめた兄は倒れる大人たちに冷たい視線を向けた。


 『母上だけでは飽き足らず、今度は綾音を生贄にする? そうじゃないと九尾狐の封印を維持できない? ははは。そんなことをしなければ維持できない封印ならいっそ解けてしまえばいい……』


 低く、冷たく放たれた言葉。それは幼い妹には届かない。虚ろな目で兄を見上げているだけだ。それを見た明彦は泣きそうな表情で妹を強く抱きしめる。


 『ごめんね、綾音……。お前を失うくらいなら僕は罪を犯すよ。あんな家無くなってしまえばいいんだ。……九尾狐、お前を解き放てば綾音は助かるんだよな?』



 ――そうだ。ついでにお前の嫌いな家もなくしてやろうぞ



 『分かった』



 ――愚かなやつだ。たかが妹一人の為にすべてを壊すのか



 『……お前には理解できないだろうね』


 明彦は自嘲気味に笑うと祠に近づいた。


 「待って兄様! そんなやつの戯言聞いたらダメ……!」


 無駄だと分かりながらも綾音は霊符に手を伸ばす明彦を止めようとする。綾音の手をすり抜けて明彦が封印を解いた。中から出てきたのは琥珀色の長髪に狐耳を生やした美女。九つの尾を揺らしながらクククと嗤う。


 『よくやったぞ。小僧。約束通り妹は助けてやろう』


 九尾狐が近づいて明彦を見下ろす。安堵の表情を浮かべる明彦の頬を撫でた九尾狐は口角を上げ『妹はな』と零す。その言葉を聞き取る前に少年は血を吐いた。


 『っ……、ぁ、……』


 「兄様!?」


 綾音は双眸を見開く。目の前で兄の体が九尾狐に貫かれた。真紅に染まる九尾狐の手。苦痛を浮かべる明彦の体から手を抜き、血を舐めとると九尾狐は嗤い声を上げ、倒れている久坂家の人間から魂を奪いながら鳥居へ向かう。九尾狐からおびただしい妖気が溢れ周囲の妖を呼び寄せる。従う妖たちを引き連れ九尾狐はどこかへ去っていった。

 一方、血を浴びた少女はそれでも意識が戻らず、地面に倒れる兄を見つめていた。


 「いやぁああああ! 兄様! 兄様!」


 兄が殺される瞬間を見ていた綾音は無反応な少女の代わりに叫んだ。血だまりの上に倒れる兄に駆け寄り起こそうとするが、触れられない。


 「兄様、どうして!? 術を……止血……」


 「無駄だよ。分かっているだろう? これは記憶の体験だって」


 背後から声が掛けられた。涙に濡れた顔で振り向くと、そこには明彦が立っていた。


 「どうして……?」


 疑問が口から零れる。明彦はふっ、と口角を上げた。


 「どうしてとは? 封印を解いたこと? それともなぜ目の前にいるのかってこと?」


 「その……両、方、で……す」


 嗚咽混じり答える綾音に明彦が「やっぱりね」と予め予想していたように肩を竦める。答える気はあるらしい。明彦は綾音の頬に手を添えると、親指の腹で涙を拭った。


 「封印を解いたのは、母上と綾音を九尾狐に捧げるような馬鹿馬鹿しいあの家に嫌気がさしたから。いっそ九尾狐の封印を解いてしまえばすべて無くなる。まあ、我ながら浅はかだったとは思うけれど、あの時の僕は母上を殺された怒りと綾音を奪おうとした久坂家への恨みで頭がいっぱいだったんだ……」


 「お母様は……病気で亡くなったって……」


 「僕もそう聞かされていた。でもね、たまたま隠し部屋で母上の手記を見つけてしまったんだ。そこには他に生贄になった人たちの事が綴られていて、母上も望んで生贄になったわけではないみたいで、怨み言が綴られていたよ……」


 暗い表情で語る明彦に綾音は言葉を失った。久坂家は九尾狐の封印を保つために裏では多くの命を犠牲にしていたのだ。


 「そんな……だって……」


 「まあ、言いたいことは分かるよ。はは、本当はこんなこと語るはずじゃなかったのにね……。主様の固有結界に巻き込まれなければ思い出すこともなかった記憶だろうに」


 「主様ってあの少女?」


 「そう。二つ目の問いに対しての答えにも繋がるかな。今度は少しだけ僕の記憶を見せてあげよう。その方が早いからね」


 明彦はそう言うと指を鳴らした。再び場面が切り替わる。

 九尾狐の手に貫かれた明彦は血だまりの中に倒れ、浅い息を繰り返していた。目の焦点あ合わず、あと少しで自分は死ぬのだと霞む意識の中で悟っていた。死ぬことは怖くない。

 けれど、未練はほんの少しだけある。未だに虚ろな表情で空を見つめる綾音のことが気がかりだった。まだ幼い妹を護る存在がもう居ない。封印を解き、九尾狐を解き放った自分が妹の心配をするのはおこがましいが、それでも妹の今後を心配せずにはいられなかった。次第に意識も途絶えそうになる明彦に声が掛けられる。


 『……まだ、生きているのか?』


 幼い声音に反応しようにも体は動かない。微かに聞こえる明彦の呼吸音からまだ生きていると察した声の主が膝を折り明彦に触れた。


 『あいつの虚言に踊らされた童よ、私と共に来るか? 私なら死の淵から救うことが出来るぞ? ただし、お前は元の生活には戻れない』


 ほとんど意識のない明彦だったが、辛うじて少女に自分の意思を伝えた。それを受け取った少女が『分かった』と呟いた瞬間、少女に四つの尾が出現した。少女が何かを唱えた後、目を覚ました明彦を連れて少女は綾音の前から去った。


 「兄様が今生きているのは、少女のおかげ……?」


 「そう。僕の主様。あの方と出会わなければ僕はあの時に死んでいた。それから今まで主様とずっと行動を共にしていた」


 「……あの少女は何者なの?」


 綾音の問いに明彦はさあ、と笑顔で肩を竦める。見ていた記憶から分かることは少女が四尾の狐であることだけ。四尾の狐で思い起こせるのはこの地を守護している四狐や天狐だが、少女の容姿は彼らの容姿の情報と当てはまらない。知らされていない霊狐がまだいるという事なのだろうか、と綾音は考え込んだ。


 「と、まあ以上が綾音の疑問に対しての答えかな?」


 「この結界が解かれれば兄様はまたいなくなるの?」


 綾音の問いに明彦は柔らかく微笑むと妹の頭を優しく撫でた。互いに成長してはいても感覚はあの時のまま。何も変わっていない兄の優しい手に綾音は泣きそうになる。


 「僕のすべてはあの方の物。これからもあの方と行動を共にすると誓ったんだ。それに僕はもうあの家には戻ることはない」


 「それは……」


 「綾音」


 名を呼ばれて顔を上げると、明彦は真っ直ぐ綾音を見つめた。


 「あの方の行動次第で僕は綾音や渚杜くんと敵対することになるかもしれない。でも、その前に綾音とこうして言葉を交わせて良かった。……元気でね」


 そう告げた瞬間、綾音は強い眠気に襲われた。ふらつく体を明彦に抱きとめられた綾音は抵抗出来ないまま意識を閉ざした。明彦は眠る妹を抱きかかえて固有結界の外へと向かって歩き出した。


 「……兄、様……」


 (もう話せないと思っていたけれど、綾音と最後に話せたのも主様のおかげですね……)


 寝言を零す妹を見つめる明彦は今だけ昔と同じ兄の顔になった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る