その日、私は車になった

 私は大学で農業を専攻していた。だから、学校には農業研修なる単位があった。要は田舎に泊まろうみたいなもんで、二週間ほど田舎に泊まり込み、農業を体験をする。


 私が研修先に選んだのは福岡県の八女市やめし。八女茶で有名なお茶の名産地である。中山間地ちゅうさんかんちと呼ばれる農業に不向きな土地でどんな研修ができるのか。期待に胸膨らませていた。


***


 新幹線がトンネルに入る。それまで外の景色を映していた窓は場面を切り替え、黒い画面にうっすらと車内の様子を映し出す。


 ──飛行機にすればよかった


 窓に反射する吉田の間抜けな寝顔を拝みながら、私は選択を後悔していた。


 空路を使わず陸路で研修先へ向かったのだ。当初は同じ研修先のものどうし、新幹線で仲良く懇親こんしんしよう、などとのんきなことを考えていた。

 まさに夢物語、現実が見えていない。東京から博多まで5時間である。窓から富士山が観えるころには、とうに話題も尽きていた。


 東京から博多まで5時間、在来線へ乗り換えて1時間、最寄り駅からバスに揺られて1時間、バス停から教授の車で搬送され、ようやく目的地にたどり着いた。


 受け入れ先の農家で挨拶する頃には、吉田もその端正な顔に疲労の色を浮かべていた。我々二人の様子はまるで残業終わりの会社員。まだ研修は始まってすらいないのに。


 それでも、私達二人は農家のおじさん・おばさんに温かく迎い入れられ、四人だけの歓迎会のあと、布団のなかでぐっすりと眠りにつくのだった。




 翌朝より私たちの農業体験が本格的に始まった。



 道路どうろ側溝そっこうのどぶさらい。神社じんじゃ境内けいだいの掃き掃除。ため池の鯉の餌やりに、農家のおじさんの将棋相手。


 そう、結論から言ってしまえば、農業なぞ体験しなかった。


 午後の三時には大体の仕事が終わる。


 「このままじゃ研修後の感想レポートに書くことがない」

 「おばさんの夕飯の献立でも書いておくか」


 日の傾いた集落の周りを散歩しながら、私と吉田はのんきな会話で笑いあっていた。



 このときはまだ、最後に山場を残しているとは思ってもみなかったのだ。



 ***



 気付けば最終日前日になっていた。翌日は移動するため、この日が実質の最終日である。


 朝食後、珍しくおじさんから「畑に連れて行く」と言われ、私と吉田は軽トラの荷台に乗り込んだ。降ろされた場所は、雑草の生い茂る、荒れ果てた畑。

 何を隠そう、二週間の農業体験で、初めての畑である。そのまま草刈機の使い方の手ほどきを受け、どの畑を綺麗にすれば良いのか教えて貰った。


 腰の高さまで生えそろった草原を前にすると、素人目にはどこまでが畑なのかも分からない。思ったより広大な国土を有しているらしい。

 我々二人は重い草刈り機を肩からぶら下げると、エンジン音をかき鳴らしながら、草むらへと入っていった。



 ──いったい何時間刈り続けただろうか。



 いつのまにか日は高く上り、我々を強く照りつけていた。


 経験のある方は分かるかもしれない。エンジンの振動を受け続けていると血行障害で腕が痺れてくる。暑さと痺れの合わせ技により、両腕は次第に重くなっていく。


 こうして、結構な土地をひらき終えたころ、おばさんが弁当を持ってやってきた。

 昼休みにしよう。おじさんが大きく呼び声を上げる。私と吉田は目を合わせると、とぼとぼと木陰こかげに向かっていった。



 水、まずは水が欲しい。



 身体中からだじゅうの水分を奪われていた私は、乾いた眼球で飲み物を探す。


 2リットルのペットボトルが2本、木の幹のところに置いてあるのが見えた。一本はスポーツ飲料水、もう一本はお茶だった。


 幼いころから「ジュースは悪だ」と言われてきたので、私は迷わずお茶のペットボトルを手に取る。ぼんやりとした意識のなか、どことなくおかしい気がしていた。



 ひとつ、やたらお茶のペットボトルだけが土にまみれて汚れていたこと。


 ふたつ、ペットボトル越しに見えるお茶の色が心なしか薄かったこと。


 みっつ、なぜかペットボトルの蓋に針金が付いていたこと。



 とはいえ、ながく待ちわびた飲み物である。深く考え直す力は残っていなかった。紙コップにお茶を注ぎ、急ぐように口元へ運ぶ。

 腑抜ふぬけた顔でこちらを見つめる吉田と目が合った。



 次の瞬間、今まで体験したことのないような刺激が口内を襲う。それはあまりに一瞬だった。強烈な苦みと酸味の混ざった感覚があっという間に口内を覆った。


 思わず私は、液体を天に吹き出し、怪物の断末魔のような奇声を上げる。


 口から液体を吹き出すその姿は、まるでシンガポールのマーライオン。突然の奇行に走り出した私を見て、おじさん・おばさんが心配そうにこちらを振り返る。一方の吉田は先ほどと変わらぬ表情でこちらを見つめていた。


 おじさんは蓋の空いたペットボトルを見て驚きの声を上げる。私がお茶だと思っていた飲み物はガソリンだったのだ。


 おじさんは心配そうに私の体調を気遣ってくれた。優しさが喉にしみた。

 おばさんは豪快に笑っていた。ガソリンを飲んで救急搬送された、近所の人の笑えない実例を添えて。



 そして、私を見殺しにした吉田はというと、


「そっちを飲む人もいるんだ、と思って」




 私はね、車じゃないんですよ。

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